第54話 最後の嘘
「…………」
狭い。あらためて思うが、本当に狭い。
薄暗い個室の中、俺の右肩には東雲凛の頭の重みが預けられている。
一分だけ。そう言った彼女は、目を閉じて規則正しい呼吸を繰り返していた。俺のシャツを掴む彼女の細い指先が、微かに熱を帯びているのがわかる。
(……。……。……ダメだ。このままだと、俺の心臓が物理的に壊れる)
静寂が毒のように回る。
この甘い沈黙を切り裂くには、俺たちを三年間繋ぎ止めてきた「あれ」に頼るしかなかった。
「……。……。ハル。……そろそろ休憩、終わりだろ。……。……『エタレジェ』、やるか?」
俺が掠れた声で提案すると、凛はゆっくりと頭を上げ、少しだけ潤んだ瞳で俺を見つめた。
「…………にひひ。……。……。そうだね。……。……このままじゃ、カズが茹で上がって爆発しちゃいそうだもんね?」
「……。うるせー。……。ほら、ログインしろ。……。今やってる期間限定のペアダンジョン、まだクリアしてなかっただろ」
俺たちは、どちらからともなく並んでマウスを握り、キーボードに手を置いた。
狭いデスクの上に並んだ二つのモニター。
いつもなら、数キロメートル離れた互いの部屋から繋がっている電子の海。けれど今は、マウスを動かすたびに、俺の肘が凛の二の腕に触れる。彼女がキーボードを叩くたびに、しなやかな指の動きが視界の端で踊る。
「……。……。行くよ、相棒。……。……私たちの実力、見せつけてあげよっか!」
東雲さんの声が、いつものハルのトーンに戻る。
ゲームの世界に入った瞬間、俺たちの意識は一気に加速した。
画面の中では、重装騎士の俺と、大魔導師の彼女が、雷鳴轟く古城の奥深くへと足を踏み入れていた。
「カズ、左のトラップ注意! 私が氷結で止めるから、そのまま踏み込んで!」
「了解! ――そこかぁっ!!」
ボイスチャットは必要ない。
スピーカーから流れる音にかき消されそうな地声で、俺たちは言葉を交わす。
いや、言葉さえも、三年間積み上げてきた「魂のシンクロ率」の前では、単なる確認作業に過ぎなかった。
俺が盾を構えるタイミング。
彼女が最大火力の魔法をチャージする間隔。
今までヘッドセット越しに聴覚だけで捉えていた彼女の存在が。
今は、隣で集中して少しだけ荒くなった彼女の呼吸音として。
画面の反射を受けてキラキラと輝く、彼女の真剣な瞳の揺らぎとして。
そして、キーを叩くたびに微かに震える、隣り合った肩の振動として。
五感のすべてを通じて、俺の中に流れ込んでくる。
(……ああ。……。……。最高だ。……。……やっぱり、こいつとのゲームが、世界で一番楽しい)
俺の騎士が敵の攻撃を完璧にパリィし、隙を作ると同時に、ハルの放つ特大の雷撃が画面を白く染め上げた。
最後のボスが、断末魔と共に崩れ落ちる。
『――CLEAR!!』
画面中央に躍る文字。
最高難易度のペアダンジョンを、初見かつリアルタイムの隣り合わせで、俺たちは一発で突破してみせた。
「――よっしゃああああ!!」
「やったぁぁぁ!!」
興奮が最高潮に達した俺たちは、どちらからともなく顔を見合わせ――。
パチンッ!!
自然に、掌と掌が合わさった。
ハイタッチ。
けれど、その勢いのまま、俺たちの指先が、お互いの手のひらの中に絡まってしまった。
「…………あっ」
「…………。……」
我に返る。
絡まったままの指。
ハイタッチの余韻で、俺たちの顔は、互いの吐息がかかるほどの距離にまで近づいていた。
モニターの青白い光が、凛の顔を幻想的に照らしている。
少しだけ開いた彼女の唇。
長く、美しい睫毛。
そして、その奥にある……学校での天使の微笑みでも、相棒としての勝ち気な光でもない。
ただ、一人の女の子として俺を見つめている、熱くて、ひたむきな「恋」の色。
「…………。……。……。カズ」
彼女が、震える声で俺を呼んだ。
繋いだ指先に、ぎゅっと力が込められる。
「……。……なに、ハル」
「……ボイチャ越しよりも。……。……。……やっぱり生の声、今の声の方が……。……好き」
「――――っ!!」
……。
……ダメだ。
一ノ瀬さんがいて、海斗がいて、家族がいて、学校があって。
そういう外の世界のすべてが、今、この二畳の空間から消滅してしまったような気がした。
彼女は、繋いでいない方の手をゆっくりと伸ばし、俺のシャツの胸元を、ギュッと握り締めた。
「……。……。ねえ、カズ。……。……。まだ、雨……。……止まないね」
「……。……ああ。……。……止まないな」
「……。……。……。じゃあ。……もうちょっとだけ。……親友の範囲、広げても、いいかな?」
彼女は、俺の胸にこてんと自分の額を預けてきた。
貸した俺の上着の袖から、彼女の白い指が覗く。
「……。……今日の私、……どうだった?」
「……最高だったよ。……正直ずっと、……。……。見惚れてたわ」
「…………。にひひ。……嘘つき。……こんな騒いじゃってさ。さっきまで、……。……『目立ちたくない』って……顔してたのに」
「……そりゃ外じゃそうかもしれないけどここじゃ二人きりだしな。でも、お前が隣にいるんだから、……。……。……そんなの、……。……。どうでもよくなるだろ」
俺が開き直って答えると、東雲さんは「………………っ」と短く息を呑み、さらに俺の胸元に顔を押し付けてきた。
「……カズのバカ。……。……。……。……。……。今日一番のバフ(・・)、……。……。……。今、もらっちゃった」
彼女の体温が、シャツを通じて俺の心臓へと直接溶け込んでくる。
三年前。
声だけで始まった俺たちの物語。
それが今、この雨音とモニターの光に包まれた密室で。
ただの相棒から、誰にも代えがたい「自分だけのもの」へと、決定的に形を変えていた。
「……ハル。……。髪。……。乾いたな。雨もやんだか?」
「……うん。……でも、……離さないよ。……。今日は、……私の『ワガママ』の日なんだから」
「いつそんなこと言ったっけか?」
「カズの意地悪……バカっ」
彼女は俺の腰に、そっと手を回してきた。
「親友だから」
「相棒だから」
そんな言い訳は、もう二人とも、どこかに置き忘れてきていた。
外では、雨がいつまでもアスファルトを叩き続けている。
けれど、この狭い個室の中だけは。
世界で一番甘くて、世界で一番静かな、俺たちだけの「秘密の聖域」だった。
(……あーあ。……これ。……。……月曜からの学校。……。……。どういう顔すればいいんだよ、マジで……)
俺は心の中で、幸せすぎる絶望を噛み締めながら。
腕の中に収まった、小さくて、温かい相棒の重みを、ただただ大切に抱きしめ続けた。
六月の雨。
それは、二人の不器用な境界線を洗い流し。
新しい季節の始まりを、静かに、けれど雄弁に告げていた。
「…………ねえ、カズ。……。大好きだよ。……相棒として。……ね?」
「……。ああ。……俺もだよ。……親友としてな」
震える声で交わされた、最後の嘘。
けれど、重なり合う二人の心拍数は。
どんな言葉よりも正直に、同じリズムで未来を刻んでいた。




