第64話 甘いリンゴ飴
祭りの通りに足を踏み入れると、夜の闇を押し戻すような提灯の明かりと、多種多様な屋台から漂う香ばしい匂いが俺たちの鼻腔を支配した。
人混みは駅前よりもさらに激しさを増し、少しでも気を抜けば隣を歩く彼女を見失ってしまいそうになる。
「……っ。カズ。……。痛いよ。そんなに強く握らなくても、……逃げないよ?」
隣を歩く凛が、少しだけ潤んだ瞳で俺を盗み見た。
俺の手は、無意識のうちに彼女の細い指先を壊さない程度の力で、けれど決して離さないという強い意志を持って握り締めていた。
「……悪い。でも、……迷子になったら面倒だろ? ……。お前の親に、……『東雲さんとはぐれました』なんて、……死んでも言えないわ」
「……にひひ。……素直じゃないなぁ、カズは。……いいよ。今日は私も、離れたくない気分だし」
凛は、繋いだ手の方へ自分の身体をさらに寄せてきた。
浴衣のさらりとした生地越しに、彼女の二の腕の熱が伝わってくる。
俺たちは、どちらからともなく屋台が並ぶメインストリートへと足を向けた。
「わあ……! ……。カズ、見てよ! ……。たこ焼き! ……。すっごいいい匂い!」
凛が、目をキラキラさせて屋台を指差した。
学校での「東雲さん」なら、きっと上品に微笑んで眺めているだけだろう。けれど今ここにいるのは、三年間、深夜に『腹減ったー! カップ麺食べたいー!』と騒いでいた、俺の相棒のハルだ。
「一個、買うか。……ハル、お前そんなにお腹空いてるのか?」
「……当たり前じゃん! ……今日、このために……お昼ご飯、半分にしたんだから!」
彼女は得意げに胸を張るが、その仕草で浴衣の襟元がわずかに乱れ、白い鎖骨が覗く。俺は慌てて視線をたこ焼き屋の鉄板へと逸らした。
熱々のたこ焼きを受け取り、俺たちは少しだけ人混みが引いた、大きな木の下へと移動した。
俺が容器を持っていると、凛がおもむろに巾着から自分用の割り箸を取り出した。
……用意が良すぎる。
「……ねえ、カズ。……熱いから、……フーフーして?」
「――――っ!? ……お、お前……口、あるだろ」
「……。やだ。……今日は私の『ワガママ』の日、でしょ? 相棒なら、それくらいサービスしてよ」
凛は、上目遣いで俺をじっと見つめてくる。
その瞳に抗えるはずもなく、俺は震える手でたこ焼きを一つつまみ、息を吹きかけた。
「……ほら。……これで、熱くないぞ」
「……あーん」
彼女は無防備に、小さな唇を開けた。
俺は、半ば自暴自棄になりながら、その口元へとたこ焼きを運んだ。
凛は、ハムッ、とそれを頬張ると。
「……ふ、……ふふふっ。おいしぃ……!!」
本当に、心底幸せそうに、彼女は頬を緩めた。
その無邪気な笑顔は、屋台の明かりに照らされて、どんなものよりも輝いて見えた。
「……にひひ。……お返し。……はい、カズも。……あーん」
今度は彼女が、俺の口元にたこ焼きを差し出してきた。
「……俺は自分で食うよ。……。恥ずかしいだろ」
「いいから! ……。……。ほら。……。早く食べないと、……私が全部食べちゃうよ?」
……。
「…………わかった」
俺は観念して、俺も彼女からの「あーん」を受け入れた。
ソースと青のりの香ばしさ。けれど、それ以上に、彼女が使っている割り箸を通じて伝わってくる、間接的な熱量。
口の中が、甘いのかしょっぱいのか、もうよく分からなかった。
そんな俺たちの様子を見ていた、隣の屋台の親父さんが「がはは!」と豪快に笑った。
「お兄ちゃん、幸せもんだねぇ! そんなに可愛い彼女さんに食べさせてもらって!」
「――――っ!?」
俺と凛は、同時に跳ね上がった。
「い、いや! ……。おじさん、違います! ……俺たちは、その……」
「……そうですよ! ……私たち、……ただの『親友』なんです! ……ね、カズ!?」
「……ああ。……そうなんです……。……。こいつが、わがまま言ってるだけだ!」
必死に否定する俺たち。
けれど親父さんは、さらにニヤニヤしながら首を振った。
「はいはい、親友ねぇ。……。そんなに顔を真っ赤にして、手を繋ぎっぱなしの親友なんて、俺は五十年この商売やってるけど初めて見たよ!」
「…………っ!!」
指摘されて気づく。
俺たちは、たこ焼きを食べている間も、左手と右手――お互いの手を一度も離していなかったのだ。
どちらかが、というより。
二人とも、離すという選択肢が、最初から脳内に存在していなかった。
「……カズ。……次、リンゴ飴。……行こ」
「……。……。ああ。……。……。そうだな」
俺たちは逃げるようにその場を離れた。
屋台の親父さんの笑顔を背中で感じながら。
繋いだ手のひらは、さっきよりもずっと汗ばんで、熱を帯びている。
けれど、指を絡める力は、緩まるどころか、より一層強まっていた。
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それから俺たちは、金魚すくいに熱中し(凛がムキになって三枚もポイを破り、俺が必死にフォローした)、焼きとうもろこしのタレを凛が口の端につけてしまい、俺が指でそれを拭う……なんていう、傍から見たら完全に「バカップル」な時間を過ごした。
「……ねえ、カズ。……このリンゴ飴、……甘いね」
凛が、俺の隣で真っ赤なリンゴ飴をかじりながら、ポツリと呟いた。
「……ああ。……砂糖、たっぷりだしな」
「………違うよ。……砂糖のせいだけじゃ、……ない気がする」
凛は、自分の指先で、俺の手をギュッと握り締めた。
「……私ね。三年前、画面の向こう側のカズを見てた時。寂しいなんて、思ったことなかったんだ。……声だけで、十分だって思ってたの」
彼女は立ち止まり、俺の方を向いた。
人混みはまだ続いている。けれど、俺たちの周りだけ、ふっと音が消えたような錯覚。
「でも。こうやって、カズの手の温かさを知って。カズが笑う時に、肩が揺れるのを知って。……もう、……画面越しには、戻れない。……私、前より欲張りになっちゃったみたい」
凛の大きな瞳に、提灯の明かりが揺れる。
「親友」
「相棒」
その言葉は、俺たちにとって、ずっと守るべきルールだった。
けれど、今の彼女の瞳が求めているのは、そんな規約でもなければ、共闘の約束でもない。
もっと熱くて、もっと重くて、もっと……。
(……。……。俺だって、……同じだよ。ハル)
伝えたい言葉は、喉の奥までせり上がっていた。
けれど、まだ、ここでは言えない。
あの一番高い場所で。
夜空が一番綺麗に咲く、あの瞬間に。
俺は、彼女に「本当の答え」を渡すと決めていたから。
「……ハル。……そろそろ、花火の時間だぞ」
「……うん。……行こ、カズ。……言ってたみたいに私を、一番花火を見るのにいい場所に、連れてってね?」
「……ああ。任せろ」
俺たちは再び、繋いだ手を強く結び直し、神社の奥へと歩き出した。
背後から、女子生徒たちの「あ、見て! あのカップル美男美女!」という囁き声が聞こえてくる。
しかし今はそんなものは何も気にならない。
ただ、この掌に伝わってくる彼女の鼓動が。
リンゴ飴よりも甘くて、たこ焼きよりも熱い、この「今」という時間が。
俺にとって、唯一無二の真実だった。
――が。
「……。……あ、カズ! 海斗くんたちの声、しなかった!?」
「――っ!? どこだ!?」
見られてはダメだ、と体が本能的に動いた。
海斗がいるのか、その事実を確認する前に気づけば俺は凛の腰に腕を回し、近くの大きな拝殿の影へと彼女を誘い込んだ。
「――――っ!?」
暗がり。
密着。
二人の呼吸が、一瞬で一つに重なる。
俺たちの夏祭りは、ここから、さらに予期せぬ熱気を帯びて加速し始めていた。




