第53話 二人きり、密室
「…………」
狭い。
あまりにも、狭すぎる。
わずか二畳にも満たない、防音された薄暗い個室。
目の前には巨大なモニターが二枚並び、その下にあるフラットなクッションマットの上で、俺と彼女は膝が触れ合うほどの距離で座り込んでいた。
俺のすぐ左隣。
そこには、俺の三年来の相棒にして、学園一、二の美少女――東雲凛がいた。
ふわりと、雨の匂いに混じって、彼女の髪から石鹸のような甘い香りが漂ってくる。
密閉された空間。聞こえてくるのは、外で激しく窓を叩く豪雨の音と、彼女の規則正しい、けれど少しだけ速い呼吸の音。
(……なんで。なんで俺は今、彼女と同じ個室で、密着して座ってるんだ?)
俺は、爆発しそうな心臓を必死に抑えながら、今日これまでの出来事を、まるで走馬灯のように思い返していた。
******
数時間前。午前十一時、駅前の時計塔の下。
「――カズ! お待たせ!」
人混みを抜けて走ってきた東雲さんの姿を見た瞬間、俺は自分の視覚情報がバグを起こしたのかと思った。
さらさらと流れる黒髪は、今日はサイドで編み込みにされていて、そこから覗く白い首元があまりに眩しかった。
オフ会でのドレスアップとも、学校での制服姿とも違う。
「佐藤一真と遊びに来た、等身大の女の子」としての、破壊力抜群の私服姿。
『……どうかな? ……。今日の私、カズに合格もらえるかな?』
はにかむように笑い、袖を指先でクイッと引いてくる彼女。
俺は「……満点だよ」と答えるのが精一杯で、そのままなし崩し的に、俺たちの「二人きりの遠征」は始まった。
まずは一ノ瀬さんへの誕生日プレゼント選びだ。
彼女は『男の子視点の意見が欲しい』なんて言っていたけれど、雑貨屋に入ればいつもの「ハル」全開だった。
「ねえカズ、これ見て! 咲希が好きそうな、キラキラした星のヘアピン。……。でも、咲希ならこっちのシンプルな方が、逆に喜ぶと思わない?」
「……。……。ああ、そうだな。あいつ、派手なのも好きだけど、実は自分でも使いやすいやつ選ぶタイプだしな」
「にひひ! 正解! ……やっぱり、カズはあの子のこともよく見てるんだね」
彼女は少しだけ不満げに、けれど嬉しそうに目を細めた。
結局、二人でああだこうだと議論しながら選んだのは、透き通った宝石のような飾りがついた小さな髪留めだった。
プレゼントを選び終えた後は、駅ビルの中のパスタ店でランチ。
注文をいきなりお任せと言われた俺が自然に、彼女の嫌いな生のブルーベリーが入ったデザートを回避して注文すると、彼女は「……。気遣いありがと、カズ」と、ボイチェンなしの地声で、耳が溶けるような甘いお礼を言ってくれた。
何もかもが、完璧だった。
午後は、俺が事前にリサーチしていた景色のいい公園へ行く予定だった。
丘の上から街が一望できる、少しだけロマンチックな場所。
「親友だから」という言い訳を胸に、俺は少しだけ、彼女ともっと長い時間を過ごしたいと願っていたのだ。
けれど。
バス停に向かう途中で、空の色が急激に変わった。
晴天はどこへやら、墨を流したような雲が広がり――。
――ザァァァァァァァァァッ!!
雷鳴と共に、文字通りバケツをひっくり返したような豪雨。
俺たちは慌てて近くの軒下に飛び込んだが、すでに服は半分以上濡れていた。
「……。……。酷い雨だな。……。一時間……いや、二時間は動けそうにないぞ」
俺が雨雲レーダーをチェックしながら呟くと、凛は寒そうに自分の肩を抱き、俺が避難した場所の看板を見上げた。
「……。……。ねえ、カズ。……。……ここ、入ろっか」
そこは、駅前の雑居ビル。
ネカフェの看板が、雨の中で怪しく光っていた。
二人ともずぶ濡れで外で立ち往生するわけにはいかないし、俺の家までは距離がある。
俺は迷わず受付に向かった。……が。
『――すみません、本日満席でして……。あ、一部屋だけ、鍵付き個室の「ペアフラットルーム」なら空きが出ました。いかがなさいますか?』
「…………」
「…………」
俺と東雲さんは、顔を見合わせた。
カップル専用と言わんばかりの、完全個室。
けれど、外は嵐。他に行く場所はない。
『……。しょうがないよね。……。……雨だもん。……ね、カズ?』
彼女が、顔を真っ赤にしながら俯いて、俺の袖を掴んだ。
その指先の微かな震えが、俺に「拒否権なんてない」ことを悟らせた。
「親友だから」「相棒だから」。
その最強の盾を構えながら、俺たちは受付を済ませ、この狭い聖域へと逃げ込んだのだ。
******
「……。……。ハル。……。濡れたままだと風邪引くぞ。……。ほら、タオル使えよ」
店員から渡された貸し出し用のタオルを差し出す。
彼女は「ありがと……」と小さく呟き、ワンピースの襟元を抑えながら、濡れた髪を拭き始めた。
彼女の白い肌が、雨と冷気のせいで少しだけ上気している。
ブラウスが肌に張り付き、普段の制服姿では決して見ることのない、彼女の華奢な、しかし出るところはしっかりと出ている体のラインが浮き彫りになっていた。
(………。ヤバい。……。見ちゃダメだ。……。……。俺は今、レイドボスのギミックを解析してるだけだ……)
俺は必死にモニターの電源を入れ、眩しい光を直視して目を逸らした。
けれど、狭い室内。
彼女が動くたびに、フラットマットが沈み、彼女の肩が俺の腕に触れる。
「……。……。カズ。……。……ごめんね。……。……なんか、変な感じにさせちゃって」
彼女が、膝を抱えたまま、横から俺の顔を覗き込んできた。
濡れた黒髪が数本、彼女の頬に張り付いている。
学校での、自信に満ち溢れた「東雲凛」ではない。
三年前から、俺だけが知っている……少しだけ気弱で、けれど俺にだけは全てを預けてくれる、相棒の顔。
「……。別に、気にしてねーよ。……。雨宿りだろ、雨宿り」
「…………にひひ。……嘘つき。……。雨宿りなだけ、だなんて思ってないでしょ。カズ、耳まで真っ赤だよ?」
東雲さんはそう言うと、俺の腕を指先でツンと突いた。
「……。……。ねえ、カズ。……。……一分だけでいいから。……。……こうしててもいい?」
彼女は俺の返事を待たず。
こてん、と。
俺の右肩に、自分の頭を預けてきた。
「――――っ!!」
今日一番の、暴力的なまでの心音。
「……今日一日、ずっと『東雲さん』でいるの頑張ったから。……。……。ちょっとだけ、休憩。……。……。親友なんだから、これくらい、いいでしょ?」
彼女の声は、雨音に溶けてしまいそうなくらい優しかった。
親友。相棒。
俺たちが三年間守り続けてきた、その言葉の境界線。
けれど、この密室の中で。
重なる肩の温度。
混ざり合う吐息。
そして、暗がりの中で輝く彼女の瞳。
そのすべてが、もう「親友」なんていう便利な言い訳じゃ、到底説明できないレベルまで……俺たちの心を、熱く、深く、溶かし始めていた。
「…………。……ああ。……。好きなだけ、休憩してろ」
俺は、震える手でマウスを握り、何気なく立ち上がった『エターナル・レジェンド』のログイン画面を見つめた。
画面の中には、いつもの二人。
けれど、リアルの世界にいる俺たちは。
もう、昨日までの俺たちには……二度と、戻れない場所に立っていた。
(……。……。これ、雨が上がっても……俺、部屋から出られる自信がないんだけど……)
俺は心の中で盛大に溜息をつき、隣で安心したように目を閉じる彼女の、髪の残り香に身を委ねた。
俺たちの「二人きりの密会」。
その真の幕開けは、この静寂の後に待っていることを、この時の俺はまだ、予測すらできていなかった。




