第62話 真夏の夜の物語
一真視点
土曜日、午後四時。
梅雨明けが宣言されたばかりの空は、吸い込まれるような青さで、アスファルトの上では陽炎がゆらゆらと踊っている。
俺は、自室の姿見の前で、最後の一色を整えていた。
選んだのは、先日凛に「似合ってる」と言われた、あの薄手のネイビーのシャツ。そして、今日のために新調した少し大人びた黒のパンツ。
(……よし。……これ以上やると、逆に空回りする)
何度も深く息を吸い込むが、肺に入ってくる空気は熱く、心臓の鼓動は一向に落ち着く気配がない。
今日は、一ノ瀬さんのためのプレゼント選びという「口実」も、勉強会という「理由」もない。
ただ、俺が俺の意志で、東雲凛という一人の女の子を誘い出し、二人きりで過ごすためだけの夜だ。
部屋を出て、階段を下りようとした時。
案の定、リビングの入り口で腕を組んだ妹・双葉が待ち構えていた。
「…………。……。ふーん。……。お兄、またそのシャツなんだ。……。……。キモいくらい気に入ってるね」
双葉の視線は相変わらず鋭く、冷たい。
いつもなら「うるせー汚物」と適当に返して逃げるところだが。……今日の俺は、昨日までの俺とは違う。
「……。……気に入ってるよ。……。……あいつに、似合ってるって言われたからな」
「――――っ!?」
双葉が目を見開いて絶句した。
俺は立ち止まり、真っ直ぐに妹の目を見て告げた。
「……。……。双葉。……。……前にお前に『友達の話だ』って相談したこと、あったろ」
「……。……あ、ああ。……。あのバカなお兄……じゃなくて、バカな友達の話でしょ」
「……。……。あれ、俺のことだ。……。……。そして相手は、お前の言った通り……。……東雲凛さんだ」
沈黙。
セミの声だけが、やけに大きく響く。
双葉は持っていたスマホを握り締め、驚きで唇を震わせていた。
俺は一歩踏み出し、言葉を続ける。
「……俺、あいつのことが…。東雲凛のことが、好きだ。……。だから、今日……ちゃんと、一人の男として、あいつを隣に誘いに行ってくる。……行ってくるわ、双葉」
……。
…………。
「………………」
双葉は顔を伏せ、長いポニーテールがかすかに揺れるほどに小さく肩を震わせた。
そして、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染め上げると、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……お、お巡りさん呼ぶ必要、……なさそうね」
「……。え?」
「……行ってきなよ! ……バカお兄! ……もし、東雲さんに悲しい思いをさせたり、……『綺麗だね』って一言も言わなかったりしたら、……私、本当にあんたのゲームの全データを、物理的に破壊するからね!!」
双葉は顔を上げないまま、俺の背中を全力で突き飛ばした。
「……。……。双葉。……。……。サンキュ」
「うるさい!! さっさと行きなよ!! ……東雲さんを、……。待たせないでよね」
背後で聞こえた、妹の不器用すぎるエール。
俺はそれを背中に受けて、玄関の扉を勢いよく開けた。
熱い風が顔を撫でる。
心臓はまだうるさいけれど、不思議と足取りは軽かった。
「親友」という安全な檻を捨て。
「カズ」という偽物の名前を越えて。
俺は今、初めて「佐藤一真」として、あいつの待つ場所へと駆け出した。
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凛視点
「――凛、入るわよ?」
お母さんの声と共に、部屋のドアが開いた。
私は、姿見の前で帯の結び目を何度も確認していた手を止め、振り返った。
「わあ……凛。……。……。本当に、綺麗ね。さすが私の娘」
お母さんが、息を呑むようにして私を見つめていた。
鏡の中に映っているのは、学校での「東雲凛」でもなければ、ボイチェンで強がっていた「ハル」でもない。
カズが、ビデオ通話であんなに真っ赤になりながら「見惚れると思う」と言ってくれた、紫色の朝顔が描かれた浴衣。
髪は少し大人っぽくアップにまとめ、カズと選んだあのキラキラした髪留めを、一番目立つ場所に挿している。
「……。……。変じゃないかな。……。……。子供っぽくない?」
「そんなことないわよ。……そのカズくんっていう男の子。……本当に、見る目があるわね。……凛の良さを、ちゃんと分かってる」
お母さんにはカズくんっていう男の子とお祭りに行く、とだけ言ってある。
それ以上は何も言っていない。
お母さんも何となく察しているのかそれ以上しつこく聞いてこようとはしてこない。
「……にひひ。……そうでしょ?」
鏡の中の自分に向かって、私はハルとしての不敵な笑みを浮かべてみせた。
けれど、握りしめた巾着袋を持つ指先が、小さく、小刻みに震えている。
三年前。
画面越しにカズの声を聞いていた頃。
私は、自分が浴衣を着て、あいつと並んで歩く未来なんて、一ミリも想像していなかった。
カズは、私の『中身』が好きだと言ってくれた。
「どんなに綺麗になっても、お前はハルだ」と言ってくれた。
……。
……それが、何よりも嬉しかった。
でも。
今日だけは。
(……カズ。ハルとしてじゃなくて。……『東雲凛』として。……あなたの目を、釘付けにしてあげるんだから)
屋上でのあの約束。
「佐藤一真の特別として、二人きりで隣にいてほしい」
あいつが、自分の檻を壊してまで、私に手を伸ばしてくれたあの日。
私の心の中にある「親友」という壁も、音を立てて崩れ去った。
「好き」なんて言葉、まだ恥ずかしくて言えない。
でも、あいつに一番近くで笑ってほしい。
あいつに、私を「一人の女の子」として意識してほしい。
その想いだけが、今の私の、最強の『バフ』だった。
「……よし。……行ってくるね、お母さん」
「ええ。凛。……。……。思いっきり、ワガママ言ってくるのよ?」
「……にひひ。……お母さん何それ。言われなくても、そのつもりだよ!」
私は魔法にかかったような高揚感に包まれて、家を飛び出した。
******
駅前の待ち合わせ場所。
人混みの中で、一人の男の子がソワソワと時計を見つめていた。
ネイビーのシャツ。
少しだけ整えられた髪。
そして、誰を探しているのか一目でわかる、あの真面目で不器用な眼差し。
(……見つけた)
私の、世界で一番大切な騎士サマ。
私は、一度だけ深く呼吸をして。
高鳴りすぎて、もう自分でも止められない心臓の音を背中に受けて。
最高の、恋する女の子の笑顔を作った。
「――お待たせ、カズ!」
私の声が、真夏の夕暮れに響く。
カズが、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間。
彼の瞳が大きく見開かれ、時間が止まったかのような沈黙が訪れた。
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俺と彼女の「親友以上」な物語は。
この七月の風が、真夏の夜へと変わる瞬間。
決定的な「恋」へと、その色を鮮やかに変えようとしていた。




