第60話 浴衣選び
期末テストが迫ってくる中、放課後の校内にはどこか浮ついた、夏休みを待ちわびる熱気が充満していた。
そんな気がした。
家に着いても、窓の外からは蝉の声が一段と大きく響き、アスファルトからは陽炎が立ち上がっている。
俺――佐藤一真は、自分の部屋で扇風機の風に当たりながら、手元のスマホをじっと見つめていた。
画面に表示されているのは、一通のLIME通知。
【咲希:カズッチくん! いよいよ来週だね! 凛りんとのこと、咲希はちゃーんと見守ってるからね!】
「…………。わかってるよ」
俺は誰に言うでもなく呟き、ため息をついた。
一ノ瀬さんは知らない。俺と東雲さんが三年前からネトゲの相棒であることも、俺が握られている黒歴史の数々も。
彼女にとっての俺は「東雲凛の本当の中身を見抜いた、少し変わった相談役」であり、自分から親友との時間を奪いに来た、無鉄砲で誠実な男、ということになっている。
まぁ、それ以上のことを、彼女は理解しているような気もするが。
一ノ瀬さんの応援は心強いが、それ以上にプレッシャーが凄まじい。
何せ、相手はあの東雲凛だ。
俺たちの関係を敢えて『親友』と定義し直し、屋上であの熱い約束を交わしてから、俺の中の彼女に対する意識は、もう制御不能な領域まで加速していた。
そんな時、画面が切り替わり、本命からのメッセージが届いた。
【凛:カズ。起きてる?】
……。
心臓がドクンと跳ねる。
【一真:起きてるよ。どうした、ハル】
【凛:あのさ。…夏祭りのことなんだけど。浴衣、どれがいいか迷ってて。カズの意見、聞きたいなって。…ダメ?】
……。
…………。
ダメなわけがない。
俺は即座にタイピングを開始した。
【一真:いいよ。……。お前なら何でも似合うと思うけど。……。写真か何かあるのか?】
【凛:あ、じゃあ、今からビデオ通話していい? ……。直接見せたほうが早いし。いいよね、相棒?】
……!!
ビデオ通話!?
俺は慌てて部屋を見回した。脱ぎっぱなしの靴下や、積み上げられたゲーム雑誌を押し入れに放り込み、ベッドを整える。
自分の髪型を鏡でチェックし、大きく深呼吸をした。
「……よし。……。……いつでも来い、ハル」
スマホの着信音が鳴り響く。
応答ボタンを押すと、画面いっぱいに「東雲凛」の姿が映し出された。
『――あ、繋がった! カズ、おっはよー!』
『この時間におはようはちょっと変だろ』
『にひひ〜』
画面の中の東雲さんは――いや、凛は、自室にいるのだろう。
少し薄暗い照明の下で、さらさらとした黒髪を耳にかけ、いつもの相棒ハルの、いたずらっぽくて、けれど少しだけ気恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。
「……おはよう、ハル。……お前、部屋着、それかよ」
凛は、大きめの白いTシャツ一枚という、無防備すぎる格好だった。鎖骨のラインが綺麗に見え、普段の学校での「完璧な東雲さん」からは想像もできないほど、一人の女の子としての「素」が溢れ出している。
『にひひ。いいじゃん、暑いんだもん。……。……。それより、見て見て!』
彼女はスマホを三脚か何かに固定したのか、少し離れた場所に立った。
ベッドの上には、三種類の浴衣が並べられていた。
『これ、家にあったの。一つ目は、王道の紺地にひまわり。……。二つ目は、白地にピンクの桜。……。で、三つ目は……カズ、ちゃんと見てる?』
「……見てるよ。……全部、綺麗だと思うけど」
『それじゃアドバイスにならないでしょ! ……どれが一番、私に似合うと思う? ……カズが、「これを着てるハルを見たい」って思うのは……どれ?』
凛は、画面越しに俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳には、一ノ瀬さんや海斗には絶対に見せない、俺一人だけに向けられた熱烈な期待と、少しの不安が混ざり合っていて。
「……三つ目。……その、少し落ち着いた、紫っぽい……朝顔のやつ」
『えっ……? ……紫?』
「……ああ。……スタイルが良くて……。……髪も黒くて綺麗だから。……。……派手なやつより、そういう、少し大人っぽい方が……。その、……見惚れる、と思う」
俺が本音を漏らすと、画面の中の凛は、フリーズしたかのように動かなくなった。
そして。
みるみるうちに顔を真っ赤に染めると、画面からフェードアウトしてしまった。
『……っ!! ……バカ一真!! ……今の、……。……今の台詞、絶対録画しとけば良かったぁぁ!!』
「……録画するなよ!! お前が教えてって言ったんだろ!!」
『だ、だって! ……まぁいいや……にひひ。……ありがと、カズ。……じゃあ、これにするね。……一真が選んでくれた、最強の装備』
凛が再び画面に戻ってきたとき。
その表情は、もはやもう。
「相棒」という言葉の裏側に隠れきれないほどの、一人の恋する女の子の幸せな顔だった。
『……ねえ、カズ。……楽しみだね、来週』
「……ああ。……一ノ瀬さんに譲ってもらったんだから。……最高の祭りにしねーとな」
『うん。……私、精一杯、可愛くしていくから。……当日、私の隣から一ミリも離れちゃダメだからね? ……。わかった?』
彼女は、画面越しに指を差し出してきた。
約束。
三年前、ボイスチャットで『次のイベント、絶対クリアしような』と指切りした時と同じように。
けれど、今の指先は、スマホのガラス一枚を隔てて、確かな温度を持って俺の心に触れていた。
「……。……ああ。……。……指切り、だな」
俺も、画面に向かって自分の小指を重ねた。
学校では、他人のふり。
けれど、このデジタルな波形の中だけで交わされる、二人だけの準備期間。
一ノ瀬咲希という最高の理解者に背中を押され。
俺と東雲凛の、ただの「親友」という言い訳は。
一着の浴衣を選ぶという、あまりにも甘酸っぱい儀式を経て。
俺たちは真夏の夜へと、決定的な一歩を踏み出そうとしていた。
『にひひ。……じゃあ、今日はもう寝よっか。……おやすみ、私の騎士サマ』
「……。ああ。……。おやすみ、ハル」
通話が切れる。
静まり返った暗い部屋で、俺は自分の胸の鼓動を鎮めるために、冷たい水を一気に飲み干した。
(……紫の、朝顔か)
脳裏に浮かぶのは、その浴衣に身を包んだ、まだ見ぬ彼女の姿。
来週の土曜日。
俺は、彼女に「綺麗だ」と伝える覚悟を。
そして、「親友」という名の安全な檻を、今度こそ燃やし尽くす勇気を。
夜空に瞬く一番星に、静かに、けれど強く、誓っていた。




