第63話 親友卒業式
俺の瞳には、目の前に立つ少女の姿以外、何も映っていなかった。
紫色の朝顔が鮮やかに描かれた、紺地の浴衣。
普段のハーフアップよりも少し大人っぽくまとめられた黒髪と、そこから覗く、うなじの白さ。
そして、髪留めが、彼女の横顔で控えめに、けれど確かに輝いている。
「…………っ」
呼吸の仕方を忘れた。
学校での東雲さんは、いつだって非の打ち所がない「天使」だ。
けれど、今ここにいるのは、俺だけに見せるために「最強の装備」を整えてきた、一人の女の子だった。
「……にひひ。ねえ、カズ。……さっきから、口、開いたままだよ?」
凛が、少しだけ頬を染めながら、いつもの相棒の口調で茶化してきた。
その一言で、ようやく俺の意識が現実へと引き戻される。
「……悪い。……。あまりにも、その……似合ってたから」
「…………っ!!」
今度は、凛の方が顔を真っ赤にして俯く番だった。
彼女は持っていた巾着袋の紐をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声で呟く。
「……バカ。……そんなの。カズが『見惚れると思う』なんて言うから、……頑張ったに決まってんじゃん」
「……。ああ。……ありがとな、ハル」
俺たちは、どちらからともなく歩き出した。
お祭り会場へと続く坂道は、すでに浴衣姿の家族連れやカップル、浮かれた学生たちで溢れかえっている。
俺と凛の距離は、拳一つ分。
歩くたびに、カラン、コロンと、彼女の下駄がアスファルトを叩く心地よい音が響く。
「……ねえ、カズ。……。学校の人、いないよね?」
凛が周囲を警戒するように見渡す。
まぁこんなに人がいたら知り合いの一人や二人はいてもおかしくない。
そして、この圧倒的な美少女が隣にいる以上、注目を浴びないはずがなかった。
「……いるかもしれないけど、……お前がそんなに綺麗なんだ。……見つかっても、俺のせいじゃないぞ」
「……にひひ。……うまいこと言うようになったじゃん、相棒」
凛は俺の言葉に少しだけ機嫌を良くしたのか、それまで離れていた距離を、ふっと詰めてきた。
会場の入り口にある大きな鳥居を潜ると、そこは別世界だった。
立ち並ぶ屋台の赤提灯。ソースの焦げる香ばしい匂い。お囃子の音。
そして、前進するのが困難なほどの、凄まじい人の波。
「わっ……!? ……。……すご……」
凛が、人混みの勢いに押されて少しよろめいた。
彼女は慌てて、俺のシャツの袖を指先で「くいっ」と引く。
……。
彼女の手は、以前よりもずっと小刻みに震えていた。
(……ダメだ。……。……袖だけじゃ、守りきれない)
俺は、自分の中にあった「佐藤くん」としての理性を、最後の一片まで捨て去った。
屋上での約束。
『佐藤一真の特別として、二人きりで隣にいてほしい』。
あの言葉に嘘をつかないために。
「……ハル。……手、貸せ」
「えっ……? ……あ……」
俺は、彼女が袖を掴んでいたその右手を。
おずおずと差し出されたその細い指先を。
逃がさないように、けれど壊さないように優しく、手のひらで包み込んだ。
「――――っ!!」
凛の身体が、ビクッと跳ねたのを感じる。
熱い。
彼女の掌は、俺の想像を遥かに超える熱を持っていて。
俺が指を絡ませ、いわゆる『恋人繋ぎ』のような形にすると、彼女は一瞬、息を止めるような仕草をした。
「……はぐれたら、……その、面倒だろ?」
「………うん。……そうだね。……。面倒だもんね」
凛は顔を上げず、けれど、握られた手をぎゅっと、痛いくらいに握り返してきた。
「親友」
「相棒」
その言葉が、今、この瞬間に完全な「嘘」になった。
二人でお互いを納得させ合うかのように。そんな風に繋がれた俺と彼女の手。
繋がれた手のひらから伝わってくるのは、友情なんて綺麗なものではない。
もっとドロドロとした、もっと切実な……「誰にも渡したくない」という剥き出しの熱だった。
俺たちは、一言も喋らなくなった。
ただ、周囲の喧騒をBGMに、お互いの歩幅を合わせ、繋いだ手の温度だけを頼りに人混みをかき分けていく。
「……カズ。……離さないでね?」
不意に、耳元で凛の声がした。
いつの間にこんなに近くなっていたのだろう。
お祭りの喧騒に紛れて、俺にしか届かない、掠れたハルの声。
「……離さねーよ。……お前が、嫌だって言ってもな」
「……にひひ。……バカ一真。嫌なわけ、ないじゃん」
凛は、俺の腕に自分の身体を密着させるようにして、一歩踏み出した。
浴衣の生地越しに伝わってくる、彼女のしなやかな体のライン。
三年前。
画面越しに、ノイズ混じりの声で笑い合っていた俺たち。
あの頃の俺に教えてやりたい。
お前が命を預けているその相棒は。
今、こんなに熱くて、こんなに小さくて、……こんなに、俺のことを求めてくれているんだぞ、と。
「……あ、カズ! あそこの屋台、リンゴ飴あるよ!」
「一個、買うか」
「一個!? ……二人で、半分こ?」
「……お前がそうしたいなら」
「……にひひ。……賛成!」
俺たちは、繋いだ手を一度も解くことなく、光り輝く屋台の列へと吸い込まれていった。
学校での東雲さんと佐藤くん。
そんな退屈な名前は、もう真夏の夜風にかき消されて、どこにも残っていない。
今ここにいるのは、ただ、お互いを必要としている「カズ」と「ハル」だけだ。
俺たちの「親友卒業式」は。
この繋いだ手の熱が、心臓を溶かし切るまで。
一分、一秒たりとも止まることなく、加速し続けていた。




