第67話 夜空の花に彩られて
――ドォォォォォン!!
大気を震わせる巨大な衝撃波が、俺の肺を直接叩いた。
夜空には、打ち上がったばかりの紅蓮の大輪が、その残光を星屑のように撒き散らしながら消えていくところだった。
十分ほど登った、古い展望台。
下界の喧騒は遠く、聞こえるのは夜の森を抜ける風の音と、数秒おきに夜空を塗りつぶす花火の咆哮だけだ。
「すごい。本当に、すごいよ。一真」
俺のすぐ隣、錆びついた手すりに身を乗り出すようにして、空を見上げている凛が言った。
光が弾けるたびに、彼女の白い横顔が赤、青、金と鮮やかに彩られる。
アップにまとめられた黒髪から覗くうなじの白さ。俺が選んだ髪留めが、閃光を反射してキラキラと瞬く。浴衣の袖をぎゅっと握り締め、少女のように目を輝かせている彼女の姿は、この世のどんな景色よりも美しく、残酷なほどに俺の視線を釘付けにしていた。
「ああ。そうだな。ここからだと、お前が言った通り、おもちゃ箱をひっくり返したみたいだわ」
俺――佐藤一真は、辛うじてそれだけの言葉を絞り出した。
けれど、俺の目が夜空に向かうことはほとんどなかった。
俺が見ているのは、俺の心臓をこれほどまでに狂わせているのは、一発で数千人が歓声を上げる空の華なんかじゃない。
今、俺のすぐ隣で、俺と同じ空気を吸っている、この一人の女の子なのだ。
繋いだままの右手に、意識のすべてが集中する。
さっきの山道で、鼻緒が痛くなった彼女を支えるために繋いだ手。
もう、痛みなんて引いているはずだ。歩く必要もない。
なのに、俺たちはどちらからともなく、指を絡めたままの『恋人繋ぎ』を解くことができずにいた。
本当は、解きたくないのだ。
この手のひらから伝わってくる、彼女の熱。
花火の音に紛れて聞こえる、彼女の少し早まった呼吸。
「ねえ、一真」
不意に、凛が俺の方を向いた。そして俺の名前を呼んだ。
特大の黄金色のしだれ柳が夜空を埋め尽くし、世界が真昼のような明るさに包まれた瞬間だった。
彼女の瞳の中に、光の粒と、そして情けないほど真っ赤な顔をした俺の姿が映り込んでいた。
「なに、凛」
「私さ。三年前、一真にフレンド申請送ったときのこと、今でもはっきり覚えてるよ」
「ああ。忘れるわけないだろ。『暇なら付き合ってよ、ヘボ騎士サマ』……だっけ?」
「にひひ。正解! あの時の私は、本当に暇つぶしのつもりだったんだよ」
凛は、繋いだ手をさらに強く、痛いくらいに握り締めてきた。
「それから一真は私のわがままに、三年間、一回も逃げずに付き合ってくれた。私の声が偽物でも、中身がハルならそれがお前の相棒だって、ずっと信じてくれた。嬉しかったなぁ……」
――ヒュゥゥゥゥ。
――ドォォォォォン!!
また一発、大きな花火が上がる。
その轟音を背負いながら、凛はさらに俺との距離を詰めた。
浴衣の生地が触れ合う。彼女の髪から漂う甘い香りが、夜の冷たい空気の中で、そこだけ熱帯のような温度を持って俺の理性を焼き尽くそうとする。
「ねえ。今の私、『東雲凛』に見える?」
「見えるよ。クラス中の奴らが拝みたがるような、最高に綺麗で、学園一の美少女に見える」
俺が本音を漏らすと、凛は切なそうに、けれど愛おしそうに目を細めた。
「じゃあ、『ハル』は? ここにいるのは、カズの三年来の、最低で最高の、相棒のハルかな?」
「ああ。お前がどんな格好してても。お前が俺を煽って、笑って、隣にいてくれる限り。お前は俺のハルだよ。東雲凛じゃなくても、ハルじゃなくても。お前自身が、俺の、たった一人の――」
特別な奴なんだ。
そう続けようとした言葉は、今夜最大級の、フィナーレを予感させる連続打ち上げの轟音にかき消された。
――ズドォォォォォォォォン!!!
内臓が震えるほどの音。一瞬だけ安堵し、そしてそれ以上に、激しい後悔が俺を襲った。
けれど。
光の洪水の中で、凛は確かに動いた。
彼女の唇が、何かを呟いたのを、俺の目は見逃さなかった。
声は聞こえない。周囲を揺らす爆音と、空を焦がす光の暴力。
けれど、彼女は真っ直ぐに俺を見つめ、逃げ場のない瞳で何かを言った。
「凛! 今、なんて言ったんだ?」
轟音の余韻が響く中、俺が問いかけると。
凛は、顔を真っ赤にして、不敵に、けれどどこか寂しそうに笑った。
「にひひ! なんでもないよ。今のなし! 聞かなかったことにして!」
「おい、そんなわけにいかねーだろ。気になって死にそうなんだけど!」
「いいの! だってさ、ちゃんと一真の声で、先に聞きたいんだもん」
凛は、繋いでいた手を一度解いた。
今度は俺のシャツの胸元を、両手でギュッと、引きちぎらんばかりの勢いで握り締めた。
彼女の体温が。彼女の震えが。
俺の全身の細胞に、逃げ道を塞ぐように響き渡る。
そして彼女は俺の胸にこてんと自分の額を預けてきた。
「親友」という言葉の、最後のごまかし。
「相棒」という名の、心地よい逃げ場。
夜空に消えていく花火の残像と一緒に、跡形もなく消えた。
一ノ瀬さんがいて、海斗がいて、学校があって。
そんな騒がしい日常のすべてが、今はただ、この一人の女の子を抱きしめるための、遠い背景に感じる。
(ああ。わかったよ、ハル)
俺は、一瞬だけなくなった自分の掌の中に残った彼女の温もりを、もう一度強く握り締めた。
空を焦がす光。世界を揺らす音。
そのすべてが、俺の勇気を。これまで三年間、一度も口にできなかった本当の『バフ』を、最高潮の熱量で押し上げていた。
俺の声は、もう震えなかった。
夜空が、最後のグランドフィナーレに向けて、一度だけ静寂を取り戻す。
俺たちの「親友卒業式」は。
この後に打ち上がる、今日一番の輝きの中で。
ついに、その瞬間を迎えようとしていた。




