第48話 相棒としてではなく
個室を出て、マリエさんに腕を引かれるまま辿り着いたのは、フロアの隅にある豪華なラウンジだった。
全面ガラス張りの向こうには、午後の柔らかな光に包まれた街並みが広がっている。
「――ふぅ! やっと解放されたわね。男の子たちの前じゃ、恥ずかしくて聞けないことが山ほどあるんだから!」
マリエさんはソファに深く腰を下ろすと、さっきまでの「騒がしいお姉さん」の仮面を脱ぎ捨て、どこか艶っぽい、大人の女性の笑みを浮かべた。
「……マリエさん、そんなに身を乗り出さないでください。恥ずかしいです」
私は、自分の膝の上で指を絡めながら、真っ赤な顔で俯いた。
隣にはユキさんが座り、優しく私の背中をさすってくれている。
「いいのよ、ハルちゃん。マリエさんはああ見えて、三年間ずっと、あなたとカズくんのやり取りを『尊い……!』って悶絶しながら見守ってたんだから。……今日は、いわばその『答え合わせ』の儀式みたいなものなのよ」
「ユキさんまで……っ。……。……答え合わせなんて、そんな大げさなものじゃないです。私たちは、ただの相棒で……」
「あらぁ!? 『ただの相棒』!? ビュッフェでのあの甲斐甲斐しいお世話焼きを見て、そんなこと言えるのかしらぁ?」
マリエさんがニヤニヤしながら私の顔を覗き込んできた。
……。……。バカ、私の口。
ハルとしてなら、「うるせーおばさん!」って言い返せるのに。
今の私は、カズに「綺麗だ」と言われて選んだ、このワンピースを着ている「東雲凛」なのだ。
「……。……。マリエさん。……。私は、ただ。……。カズが、私の本当の中身を知っててくれるのが、心地いいだけなんです。……。……学校では、みんな私のこと『天使』だとか『完璧』だとか言うけど……。……本当は、口も悪いし、わがままだし、全然そんなんじゃないんです。……。……そういう、酷い私を『ハル』として笑ってくれるカズが……隣にいてくれないと、私……。……うまく息ができない時があるっていうか……」
言葉にすると、胸の奥がぎゅーっと締め付けられる。
三年前。
電子の海で、マヌケな騎士を拾ったあの日から。
私の世界は、少しずつ、けれど確実に塗り替えられていった。
誰も信じてくれなかった「私の本音」を。
あいつだけは、顔も知らない私の声を信じて、隣に立ち続けてくれた。
「……。……。だから、カズは……。……その、親友、なんです。それ以上でも、以下でもなくて……。……最近、学校でカズが他の子にチヤホヤされてるのを見ると、なんだか……。……。相棒を取られるみたいで、ちょっとだけイライラするっていうか……」
俯いたまま、必死に「友情」であることを強調しようと言葉を紡ぐ。
けれど、それを聞いたマリエさんは、フフッと楽しそうに鼻で笑った。
「…………。ハルちゃん。……。……。それ、自分でも気づいてないの?」
「……。え?」
「いい? 28歳の婚活戦士お姉さんが教えてあげるわ。……。……。その『イライラ』も『呼吸が苦しい感じ』も、相棒としての独占欲なんかじゃないわよ。……。……。それは、女の子としての『恋』っていうのよ」
「――っ!? 違、違います! 恋とか、そういう、ドラマみたいなものじゃ……っ」
「親友のふりをしてるだけ。本人は無自覚。……。あぁもう、最高じゃない! ご馳走様です!!」
マリエさんがソファの上でのたうち回る。私は顔から火が出そうなくらい熱くなって、両手で頬を押さえた。
「照れてるハルちゃん、本当に可愛いわねぇ。ね、ユキさん!」
ユキさんは、静かに微笑みながら私の手を取った。
「ふふ。そうね。……。ハルちゃん。……。あなたは、ずっと学校で完璧な役割を演じようとしてきたから、自分の本当の気持ちに少し鈍感になっているだけ。……。……。でも、カズくんの前でだけは、その鎧を脱げているんでしょう? ……。……。彼を思い浮かべた時に、胸がキュッとなるなら。……。それは、あなたが彼に『心』を許しきっている証拠よ」
「……。……。胸が、キュッとなる……」
ユキさんの言葉を反芻するように、私は目を閉じた。
咲希とカフェに行った時、カズが私のためにブルーベリーを避けてくれた時の、あの自然な優しさ。
球技大会のとき、屋上で私の手を握り締めてくれた時の、あの大きな掌の熱さ。
「お前の隣は、俺の特等席だ」なんて、デリカシーのないことを真顔で言ってくる、あの真っ直ぐな瞳。
(……。……。違う。……。……違うはずなのに……)
頭では否定しているのに。相棒としてではなくて
私の心臓は、彼の名前を呼ぶだけで、さっきから不規則なビートを刻み続けている。
「……。……。でも、カズは私のこと、親友だって思ってるし……。……。私も、今の関係を壊したくないんです。……。……。だから、好きとか、そういうのは……まだ……」
「にひひ。……。……。まあ、今はそれでいいんじゃない? 無自覚なままの方が、面白いこともあるしね!」
マリエさんが、私の頭をポンポンと叩いた。
「ほら、鏡見てごらんなさい。……。……。そんなに頬を赤くして、『そんなことないです!』って必死に否定してる自分をさ。……。それだけで、もう十分すぎるくらいの答えが書いてあるわよ」
ラウンジの壁にある大きな鏡。
そこに映っていたのは。
学校での凛とした「東雲凛」でもなく。
ボイチェンで粋がっていた「ハル」でもない。
ただ、大好きな人を想って、顔を真っ赤に染めている……一人の、可愛げのある女の子の姿。
(……。……。そんなこと、ない。……。……私は、まだ……カズの『相棒』なんだから……っ)
心の中でそう言い聞かせるけれど。
指先が、ドレスの裾をギュッと強く握り締めていた。
「さて。……そろそろ戻りましょうか。……。カズくんも、きっと首を長くして待ってるわよ。……ハルちゃん。……。今の気持ち、大切にしなさいね。……。……いつか、自分でも名前をつけられる日が来るまで」
「……はい。……。ありがとうございます、ユキさん」
私は、自分の熱を冷ますように深く息を吐き出すと、立ち上がった。
まだ、はっきりとは言えない。
「好き」なんて言葉、今の私にはあまりに重すぎるから。
けれど。
扉の向こう側にいる、あの不器用な騎士の元へ帰れることが。
今、何よりも嬉しくて、誇らしくて、楽しみなのだということだけは。
もう、自分でも誤魔化せないほど、私の心に深く刻み込まれていた。
「さーて! デザートのおかわり、誰が行く!? ハルちゃん、お姉さんと一緒に選びましょ!」
「……あ、はい! 行きます!」
私は、少しだけふわふわとした足取りで、個室への一歩を踏み出した。
扉が開く。
カズと、目が合う。
一瞬、カズが私の顔を見て驚いたように目を見開き、それから「……。おかえり」と、少しだけ照れくさそうに笑った。
その顔を見た瞬間、さっきラウンジで冷ましたはずの頬が、また一気に熱くなるのを感じた。
「…………っ。……。……。にひひ。……。……ただいま、カズ」
私は、誰にも聞こえない声で彼にだけ挨拶し、彼の隣の「特等席」へと座り直した。
大人の階段を一段、踏み外してしまいそうな、六月の土曜日。
私たちのオフ会は、これから最高のフィナーレへと向かおうとしていた。




