第55話 好き避け
七月の初め。
梅雨明けを予感させるような、刺すような陽射しが教室の窓から降り注いでいた。
俺――佐藤一真は、自分の席に座りながら、目の前の物理の教科書を一ページも進められないまま、ただ呆然と「虚無」を見つめていた。
(………………無理だ。これ、今日一日、正気でいられる気がしねぇ)
脳裏に焼き付いているのは、一昨日の土曜日。
豪雨の駅前、逃げ込んだネカフェ、わずか二畳の密室。
ハイタッチをした瞬間に、指を絡めてしまったあの感触。
俺のシャツを握りしめ、胸元に頭を預けて囁いた彼女の震える声。
『親友の範囲、広げてもいいかな……?』
あの時、俺の心臓は間違いなく「親友」なんていう便利な言葉の枠組みを突き破って、どこか知らない次元まで飛んでいってしまった。
右手の掌には、まだ彼女の細い指先の熱が残っているような気がするし、鼻の奥には、雨に濡れて少しだけ熱を持った彼女の石鹸の香りがこびり付いて離れない。
「――おい一真。お前、さっきから一分間に三回は『はぁ……』って溜息ついてるぞ。……何か悪いもんでも食べたか?」
隣の席の海斗が、心底不思議そうな顔で俺を覗き込んできた。
バスケ部の朝練上がりで爽やかに汗を流したこいつの目に、今の俺はどう映っているのだろうか。
「……いや。……ちょっと、週末に激しいレイド戦があってな。……HPが削れすぎたんだわ」
「ははっ! 相変わらず廃人だなぁお前は。……まあ、球技大会でのあの活躍からのそれだ、たまにはゆっくり休めよ。……あ。噂をすれば、来たぞ。今日も俺たちの『光』が」
海斗の声がワントーン上がる。
教室のドアが開くと同時、一気に場の温度が数度上がったような錯覚に陥る。
「おっはよー! カズッチくん、海斗!」
一ノ瀬咲希が、スキップするような足取りで入ってきた。
そして、そのすぐ後ろ。
さらさらと流れる黒髪。淡いイエローの夏用カーディガン。誰もが見惚れる「完璧な美少女」――東雲凛が続いていた。
「…………っ!!」
俺の全身の筋肉が、一瞬で鋼鉄のように硬直した。
東雲さんは友達と談笑しながら、俺たちの席の横を通る。
いつもなら、ここで俺たちは「他人のふり」として視線さえ合わせないか、あるいは俺だけにわかる一瞬のアイコンタクトを交わしてニヤリとする。それが俺たちの『最強の相棒』としてのルーチンだった。
だが、今日は――。
「……おはよ……海斗くん」
「お、おはよう凛! 今日も最高に綺麗ね!」
海斗の熱烈な挨拶。
いつもなら東雲さんは「ふふ、ありがとう」と余裕の笑顔で返すはずだ。
けれど、彼女は俺の机の横を通りかかる直前、不自然なほどに視線を斜め上へと逸らした。
「……ええ。……おはよ。……。……」
それだけ。
いつもなら流暢に響く彼女の声が、わずかに上擦っている。
しかも、彼女は俺の机に自分のスカートが触れるのを異常なまでに避けるように、大股でスタスタと通り過ぎていった。
「…………」
俺は俺で、彼女が通り過ぎるまでの数秒間、息を止めることしかできなかった。
目を合わせるどころか、首を十度動かすことすら、今の俺には「東雲凛への宣戦布告」に等しい重圧に感じられたのだ。
「……? ねえ一真。……今の、なんか変じゃなかったか?」
海斗が眉をひそめて、東雲さんの背中を見送った。
「変って……。何がだよ」
「いや、東雲さん、お前のこと一ミリも見なかったろ。っていうか、お前の机の横を通る時、まるで『爆弾でも置いてある』みたいな避け方してたぞ。……お前、何か失礼なことでもしたんじゃないのか~?」
「――っ!? な、何もしてねーよ! 俺はただ、妹のパシリをしてただけだ!」
「ははっ! なんだよ、妹のパシリって! いきなり声荒らげんなよ!」
俺は動揺を隠すために、声を荒らげてしまった。
最悪だ。ポーカーフェイス、完全に崩壊中。
自分なりに上手くやれているはずだったのに、今の俺たちは、どう見ても「喧嘩したてで気まずい元カップル」か、あるいは「お互いを意識しすぎて爆発寸前の思春期コンビ」にしか見えなかった。
休み時間。
俺はトイレに行くふりをして、廊下の喧騒から逃れようとした。
けれど、角を曲がったところで、一ノ瀬咲希がニヤニヤしながら待ち構えていた。
「にひひ! カズッチくん、っけーつ!」
「うおぉっ!? ……一ノ瀬さん。……」
背後から飛びついてきた一ノ瀬さんが、俺の腕を掴んで離さない。
彼女の大きな瞳が、獲物を見つけた猛獣のように細められる。
「ねえねえ、カズッチくん。土曜日のあの豪雨、凄かったよねー!」
「……。……ああ。凄かったな」
「カズッチくんは妹ちゃんのパシリだったんだっけ? ……でもさ、凛りんもあの日、お出かけしてたみたいなんだよねー。しかも夜、帰ってきた凛りん、すっごくボケーっとしてて。咲希が電話しても『……心臓が、バフ不足……』とか、意味不明なこと呟いてたし」
「………………っ!!」
バフ。
その単語を聞いた瞬間、俺の背中に冷や汗が流れた。それは俺と彼女が、あの密室で共有した言葉。
「……で、今朝の二人のあの空気。徹底して『目を合わせないように努力してます!』って顔。にひひ、不自然すぎて笑っちゃうんだけど。……ぶっちゃけ、土曜日に何かあったでしょ?」
一ノ瀬さんは俺の胸元を指先でツンツンと突きながら、逃げ場を塞ぐように顔を近づけてきた。
知らない。一ノ瀬さんは俺たちが会っていた確証なんて持っていないはずだ。
でも、彼女の「察しの良さ」は、事実なんて関係なしに真実へ辿り着こうとしている。
「……一ノ瀬さん。俺たちは、ただの友達なんだ。週末に何があったかなんて、お前の妄想だよ」
「にひひ! 苦しいねぇ、カズッチくん! ……いいよ、今は泳がせてあげる。でもさ、凛りんにあんな顔させてるのがカズッチくんなら、咲希は全力で応援しちゃうよ?」
一ノ瀬さんは俺の肩をポンと叩くと、「あ、凛りんがこっち見てる! 逃げろー!」と風のように去っていった。
振り返ると、廊下の向こう。
東雲さんが、クラスの女子たちに囲まれながら、こちらをじっと見つめていた。
一瞬、視線が重なる。
(――っ!!)
東雲さんは、顔が沸騰しそうなくらい真っ赤になると、持っていたノートで自分の顔を下半分隠した。
そして、俺にだけわかるように――でも、いつもの余裕たっぷりな「にひひ」ではなく、今にも泣き出しそうなほど切ない目で、一度だけ瞬きをした。
『カズの、バカ。……どうしよう、心臓が、全然止まってくれない……』
そんな、彼女の心の叫びが、直接脳内に流れ込んでくるようだった。
あのネカフェの夜を境に。
俺たちを繋いでいるのは、もはや「信頼」なんていう綺麗な言葉だけではなく。
もっと熱くて、相手を独占したいという、剥き出しの「恋」という毒に侵されていたのだ。
「……。他人のふり、不具合発生中、か」
俺は自嘲気味に呟き、フラフラと自分の席に戻った。
午後の授業。東雲凛が、後ろに束ねた髪をほどき、さらりとした黒髪が彼女の白い首元を隠す仕草を見るたびに、俺の右手の指先は、あの夜の彼女の温度を思い出して、ピリピリと痺れ続けていた。
――夜。
帰宅した俺に、一通のLIMEが届く。
送り主は、もちろん『凛』だ。
【凛:今日のカズ。一回も、私と目、合わせてくれなかった。……。死刑】
「………………」
お前だって一度も合わせなかっただろ、と打ち込もうとして、俺は途中で指を止めた。
画面越しなら言える。
けれど、今の俺たちの間には、文字だけでは埋められない、あまりにも生々しい「体温」の記憶が横たわっていた。
【一真:……悪かったよ。明日は、ちゃんと見るから。二人だけの秘密だろ?】
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
【凛:にひひ。……うん。約束だよ、相棒】
俺の心臓は、この短いやり取りだけで、再び異常燃焼を始めた。
俺たちの「親友以上恋人未満」な毎日は、七月の熱い空気の中で、もう後戻りできない場所へと加速し始めていた。




