第47話 宝物
女性陣が部屋を出ていき、重厚な扉がカチャリと閉まった。
さっきまでのマリエさんの絶叫や、東雲さんの「バカ一真」という甘い罵声が嘘のように、個室には静かな時間が訪れた。
「……ふぅ。嵐が去ったな」
テツさんが背もたれに深く体重を預け、ふぅと大きな溜息をついた。
俺――佐藤一真は、ゲンゾウさんから渡されたウーロン茶のグラスを見つめていた。カランと氷が鳴る。
「いやぁ、カズ。お前、マジですごいわ」
口火を切ったのは、大学生のシンくんだ。彼は少しだけ羨ましそうな、けれど敬意の混じった目で俺を見ていた。
「ハルちゃんあんだけ可愛いだろ? リアルの、しかも同じ学校のトップ美少女が相棒だったなんてさ。普通、そんなの気づいた瞬間にガチガチになって会話もできなくなるぜ?」
「……。実際、俺も最初は死ぬかと思いましたよ。今でも、なんで俺なんかが隣に座ってるんだろうって思う時がありますし」
俺が本音を漏らすと、ゲンゾウさんが眼鏡の奥の瞳を和らげて笑った。
「カズくん。……君はさっき、自分のことを『モブ』だと言っていたけれど。……僕たちから見れば、君ほど『特別』な男はいないよ」
「……。どういう意味ですか?」
「ハルちゃんが、なぜ三年間も性別を偽り続けてきたか……その理由は聞いたのかい?」
「……。はい。対等な友達が欲しかった。学校ではみんな、彼女を外見やステータスでしか見てくれないから、って」
ゲンゾウさんは頷き、自分のグラスを回した。
「そう。……でもね、ハルちゃんにとって、カズくんはただの『対等な友達』じゃなかったんだよ。……カズくん、君は初心者の頃から、彼女がどんなに強い魔法を放っても、どんなに口悪く指示を出しても、一歩も引かずに彼女の隣に立ち続けてきた。……外見も知らない、声も加工された、正体不明の『少年ハル』の、その魂だけを見て信じてきた。……そんな経験を中学時代の多感な時期に三年間も積み重ねた相手を、女の子がどう思うか……わかるかな?」
「…………」
言葉に詰まる。
俺にとっては、それが当たり前だった。ハルが強くて、格好良くて、負けず嫌いで。そんなあいつの中身が好きだから、俺は盾を構え続けてきた。
「がはは! カズ、お前のそういう鈍感なところ、嫌いじゃないぜ」
テツさんが豪快に笑いながら、身を乗り出してきた。
「俺は自営業でいろんな人間を見てきたがな。……あの嬢ちゃん。……さっきお前に詰め寄った時の目、見たか? あれはな、『私の価値を一番わかってるのは、世界中でこの人だけなんだ』っていう、絶対的な確信の目だ。……そんな目をあんな可愛い女の子から向けられる男が、モブなわけねーだろ」
「…………」
「いいか、カズ。大人の世界じゃな、地位や名誉や金で寄ってくる奴はいくらでもいる。……でも、何もないところから築き上げた『信頼』ってのは、一生の宝だ。……お前らはもう、それを手に入れちまってるんだよ」
テツさんの太い声が、俺の胸の奥を震わせた。
学校での東雲さんは、誰にでも優しい「天使」だ。けれど、彼女の本当の笑顔、本当の怒り、本当の弱さを知っているのは、海斗でも一ノ瀬さんでもない、俺なのだ。
その優越感。その責任の重さ。
「親友」という言葉で誤魔化し続けてきた境界線が、大人の言葉によって鮮やかに色分けされていく。
「……カズくん」
ゲンゾウさんが、ふと真面目な顔で俺を呼んだ。
「君は、彼女をどうしたいと思っているんだい? ……もちろん、今は『親友』のままでもいいだろう。でも、彼女はもう、その一歩先を見据えて動いているんじゃないか?……今日の服だって、僕たちに見せるためじゃない。……恐らく君を、見惚れさせるために選んだものだ」
「――っ!?」
「僕にはわかるよ。三年間、彼――いや、彼女の成長を見守ってきたからね。……カズくん、君が彼女の隣で『騎士』であり続けたいなら。……そろそろ、彼女を一人の女の子として、真っ向から受け止める準備をしなきゃいけないんじゃないかな」
ゲンゾウさんの眼鏡が、西日に反射して白く輝いた。
「……受け止める……準備」
「そうだ。……彼女が、学校での『東雲凛』という仮面を脱いで、カズくんの肩に頭を預けられるのは、君が揺るぎない場所で待っていてくれると信じているからだ。……君が『俺なんてモブだ』なんて逃げ腰でいたら、彼女はどこへ帰ればいい?」
……。
…………。
ハッとした。
俺は、彼女に握られた「黒歴史」や「性癖」に怯えているフリをして。
彼女の圧倒的な美しさに、俺なんかが釣り合わないという理由をつけて。
本当は、自分の気持ちと向き合うことから逃げていただけなんじゃないか。
東雲さんが俺を必要としてくれている。
そしてハルが俺を信頼してくれている。
その事実から目を逸らして、俺は「相棒」という便利な隠れ蓑の中に逃げ込んでいただけだったのだ。
「……ゲンゾウさん。テツさん。ありがとうございます」
俺は、手に持っていたウーロン茶を一気に飲み干した。
冷たい液体が喉を通るたびに、迷いが少しずつ削ぎ落とされていく。
「……。俺、まだガキで……。正直、あいつが何を考えてるのか、全部は分かりません。……でも。あいつが『ハル』でいられる場所だけは、俺が、死んでも守り抜きます。学校でも、どこでも」
俺が絞り出すようにそう答えた時だった。
それまで、巨大な岩のように微動だにせず、黙々と烏龍茶を飲んでいたクマさんが、ゆっくりと巨体を揺らして動いた。
「…………カズ」
地響きのような、低く重厚な声。
今日、彼が初めて発した言葉だった。あまりの音圧に、シンくんが「お、クマさんが喋った……」と息を呑む。
クマさんは大きな手を伸ばすと、俺の取り皿の上にある、食べ終えたローストビーフの端切れと、東雲さんが俺の皿に分けたサーモンの残りに視線を落とした。
「……味付けは、他人が決めるもんじゃない」
「……。え?」
料理好きの彼らしい、比喩の混じった言葉。
クマさんは俺の目をじっと見据えた。その瞳は、深い森のように静かで、すべてを見透かしているようだった。
「……最高の素材を、一番美味しく引き立てる『塩』が何かなんて……。三年間、隣で火加減を見てきたお前が、一番よく知ってるはずだ。……自信を持て。お前がいないと、あの料理は完成しない」
短い言葉だった。
けれど、一流の料理人が素材の価値を保証するように、クマさんは俺と東雲さんの「関係」を、一言で肯定してくれたのだ。
テツさんのような熱さでも、ゲンゾウさんのような論理でもない。
ただそこに在るだけで安心感を与える、絶対的な肯定。
クマさんは大きな手で俺の頭を一度だけ、ポン、と叩くと、再び無言で烏龍茶のグラスを傾けた。
「がはは! クマさんの太鼓判だぞ、カズ。これ以上の保証書はねえな!」
「……はい。……。ありがとうございます、クマさん」
俺が深々と頭を下げると、クマさんはわずかに口角を上げ、満足げに一度だけ深く頷いた。
そうするとテツさんが俺の背中を、ポンと叩いた。
「いやぁ、いいもん見せてもらったわ。マスター、今日のオフ会、これだけで会費の元が取れたぜ」
シンくんも「いいなぁ……俺もそんな風に言われてぇわ」と苦笑いしている。
それから少し違う話になり、ゲームの話やらプライベートの話しやらを済ませた。
そしてゲンゾウさんは、時計に目をやった。
「……さて。そろそろ女性陣も戻ってくる頃かな。……カズくん、顔を洗いに行かなくていいかい? 少しだけ、いい男の顔になってるよ」
「……。……勘弁してくださいよ」
俺が照れ隠しに笑った、その時。
扉の外から、再び賑やかな声が近づいてきた。
「――ねえ凛りん、今の話、カズッチくんに聞かせたら絶叫しちゃうわよーっ!」
「マリエさん、それだけは本当にやめてください!!」
賑やかな声。
マリエさんの楽しそうな笑い声と、少しだけ焦ったような、けれどこれまでになく「楽しそうな」東雲さんの地声。
扉が開き、三人の女性が戻ってくる。
東雲さんは、俺と目が合った瞬間。
(――……。……っ)
ほんの一瞬だけ、恥ずかしそうに視線を逸らした。
けれど、すぐにまた俺の方を向いて、少しだけ不安げに、けれど信頼を込めた瞳で微笑んだ。
その顔を見た瞬間。
俺の胸の中にある「親友」という言葉が。
もっと熱くて、もっと重くて、もっと大切な……何かに、形を変える音がした。
「……ハル」
俺が、誰にも聞こえない声で彼女の名を呼ぶ。
彼女は小さく首をかしげて、にひひと、俺だけに見せる最高の笑みを浮かべた。
学校では、他人のふり。
ギルドでは、最強のペア。
けれど。
これからの俺たちは、きっと、それ以上の何かになっていく。
大人の階段を一段だけ登ったような、そんな不思議な高揚感の中で。
俺たちのオフ会は、いよいよクライマックスへと向かおうとしていた。
「さーて! デザートのおかわり、誰が行く!? ハルちゃん、お姉さんと一緒に選びましょ!」
「あ、はい! 行きます!」
再び賑やかになる個室。
俺は、今度は自分から東雲さんの椅子を引き、彼女が立ち上がりやすいようにサポートした。
「……ありがと、カズ」
耳元で囁かれたその言葉は。
爽やかな音色を奏でて、俺の心に深く、深く、刻み込まれた。




