第10話 黒歴史には敵わない
水曜日、五限の数学。
黒板を流れる数式は、今の俺の目には呪文にしか見えなかった。
俺の頭の中は、今朝の朝食時の光景――母さんと双葉が「ハルくん歓迎パーティー」の献立を楽しげに相談していたシーンで埋め尽くされている。
(……無理だ。やっぱり、どう考えても無理すぎる)
東雲さんが俺の家に来る。
それだけで国家非常事態レベルの衝撃なのに、家族は「むさ苦しいネトゲ仲間の男」が来ると思い込んでいるのだ。
もし、あの「学園の天使」が俺のボロアパートに現れたら?
母さんは腰を抜かし、反抗期の双葉は「お兄、いつの間にこんな美少女をたぶらかしたの? キモすぎて死ねば?」と冷徹な軽蔑の目を向けてくるに違いない。
いやさすがにそんなことはないのだが。
俺の平穏な家庭内地位(すでに底辺だが)が、完全に崩壊する未来しか見えない。
チラリと、前方斜めの席を見る。
そこには、真面目にノートを取る東雲さんの後ろ姿があった。さらさらとした黒髪が陽光に透けて、相変わらず現実離れした美しさだ。
そんな彼女が、数日後には俺の汚い部屋の座布団に座っている。……いや、その前にリビングで母さんの手作りケーキを食べさせられるのだ。
(……断ろう。今ならまだ間に合う。親友なら、俺のこの切実な危機を理解してくれるはずだ)
俺は意を決して、机の下でスマホを取り出した。
授業中に連絡はしないという『相棒ルール』を破り、俺は震える指でLIMEを打ち込んだ。
『カズ:ハル、悪い。土曜日の件、やっぱり無しにできないか?』
送った直後、前方の東雲さんの肩がピクッと跳ねた。
彼女は周囲を気にするように少しだけ首を動かし、膝の上でスマホを確認したらしい。
すぐに、画面が震える。
『凛:えー、やだぁ。何で?』
ぐぬぬ。
『カズ:何でもなにもない。俺の家、今ヤバいんだよ』
『カズ:母さんと妹が、お前が「男」だと思い込んで、すごいもてなしの準備を始めちゃってて』
『カズ:このままお前が来たら、俺の社会的生命が絶たれる』
必死の訴え。
だが、返ってきたのは、予想だにしない一言だった。
『凛:だって、行きたいんだもん』
……。
…………。
『カズ:いや、「行きたいんだもん」じゃなくて、事情を汲んでくれよ』
『カズ:お前、東雲さんなんだぞ? クラスの女王だぞ? 』
『カズ:そんなのが俺の家に来て、家族と対面してみろ。俺、誘拐犯か何かに間違われるぞ』
『凛:大丈夫だよ、変装していくって言ったじゃん』
『凛:それに、カズの部屋で直接アプデの相談したいし』
『凛:とにかく、私は行くからね。絶対!』
画面越しでも伝わってくる、この頑固さ。
そうだ、思い出した。ハルは、一度こうと決めたら絶対に引かない奴だった。
ネトゲのレイド戦で、勝率数%の絶望的な状況でも『私は最後まで殴り続けるから!』と言い張って、結局最後は俺が折れて付き合わされるのがいつものパターンだ。
(……くそ、意外と頑固なんだよな、この相棒……!)
俺は頭を抱えた。
どうにかして諦めさせなければならない。
放課後、俺は悶々としながら時間を過ごし、いつも通りの時間にボイスチャットにログインした。
画面にはすでにハルがログインしている。
「――ハル、さっきの続きだ。マジで土曜日は考え直せ。俺、死ぬぞ。母さんのテンション、今からマックスなんだぞ」
スピーカーから聞こえてきたのは、クスクスと楽しげな、けれど一歩も引く気のない凛の声だった。
『にひひ。カズってば、大げさだなぁ。……そんなに嫌なら、こっちにも考えがあるよ?』
「……。……考えって、なんだよ」
嫌な予感がした。
土曜日のキャンセルを勝ち取ろうとする俺の喉元に、彼女は最凶の刃を突きつけてきた。
『……体育の時間。……ポニーテール。……うなじ』
「…………っ!!」
心臓が止まるかと思った。
彼女がボイスチャット越しに、平熱のトーンで呟いたその単語。
それは、俺が深夜のテンションでハルに送った、最低で最悪な俺の「黒歴史」の一部。
『……前、カズがVCで言ってたよね? 「一ノ瀬さんが髪を縛った時のうなじの産毛は禁断の聖域。あの辺りの空気をボトルに詰めて保存したい」……だっけ?』
「すみませんでしたぁぁぁぁ!!」
俺はパソコンの前で、誰に見られるわけでもないのに盛大に土下座した。
「俺が悪かった! 記憶から消してくれ! 土曜日、どうぞ来てください! ケーキでもピザでも、何でも用意させていただきますからぁ!!」
『あはは! 物分かりが良くて助かるよ、カズ。……じゃあ、土曜日の午後、楽しみにしてるからね。相棒?』
ハルの声は、勝利を確信した女王のそれだった。
……完敗だ。
俺には、この美少女に逆らう術なんて、最初から一ミリも残されていなかったのだ。
(……「うなじの空気を保存したい」なんて、本人にバレたら一生軽蔑される……。それを一ノ瀬さんにでも言われたら、俺の人生は社会的に終了だ……)
俺は絶望のどん底で、土曜日に向けた「処刑台」への準備を始める決意を固めた。
ログインした画面の中で、東雲さんのキャラクターが俺の周りを嬉しそうに走り回っている。
そのあざとい動きに、俺は怒る気力すら失って、ただただ深い溜息をついた。
「……ハル。……お前、本当に性格悪いぞ」
『にひひ。知ってるでしょ? 私たち、親友なんだから!』
明日。学校で彼女と目が合った時。
彼女はきっと、勝利を祝うような最高の「アイコンタクト」を送ってくるだろう。
俺の心臓は、恐怖と、そして抗えないときめきで、もうボロボロだった。
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