第80話 二人だけのものではなくて
「――佐藤一真くん。改めて、凛をよろしく頼む」
その言葉と共に交わした握手。お父様――宗二郎さんの掌は驚くほど大きく、そこから伝わってきたのは、見た目の威圧感からは想像もできないほどの、娘を想う不器用な熱量だった。
正直、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張したが、なんとか「騎士」としての最低限の役目は果たせた……と思う。
「……ふぅ」
俺は小さく息を吐き、リビングの時計に目をやった。時刻は午後六時を過ぎたところだ。
「……あの、凛。そろそろお暇しようかな。あまり長居しても悪いし、お父さんもお仕事の後で疲れてるだろうから」
「えっ? あ、そうだね。……今日は本当にありがとね、一真。……また夜、ログインして……」
凛が少し名残惜しそうに俺の袖を掴んだ、その時だった。
「――ただいまぁ! いやぁ、今日のスーパー、タイムセールが凄まじかった!」
玄関から、お父様の重低音とは対照的な、よく通る明るい女性の声が響いた。
直後、両手に大きな買い物袋を抱えた女性が、ぱぁっと場を明るくするようなエネルギーを纏ってリビングに入ってきた。
凛によく似た華やかな顔立ち。けれど、その瞳には凛よりもさらに活動的で、何事も楽しもうとする瑞々しい光が宿っている。
「あら? お客さん?」
その女性が俺に気づき、足を止めた。俺は慌てて背筋を伸ばし、一歩前に出て頭を下げる。
「……初めまして、佐藤一真です。今日はお邪魔しておりま――」
俺が最後まで言い切るより先に、彼女は「あ!」と声を上げた。
「あぁ! あなたが噂の佐藤一真くん!? 雫から聞いてたわよぉ、凛の『相棒くん』が来るって!」
彼女は買い物袋をテーブルに置くと、軽やかな足取りで俺の前までやってきて、まじまじと俺の顔を覗き込んだ。
「いいわね、真っ直ぐな瞳! 凛、あんた本当にお目が高いわ。さすが私の娘ね。あ、ごめんなさいね、自己紹介が遅れちゃった。私は凛の母親の華代子よ。よろしくね、一真くん!」
華代子さんは屈託のない笑顔でそう言い、俺の肩を優しく叩いた。
フレンドリーが過ぎる。
「――も、もう! お母さん、いきなり何言ってるのよ!」
凛が真っ赤になって抗議するが、華代子さんは楽しそうに笑いながら、ソファーで再び新聞を広げ始めた宗二郎さんを振り返った。
「ほら、お父さん! いつまで格好つけてるの。さっきまで『あの子、僕のこと怖がってなかったかな?』って私に心配そうにメッセージ送ってたくせに」
「…………!! 華代子! 余計なことを言うなと言っただろう!!」
お父様が新聞で顔を隠すようにして声を荒らげる。……なるほど、この家ではお母様が一番の「実力者」であり、お父様は完全に手のひらの上らしい。
「……。あの、本当に今日はお邪魔しました。華代子さん、そろそろ失礼しますね」
俺が改めて帰宅の意思を伝えると、華代子さんは意外そうな顔をして俺の腕を軽く止めた。
「え? 一真くん、もう帰っちゃうの?」
「……え、あ、はい。もう夕食時ですし、ご迷惑かと思いまして」
「何言ってるの! 今日はあなたが来るって言うから、奮発していいお肉買ってきたのよ? お父さんもね、実は午後からずっと一真くんと一緒に食べるのを楽しみにしてたんだから。食べていかないなんて、おばさん悲しくなっちゃうわ」
「…………っ!!」
お父様がさらに顔を真っ赤にして黙り込む。雫さんは「あはは! お父さんの隠し事が全部バレてるわね」と、楽しそうに俺と凛の顔を交互に見ていた。
「一真。……どうしよっか?」
凛が、少しだけ期待を込めたような瞳で俺を見てくる。
(……断れるわけがないだろ、この空気で)
俺は観念して、小さく溜息をつきながらも、口元を緩めた。
「……分かりました。お言葉に甘えて、ご馳走になります」
「やった! そうこなくっちゃ! さあ、凛、一真くんの隣を確保しなさい。お父さんと私はキッチンで準備するから!」
華代子さんのテキパキとした指示で、東雲家の夕食準備が始まった。
******
三十分後。
テーブルの上には、お父様が(実はこっそり練習していた)ローストビーフと、華代子さんが作った彩り豊かな料理が並んでいた。
「はい、それじゃあ夏休みの始まりに乾杯!」
華代子さんの明るい音頭で、夕食が始まった。
俺の右隣には、凛。左隣には、相変わらず無言だが、時折俺の皿に「これ、美味いぞ」と肉を無造作に乗せてくる宗二郎さん。
正面には、微笑みながら俺たちを見守る雫さんと華代子さん。
「ねえ、一真くん。凛ってゲームしてる時、結構うるさくない? 大丈夫?」
「ちょっと、お母さん! 余計なこと聞かないでよ!」
「……ええ、負けそうになると『カズのバカ!』って叫びながら、コントローラーをベッドに叩きつけてる音、よく聞いてましたから」
「――――っ!!(死)」
俺がボソッと答えると、リビングが和やかな笑い声に包まれた。お父様さえも、「……フッ」と短く鼻を鳴らして笑っていた。
「ふふ、やっぱり相棒ね。凛の素顔を一番知ってるのは一真くんなのね」
華代子さんは俺のグラスに麦茶を注ぎ足すと、少しだけ真面目な、優しい顔で俺を見た。
「一真くん。凛を、これからもよろしくね。この子、昔からちょっと不器用だったけど、一真くんの話をしてる時が一番楽しそうなの。……あなたが、凛の隣にいてくれて、本当によかったわ」
「…………。はい。頑張ります」
俺は力強く答え、隣に座る凛を見た。
彼女は、少しだけ照れくさそうに、けれど最高に幸せそうな笑顔を浮かべて、テーブルの下で俺のシャツの裾を、ぎゅっと握り締めていた。
「…………一真。ありがと」
誰にも聞こえない声で、そう囁いた。
学校では、他人のふり。
けれど。
この賑やかで、明るくて、最高に温かい「家族」の輪の中で。
俺は、東雲凛の相棒として。そして、一人の男として。
これから始まる夏休みのすべてを、彼女と一緒に攻略していく覚悟を、改めて固めたのだった。
「さあ! デザートは冷えたスイカよ! 一真くん、甘いところから食べてね!」
「華代子、あんまり一真くんを甘やかすな。……一真くん。……これ、食え。塩、振っておいたから」
お父様が差し出してきたスイカを、俺は笑って受け取った。
最強の姉。最恐(だけど不器用)な父。そして最高の太陽のような母。
俺たちのログイン画面は、もはや二人だけのものではなくなっていたけれど。その賑やかさが、今の俺には、どんなクエストの報酬よりも愛おしく感じられた。




