第66話 欲張り
神社の裏手から続く、街灯もまばらな細い山道。
一段登るごとに背後の屋台の喧騒や笛の音が遠ざかり、代わりに夜の森が放つ深い草の匂いが鼻をくすぐる。
足元は石畳というよりは、土を固めただけの不揃いな階段に近い。
「ねえカズ、あとどれくらい? 結構登ったよね」
俺の後ろを歩く凛が、少し息を切らしながら問いかけてきた。
カラン、コロンと、彼女の履く下駄が乾いた音を立てる。そのリズムが心なしか乱れていることに気づき、俺は足を止めた。
「悪い、早かったな。浴衣だし下駄じゃ歩きづらいだろ。無理するなよ」
「あはは、バレちゃった。普段そんなに履かないから、ちょっと鼻緒が痛くなってきちゃったかも……でも大丈夫。私、楽しみなんだもん」
凛は無理に笑ってみせたが、その表情には少しだけ疲れが見えた。
ここは祭りのメイン会場からかなり離れている。山道を十分ほど登らなければならないこの場所は、地元の人でも敬遠するような不便な場所だ。
俺は一歩戻り、彼女に向かって右手を差し出した。
「ほら、掴まってろ。無理して転んだら、せっかくの装備が台無しだぞ」
「……っ。にひひ、ありがと。じゃあ、お言葉に甘えて」
凛は俺の掌に、自分の細い手をそっと重ねた。
熱い。
彼女の体温が、指先を通じて俺の血流にまで溶け込んでくるようだ。
俺は彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと、一段ずつ慎重に登っていく。
「去年の夏、双葉が友達と見つけた穴場があるって言ってたんだ。あいつ、俺には絶対教えないって言ってたけど、友達に教えようとしたのか机の上に地図を描いたメモを出しっぱなしにしてたからな」
「カズってば、意外と執念深いんだね。でも、嬉しいよ。私、カズと二人きりになれる場所がいいなって思ってたから」
凛が俺の腕に自分の身体をさらに密着させてきた。
浴衣の生地越しに伝わってくる、彼女のしなやかで柔らかいライン。
さっきの神社の裏での密着が、俺たちの「親友」という防波堤を、もう修復不可能なレベルまで決壊させていた。
もう感覚が麻痺してしまっている。
不揃いな段差を越えるたびに、お互いの肩や腕が強く触れ合う。けれど、それを避けるどころか、むしろ当たり前のように受け入れている自分がいる。
まるで、これくらいの接触なら当然だと、パーソナルスペースが自然と近くなってしまう恋人のように。
ようやく登りきった先。そこは、高台にある古い展望台の跡地だった。
目の前には、お祭りの提灯でオレンジ色に縁取られた街の夜景が広がり、遠くには黒く横たわる山々の稜線が見える。ここには、俺たち以外、本当に誰もいない。
「わあ……っ。すごいね、カズ。お祭りが、まるでおもちゃ箱をひっくり返したみたい!」
凛はフェンスの前に立つと、夜風にさらさらとした黒髪をなびかせ、眩しそうに街の灯りを見つめた。
俺は彼女の隣に並び、錆びついた手すりに手をついた。
少しの間、二人の間には心地よい静寂が流れた。
「ねえ、カズ。私ね、三年前のことも、昨日のことみたいに覚えてるんだよ」
凛が街の灯りを見つめたまま、ぽつりと切り出した。
「三年前。初めてボイチェンを買って、『ハル』になった日のこと。あの頃の私、学校が本当に息苦しかったんだ。何をしても、みんな『東雲凛だから』って納得しちゃうでしょ。完璧な天使っていう檻に入れられて、本当の私が何を考えてるかなんて、誰も興味がなかったの」
それは、彼女がかつてボイスチャットの端々で漏らしていた、寂しげな吐息の正体だった。
「だから、ネットの世界に逃げたの。そこなら顔も性別も関係ない。ボイチェンで声を低くして、わざと口悪く振る舞って。そうすれば、誰も私を『天使』なんて呼ばない。ただのゲームが上手い生意気なガキでいられるから」
凛は少しだけ寂しそうに笑うと、俺の方を向いた。
「でも、本当は寂しかった。誰も信じられないまま、一人で敵を倒し続けて。そんな時にさ、初期装備のままマヌケな顔して死んでたカズを見つけたんだよ」
「……マヌケって言うなよ」
「にひひ、本当のことだもん! でもねカズ、カズだけだったんだよ。私の生意気な言葉を、『お前、性格悪いなw』って笑い飛ばして、何の気遣いもなく対等に隣にいてくれたのは。あの頃の私がどれだけ救われたか、カズには分からないでしょ?」
彼女の瞳に夜景の光が反射して、宝石のように潤んで見える。
「もしあの時カズがいなかったら、私、きっとゲームもやめて、今頃には『心のない人形』になってたかもね。カズがいてくれたから、毎日『おはよ』って言ってくれたから。私、本当の自分を嫌いにならずに済んだんだよ」
「……凛」
俺は彼女の名前を呼んだ。
学校での名字呼びでもない。ボイチャでのハンドルネームでもない。俺がずっと守りたかった、一人の女の子としての、彼女の名前。
「カズ。私、欲張りになっちゃった。画面越しじゃ、もう足りないの」
凛は俺との距離を詰めた。一歩。彼女の浴衣が、俺の足に触れる。
ふわりと彼女の髪からあの甘い香りが漂い、俺の理性を激しく揺さぶった。
「カズの声を、もっと近くで聞きたい。カズの手の温かさを、ずっと感じていたい。ねえ、私、これからもずっと、カズの隣で笑っててもいいのかな?」
凛は俺のシャツの胸元を、ぎゅっと握り締めた。
俺は何も答えられなかった。いや、答えは決まっていた。
俺は彼女の細い肩を、震える身体を、逃がさないように優しく自分の胸の中へと引き寄せた。
「――――っ!?」
凛の身体がビクッと跳ねた。けれどすぐに彼女は力を抜き、俺の胸板に顔を埋めてきた。
「バカ一真。心臓、うるさいよ」
「うるせー。お前がそんなこと言うからだろ」
「にひひ。私も、同じだよ、相棒」
俺のシャツを握る彼女の指先が、熱を帯びていく。
三年前、名前も顔も知らなかった頃。俺たちは確かに、今日この場所でこうなるために、あの広い電子の海で出会っていたんだ。
「ハル。俺もだよ。画面越しのお前も最高に頼れる相棒だったけど、今、俺の腕の中にいるお前が、世界で一番守りたい存在なんだわ」
「……っ。にひひ、合格。最高のバフ、いただきました!」
凛は幸せそうに目を細め、俺の胸元にさらに深く顔を押し付けてきた。
――ヒュゥゥゥゥ……。
不意に、遠くの空で笛のような高い音が響いた。
俺たちは同時に顔を上げた。真っ暗な夜空を切り裂くようにして、一筋の光が昇っていく。
「始まったね」
凛が期待に満ちた瞳で見上げた。
――ドォォォォォン!!
次の瞬間、夜空いっぱいに鮮やかな大輪の華が咲き誇った。
大気を震わせる轟音。世界を塗りつぶす極彩色の閃光。
その光に照らされた彼女の横顔は、どんな伝説の装備よりも眩しく、俺の心臓を完全に射抜いていた。
(行くぞ、ハル)
俺は繋いだままの手を、さらに強く握り締めた。
「親友」という言葉の、最後のごまかし。
それが、この花火の音に紛れて消えてしまうまで、あとわずか。
「にひひ! カズ見て見て! 今のすっごい綺麗!!」
「ああ、そうだな。でも、お前の方が何倍も綺麗だけどな」
「……っ!! バカ! 本当にバカ一真!!」
俺たちは花火の光の下で、顔を真っ赤にしながら、けれど最高に幸せな相棒の顔で笑い合った。
繋がれた手のひら。重なり合う鼓動。
一発、また一発と打ち上がる光が、俺たちの境界線を永遠に消し去ろうとしていた。




