第12話 脅してなんかいない
我が家の古びたリビングが、かつてないほど「尊い」オーラに包まれていた。
その源泉は、テーブルを挟んで俺の対面に座る、東雲凛――いや、相棒のハルだ。
「さあさあ凛ちゃん、遠慮しないで食べてちょうだい! これ、今朝焼いたばかりなの」
「ふふ、ありがとうございます。とっても美味しそうですね」
東雲さんは、母さんが出したシフォンケーキを、実に上品な手つきで口に運ぶ。
キャップを脱ぎ、さらさらとした黒髪を耳にかけた彼女の仕草は、まさに「学園の天使」そのもの。その破壊的な美しさに、我が家の一名が完全にノックアウトされていた。
「…………っ」
母さんの隣。いつもは反抗期の妹・双葉が、まるで本物の神様を前にした信者のように、顔を真っ赤にして固まっている。
双葉は、中学の女子バスケ部員だ。彼女にとって、高校の女子バスケ部のエースであり、モデル並みの美貌を持つ東雲凛は、雲の上の、そのまた上の「憧れの象徴」そのものなのだ。
双葉は、緊張した手つきでティーポットを握りしめると、蚊の鳴くような声で凛に話しかけた。
「……あ、あの……東雲さん。……おかわり、いかが、ですか?」
「わあ、ありがとう、双葉ちゃん。……そんなに緊張しないで? リラックスしてね」
東雲さんが優しく微笑むと、双葉は「はわわ……」とでも言い出しそうな顔で、勢いよくお辞儀をした。
「……っ! も、勿体ないお言葉です! わ、私、東雲さんの試合、いつも見てて……あの、ファン、なんですっ!」
「えっ、本当に? 嬉しいな。今度、一緒にバスケしようよ」
「……っ!!(尊死)」
双葉は感激のあまり、言葉を失って震えている。
……が。
憧れの女神から視線を外した瞬間、双葉の瞳から「光」が消え、代わりに俺に向けられたのは、絶対零度の殺意だった。
「…………。ねえ、お兄」
「……な、なんだよ、双葉」
隣に座る双葉は地を這うような言葉を投げつけてきた。
「……お兄、東雲さんに何をしたの? ……どんな卑怯な手段を使って、この『世界の宝』を我が家に連行したの? ……正直に言いな。お兄が脅迫した証拠さえあれば、私、今すぐお巡りさんを呼んであげるから」
「冤罪だわ!! 普通に友達として遊びに来てくれただけだってば!」
「嘘。……こんなに美しくて、優しくて、聖母みたいな人が、あんたみたいなジャージ姿のキモオタを好き好んで訪ねてくるわけない。……ありえない。宇宙の法則が乱れてる」
双葉は本気で俺を犯罪者だと疑っている。
だが、そんな俺たちのコソコソ話を、東雲さんが聞き逃すはずもなかった。
彼女はクスクスと喉を鳴らして笑うと、わざとらしく俺の腕を軽く小突いた。
「にひひ。双葉ちゃん、お兄さんのこと厳しすぎない? ……カズはね、こう見えてゲームの中だと、すっごく頼りになるんだよ。私のことをいつも守ってくれる、最高のパートナーなんだから」
「…………っ!!」
カズ。パートナー。
その言葉の響きに、双葉の顔が引き攣った。
「……カズ。……今、お兄のことを、カズって……」
「あ、ごめんね。ゲームの中の癖でつい。……ねえ、カズ。さっき話してた新作のドラゴンのフィギュア、見せてくれるんじゃなかった?」
東雲さんはスッと立ち上がると、自分のスマホの裏側に貼ってある例のシールを、わざとらしく双葉に見えるように掲げた。
「これ、カズとお揃いなの。……ね、相棒?」
……。
…………。
「…………決まったわ」
双葉がポツリと、絶望に満ちた声を漏らした。
「……なにがだよ、双葉」
「……お兄。あんた、東雲さんのスマホにまで、変な魔術をかけたのね。……お揃い? あんたと東雲さんが? ……ああ、分かった。……あんた、東雲さんの『恥ずかしい写真』か何かを握って、無理やりお揃いにさせたんでしょ。……死ねば、お兄。汚物。ゴミ」
「だからひどすぎるだろ!!」
「――凛ちゃん、お待たせ! ピザも焼けたわよ!」
母さんが能天気にピザを運んでくる中、双葉は俺を「人類の敵」を見るような目で見据えたまま、東雲さんに対しては深々と頭を下げた。
「……東雲さん。……もし、この『犯罪予備軍』に何か弱みを握られているなら、今のうちに私に言ってください。……私、お兄を消してでも、あなたをお守りしますから」
「あはは! 双葉ちゃん、本当に面白いね。大丈夫だよ、私、自分から『カズの部屋に行きたい』ってお願いしたんだから」
東雲さんはそう言うと、俺の背中をポンと押した。
「ほら、行こ。二人きりじゃないとできないお話、たくさんあるでしょ? ……ね、カズ?」
……。
…………。
「…………。警察、呼んでくる」
双葉がスマホを取り出したところで、俺は慌てて東雲さんを連れて階段を駆け上がった。
背後で双葉が「凛さん、逃げてー!!」と叫ぶ声が聞こえる。
地獄だ。
憧れの先輩を兄が脅迫していると信じ込んだ妹。
そして、そんな状況を楽しんで、あえて疑惑を深めるようなセリフを吐く相棒。
俺は震える手で自分の部屋のドアを開けた。
そこは、俺のプライベートな聖域。……だった場所だ。
「お邪魔しまーす! ……へぇ、意外と綺麗にしてるじゃん、カズ」
「そこら辺適当に座ってくれ」
リラックスした様子で俺のベッドの縁に腰掛ける東雲凛。
閉められたドア。
密室。
漂う、彼女の甘い香り。
家族の視線からは逃れられたが、ここからが本当の「地獄」の始まりであることを、俺は痛いほど自覚していた。




