第68話 相棒→恋人
夜空が、一瞬の静寂に包まれた。
先ほどまでの連発打ち上げが残した白い煙が、風に流されてゆっくりと薄れていく。
俺の胸元に顔を預けていた凛が、ゆっくりと顔を上げた。
「一真。今の、聞こえなかったでしょ?」
凛は少しだけ首をかしげ、いたずらっぽく微笑んだ。
花火の轟音に紛れて、彼女が紡いだ「何か」。
俺はあえて、その答えを彼女に求めなかった。
これから俺が口にする言葉こそが、三年間積み上げてきたすべてのログに対する、唯一の正解だと確信していたからだ。
「ああ、聞こえなかったよ。だから、今度は俺の番だ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、けれど真っ直ぐに彼女へと届いた。
凛の大きな瞳が、驚きに揺れる。
俺は逃げ道を塞ぐように、彼女の華奢な両肩を、掌でしっかりと包み込んだ。
「凛」
名前を呼ぶ。
その瞬間、彼女の細い肩がピクッと跳ねた。
街灯の薄明かりの下で、彼女の白い肌が朱に染まっていくのがわかる。俺は、視線を逸らそうとする彼女の顔を、真っ向から見据えた。
「もう、親友なんて言葉で逃げるのは、今日で終わりにする」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていた重たい塊が、熱を帯びて溶け出していくのを感じた。
俺は今まで、この「親友」という言葉にどれだけ救われ、そして甘えてきただろうか。
クラスの美少女。学園のアイドル。住む世界が違うはずの彼女と、対等にいられるための最強の盾。
けれど、その盾はいつしか、彼女の本当の想いから俺を遠ざけるための、卑怯な檻になっていたのだ。
「俺さ、実はお前にずっと嫉妬してたんだ。学校で東雲さんが他の奴と楽しそうに話してるのを見るたびに、心臓の奥が焼けそうに熱くなってた」
俺が本音を曝け出すと、凛は息を呑んで固まった。
彼女の瞳には、夜空の月よりも明るい熱が宿り始めている。
俺は、彼女を壊さないように、けれど決して離さないという意志を込めて、肩を握る手に力を込めた。
「海斗に凛って呼び捨てにされるのも、他の男子がお前を『天使』だって拝んでるのも、本当は全部、我慢できなかった。……でも、俺は親友だから、相棒だからって。そんな言い訳をして、自分の独占欲にずっと蓋をしてたんだ」
三年前、ボイチェンの声で始まった関係。
深夜、カップ麺をすすりながら笑い合った時間。
ネカフェで重なり合った肩の温度。
それらすべてが、俺の中の「佐藤一真」という男を、一歩ずつ、確実に変えていった。
騎士は、もう盾を構えて待っているだけでは満足できない。
お姫様を、自分だけの城へと連れ去るための「覚悟」が必要なのだ。
「俺は、お前を誰にも渡したくない。東雲凛を、一人の男として独占したいんだ」
言い切った瞬間、俺の視界はさらに鮮明になった。
凛は目を見開き、呼吸を止めたように俺を見つめている。
彼女の細い手首が、俺の腕のすぐそばで、激しい心拍を刻んでいるのが伝わってくる。
「ハルの相棒のカズとしてじゃなく。佐藤一真として。……お前に、俺の隣にいてほしい」
これが、俺の人生で最も重く、最も不器用な、最高難易度のクエスト。
攻略法なんてどこにも書いていない。ただ、目の前の彼女が笑ってくれることだけを願って、俺はすべてのバフを投げ打った。
「親友は、今日で解散だ。……俺の、彼女になってくれ。凛」
世界が止まった。
風の音も、遠くの祭囃子も消え去り、ただ、俺と彼女の呼吸だけがその場所に存在していた。
凛は、しばらくの間、呆然と俺の顔を眺めていた。
やがて、彼女はふっと力を抜くと。
今まで見たこともないような、ひどく幸せそうで、それでいて最高に生意気な、あの『ハル』の笑顔を咲かせた。
「……にひひ。遅いんだよ、バカ一真」
彼女はそう言うと、俺のシャツの胸元を、両手でぎゅっと握り締めてきた。
泣いてなんかいない。彼女の瞳には、夜空の花火よりも力強く、勝ち誇ったような輝きが満ちていた。
彼女は一歩踏み出し、俺の胸板に、わざと強く額を押し付けた。
「遅すぎるよ。私、三年前からずっと、一真にだけは『天使』じゃない私を見せ続けてきたんだよ? これ以上のワガママ、他にあるわけないじゃん」
凛の声は、弾むような喜びで震えていた。
彼女は顔を上げないまま、さらに俺のシャツを強く引き寄せた。
「夏祭りに誘わせたのも。浴衣を選ばせたのも。全部、一真にこう言わせるための私の『ハメ技』だったんだから。……マヌケな騎士サマをここまで誘導するの、本当に大変だったんだよ?」
「……。……そうかよ。お前の掌の上だったわけだ」
「当たり前でしょ。……。でも、いいよ。……。合格。……。一真の騎士、今日でクビ。……明日からは、……。私の『彼氏』として、一生私をエスコートしなさいよね」
凛は、顔を上げた。
真っ赤な顔で、けれど最高に誇らしげな笑顔で。
彼女は俺の首筋に手を回し、指を絡めて、逃げられないように俺を引き寄せた。
「佐藤くん。ううん。……。一真。……大好きだよ。……相棒として……じゃなくて。……一人の男の子として、世界で一番、愛してる」
その瞬間。
そして背後で、天を裂くような巨大な音が響いた。
――ヒュゥゥゥゥ……。
――ズドォォォォォォォォン!!!
今夜最大の、フィナーレを飾る一尺玉が、夜空に巨大な黄金の華を咲かせた。
世界が昼間のような明るさに包まれる。
光の洪水の中で、俺は彼女の細い腰を引き寄せ、その温もりを全身で確かめるように抱きしめた。
金色の星屑が、俺たちの周りに降り注いでいるような気がした。
腕の中に収まった、小さくて、温かい彼女の心音。
三年前、モニターの光に照らされて始まった俺たちの物語は。
今、この真夏の夜空の下で、本物の「真実」へと姿を変えた。
「……凛。俺もだよ。……大好きだ。……。お前以外のなんて、想像もできねーわ」
「にひひ。……。……当たり前でしょ。……。私の隣は、……。……一真の『特等席』なんだから」
俺たちは、どちらからともなく顔を寄せ。
打ち上がる花火の光に照らされながら。
三年間、お互いの声を、体温を、魂を追いかけ続けてきたその唇を。
優しく、けれどこれからの人生すべてを約束するように、深く、重ね合わせた。
親友という名の、安全で臆病な季節は、今、終わった。
俺たちの新しいログイン画面。
そこには、「ハル」と「カズ」ではない。
世界で一番不器用で、世界で一番幸せな、恋人同士の名前が刻まれていた。




