第8話 俺にしか見えないサイン
水曜日、朝。
教室に入った瞬間、俺の視線は無意識にある一点を探してしまった。
窓際の席。朝日を浴びて、友人たちと楽しそうに笑っている美少女。
東雲凛。
昨日、夜の堤防で一緒にコンビニのアイスを食べ、「勇気を出してよかった」と少し泣きそうな顔で笑った、俺の相棒。
……今の彼女は、誰が見ても完璧な「東雲さん」だ。
さらさらと流れる黒髪も、凛とした制服の着こなしも、昨日俺の隣で「石ころくん!」とはしゃいでいたハルと同一人物だなんて、やはりどこか現実味がない。
「――よお、一真。お前、今日は一段と上の空だな。昨日の古本屋巡り、そんなにいい収穫でもあったのか?」
隣の席の門倉海斗が、ニヤニヤしながら俺の肩を叩いた。
「……。……まあ、ちょっとな」
「へぇー。……あ、おい。見てろよ。今日の東雲さま、いつもよりさらに『光り輝いて』見えるのは俺の気のせいか? なんかこう、内側から溢れ出すハッピーオーラっていうか……」
海斗の観察眼は、こと東雲さんに関しては異常に鋭い。
確かに、今日の東雲さんはいつにも増して表情が柔らかい気がする。
「……凛りーん、なんか今日いいことあったでしょ! 咲希、知ってるんだからねっ!」
東雲さんの隣で、一ノ瀬咲希さんが犬のように鼻をクンクンさせて詰め寄っている。
一ノ瀬さんも、東雲さんと同じく学園のトップ2に君臨する美少女だ。その無邪気な瞳が、時折鋭く光るのを俺は知っている。
「もー、咲希は考えすぎ。普通だってば」
「えー、嘘だぁ! 昨日のミーティングの後、あんなに急いで帰ったのに、今朝はこんなにニコニコだなんて……。絶対、何かあったよぉ!」
東雲さんは困ったように笑いながら、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、教室の後ろにいる俺の方へ視線を投げた。
(――……)
俺と彼女の目が合う。
東雲さんは、一ノ瀬さんに見えない角度で、左手で小さく「グッド」を作って見せた。
どういう意図かは分からないが、俺にしか見えていない合図。
(――っ!?)
心臓がドクンと跳ねる。
俺は慌てて目を逸らし、カバンの中から教科書を取り出した。
心臓の音がうるさすぎて、海斗に聞こえてしまうんじゃないかと不安になる。
「……? 一真、お前、耳赤いぞ。やっぱり風邪か?」
「……。……うるさい。朝は血圧が低いんだよ」
適当な言い訳をしながらスマホを確認する。
授業中は連絡しない約束だが、始業前ならセーフだ。
【凛:カズ、おはよ。昨日のパフェ、ちょっと胃にもたれてるかも(笑)】
【凛:でも、アイスは最高だったね。……今日も、頑張れそう。相棒!】
机の下でスマホの画面を眺め、俺は必死に頬が緩むのを耐えた。
東雲凛という「学園の天使」からのメッセージ。
それを独占しているという優越感と、いつかバレるんじゃないかという恐怖。
その二つが混ざり合って、脳内が麻薬的な快楽で満たされていく。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
……一ノ瀬さんだ。
彼女は東雲さんの腕に抱きついたまま、じーっと、それこそ穴が開くほどに俺のことを見つめていた。
「…………ねえ、凛りん」
「……なに、咲希?」
「カズッチくんってさ……あんなにスマホ見てニヤニヤするタイプだったっけ?」
「…………っ!!」
俺は音速でスマホをポケットに放り込んだ。聞こえてないふりを必死にする。
一ノ瀬さんの、その無自覚に核心を突いてくる能力が恐ろしい。
「えっ……。さ、佐藤くんが? 気のせいじゃないかしら。……ほら、咲希、もうすぐ予鈴が鳴るよ。席に戻らなきゃ」
東雲さんが、少しだけ焦ったような声で一ノ瀬さんを促す。
一ノ瀬さんは「うーん……」と納得いかない様子で、最後に一度だけ俺をジロリと見てから、自分の席へと戻っていった。
……危なすぎる。
東雲さんも東雲さんだ。あんなアイコンタクトとサインを送ってくるから。
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってくる。
俺は前を向き、教壇に向かって背筋を伸ばす東雲さんの後ろ姿を眺めた。
彼女のスマホの裏側には、まだあのドラゴンさんのシールが貼ってあるのだろうか。
それを確認することはできないけれど、昨日の堤防で感じた彼女の温もりは、まだ俺の指先に残っている気がした。
放課後になれば、また彼女は部活へ行き、海斗と一緒にバスケの練習に励む。
俺は一人で帰宅し、パソコンの前で彼女の帰りを待つ。
学校という名の「表」の世界では、俺たちは決して交わらない。
けれど、昨日のアイスの味と、スマホに残った二通のメッセージが、俺たちの「裏」の繋がりを何よりも強く証明していた。
(……この関係、絶対に壊しちゃいけないな)
昨日の夜、月を見ながら誓った言葉を、俺はもう一度心の中で繰り返した。
一ノ瀬さんの鋭すぎる直感という嵐が近づいている予感はあったが、それでも俺は、この「秘密の特等席」を、何があっても守り抜こうと決めていた。
俺の視線の先で、東雲さんがほんの少しだけ、首筋をかいた。
それは彼女がネトゲで「作戦を考えている時」に出る、俺しか知らない小さな癖だった。
彼女も今、昨日のことを思い出しているのだろうか。




