「本当にあったかもしれない」部分
どうして大人って、自分のできないことを子どもに無理矢理やらせようとするんだろうね?
あ、いや、うちの父さんなんだけどね。
いつもいつも僕に言うんだ。「自分が正しいと思うことは、きちんと主張しろ。その方が楽だからといって、簡単に頭を下げるな」ってね。
でも、そういった次の日、教室で――あ、僕の父さん、小さな塾をやってるんだけど――さわいでいる生徒に向かって「申し訳ないが、今は授業中だ。退屈な授業をして悪いが、どうかさわぐのは止めてくれないか?」なんてぺこぺこ頭を下げるんだ。
おかしいよね。
だから、次に同じようなことを言われたとき、指摘してやった。
「父さんはいつも教室で謝ってばかりいるじゃん。悪いことをしてるのはあいつらなのに」ってね。
そしたら、ぐっと言葉に詰まった後で「……大人にはいろいろあるから、仕方ないんだ」だって。
大人にいろいろあるように、子どもにだっていろいろあるんだよ、そういうときは簡単に自分を曲げて頭を下げてもいいの、って聞いてやろうかと思った。けど、それをやったら「お前はなにも分かってない!」とかわめいたあげく、延々説教するに決まってる。だから、それ以上なにも言わずに黙ってたけど……おかしいよね?
それとも、こんなことばかり考えてる僕の方がおかしいのかな?
でも、仕方ないよね。他の子は、騒いだりはしゃいだりするのが好きみたいなんだけど、僕はそんなことより、いろいろ考えるのが好きなんだもの。
僕は、皆瀬川塁。中豊市立東中豊小学校に通う、小学5年生。身長143センチ。体重35キロ。好きな食べ物はカレーライス。
そして、僕の背後には、穴が空いているんだ。
いつからその穴が空いてたのか、はっきりとは覚えてないんだよね。気がついたら穴があって、ずっと僕の後をついてくるようになってたんだ。
いや、うん、おかしなことを言ってるのは自分でも分かってるよ。普通、穴っていうのは地面に「ボコッ」て空いてるもので、誰かの後をついて動いたりしないもの。だから、僕の後をついてくるあれは、ひょっとすると穴じゃないのかもしれない。でも、見た感じとかは穴にそっくりだし、その働きも穴とよく似てるって思うから、僕は勝手に「穴」って呼んでる。
一体、どんなものなんだって?
ええと……説明するのが難しいな。僕にとって「穴」は「穴」だから。
でも、まあ、やってみるよ。
穴はね、真っ黒で、真っ暗なんだ。
SNSとかで見たことないかな?『世界一黒い塗料で部屋を塗ってみた』みたいな動画。
その塗料って、光をほとんど反射せず、全部吸収しちゃうみたいなんだ。だから、それを塗ると、外から入ってきた光が全く見えなくなって、真っ暗になる。床とか壁とか全部塗った後、明かりを持たずに部屋に入ると、どこが床で壁で天井だか、全く分からなくなって、ただの真っ暗ななにもない空間に、人が漂っているように見えるんだ。
おもしろいよ。
まだ見たことなかったら、一度見てみたらいいと思うよ。今でも多分、スマホとかで検索したら、簡単に見られると思う。
あ、そうそう。でね。
「穴」は、それとよく似ているように、僕には見える。
その時によって違うんだけど、地面に直径15センチから30センチぐらいの大きさに、真っ黒くてまん丸い形が、その「光を反射しない黒の塗料」で描いてあるように見えるんだよ。
もちろん、地面だからでこぼこがあったり、石が転がっていたり、草が生えていたりするんだけど、「穴」の部分だけそれが一切なくなって、ぺたんとした黒いマルになる。でもって、僕が一歩前に進めばすうっと後ろをついてくるんだけど、それが通り過ぎた後の場所は、なにもなかったかのようにでこぼこや小石や草なんかが現れるんだ。
だから、最初は真っ黒な薄っぺらいシートみたいなものが、見えない紐かなんかで僕の背中にくくりつけられてて、それでずるずる後をついてきてるのかと思ったんだ。
すぐに違うって分かったけどね。
なぜかって?
見たんだよ。僕の靴のかかとに当たってはねた小石が、すうっとその黒いマルの中に吸い込まれるのを。
あれ?って思った。シートだったら、上に乗っかるはずだからね。
ひょっとすると、いろんなものがすうっと通り抜けちゃうシートなのかな、って思って、今度はわざと、アスファルトの上に黒マルがくるようにして、そこに、ちょっと大きめの石を落としてみたんだ。
どうなるかな、って思ってドキドキしながら黒マルの位置をゆっくりずらして、落としたあたりをよーく観察してみたんだけど、そこに石は落ちていなかった。
あれ、ないな、見落としたのかな、って思って、同じことを何回かくり返して、最後にはもっとよく分かるように、筆箱の中に入っていた消しゴムを落としてみたんだ。
でも、結果は全部一緒。みんな、消えてなくなっちゃう。
それで、気づいたんだ。ああ、これはシートじゃない。穴なんだって。
でも、分かったのはそれだけなんだ。
上から懐中電灯で照らしてみたこともあるんだけど、さっきも言ったとおり、「穴」の内部は全く光を反射しないから、どこまでが空間で、どこから壁なのか、どれだけ深いのか、さっぱり分からない。
なにかを投げ込んでも、穴の縁を通り過ぎた途端、見えなくなっちゃうし、どれだけ耳を澄まして聞いていても底についた音がしない。斜めに穴を通るように石を投げ込んでも、横の壁にぶつかった音はまったく聞こえない。だから、どれだけ深いのか、どれだけ内部が広がっているのか、全く分からないんだ。
あ、もちろん、壁とか底とかが柔らかいコケとかで覆われてて、それが投げ込んだものを包み込むから音がしないんじゃないか、って考えたこともあるよ。
でも、確かめられなかった。
学校の階段下に物置みたいな場所があってね、そこには、壊れてガタガタになった机や椅子とかが置いているんだけど、ある日、そこで使わなくなったモップが立てかけてあるのを見つけてね。こいつを斜めに差し込んでみたら、壁があるかどうか確かめられるんじゃないか、と思って、試してみたんだ。
掃除をするときみたいに両手でそれを持って、ゾンビの頭みたいにボロボロのカピカピになった拭くところを、そうっと穴の中に差し込んだんだけどね。そうすると、5センチほどつっこんだところで、いきなり動かなくなったんだ。あれっと思った次の瞬間、ものすごい力でモップが引っ張られて、あっという間に穴の中に引きずり込まれちゃった。
手を放すのがもう少し遅かったら、僕まで中に引きずり込まれるところだったよ。
引っ張られた勢いで、あやうく片足をつっこんじゃいそうになって、必死で、もう片方の足でジャンプして、なんとか穴の反対側に着地したんだけどね。その時、確かに聞こえたような気がするんだ。穴の中から、小さく「ちっ」って舌打ちする音がね。
僕の母さん、都心の大学で講師やってるんだけど、職場では仕事をこなしきれないのか、ダイニングテーブルでノートパソコン開いて、よくカチャカチャ書類書いたりしてるんだ。その時にタイプミスとか、なんか失敗するたび、顔をしかめて「ちっ!」「ちっ!」って舌打ちする癖があってね。僕、小さい頃からその音をずっと聞いてきたんだ。
だから、分かったんだ。
穴の中から聞こえたあの音は、間違いなく舌打ちの音だった。
それで、ちょっと怖くなったんだ。
だって、モップを引きずり込んだ後に舌打ちが聞こえたってことは、穴の中にいる誰かはそれを「失敗だ」って思ったってことでしょ?
なにを失敗したかって、それは当然、僕を穴の中に引きずり込むこと、以外に考えられないじゃない。
はっと思って、もう一度よくよく穴を見てみたら、どうも穴のヤツ、以前より僕の近くにすり寄ってきてるように見えるんだ。
以前、気づいたばかりの頃は、背中から50センチぐらい離れていたところにいたはずなのに、石を投げ込んだり、棒をつっこんだりした後で見たら、20センチぐらいしか離れてないところに、闇よりも黒い穴が口を開けているんだよ。
ますます怖くなって、僕はあわてて、穴から目をそらした。
そのまま丸1日ぐらい、なるべく穴を見ないように、穴のことは考えないようにして過ごした後、おそるおそる背後をふり返ってみると、穴は元通り――とはいかないけれど、昨日と比べてちょっと遠ざかって、足もとから35センチぐらいのところにうずくまってた。
安心したよ、ものすごく。
それ以来、また引きずり込まれそうになったら困るから、実験はしていない。
だから、穴について分かっていることは、本当にちょっとだけなんだ。
真っ平らな黒い平面で、そこに触れたものはすうっと吸い込まれるようになくなっちゃう。
僕の背後をストーカーみたいについて歩いてて、こっちが興味を示すと、だんだん近づいてくる。
そして、穴の中にいる「なにか」――ひょっとすると「穴そのもの」かもしれないけど――は、僕をその中に引きずり込もうと、ずっと付け狙っているんだ。
そんな、わけの分からないものにつきまとわれて、怖くないかって?
うーん。そりゃ、最初は気味が悪かったよ。
でもね、だんだん慣れてくると、あんまりなにも感じなくなったかな。
いくら怖がったところであるものはあるんだし、どんな風につきあったら安全なのか、まあ分かってるしね。
え?それでも、普通は怖いって感じんじゃないか?
うーん、そうなのかな。
でもさ。
例えば、僕らの国のすぐ近くに、なにかというとミサイル打ち上げる国があるよね。父さんがいってたけど、あれって「デモンストレーション」なんでしょ?いつでもお前の国にミサイル落としてやれるんだぞ、っていう。
ということはさ、逆に考えると、あの国の独裁者がその気になれば、いつ自分の頭の上にミサイルが降ってきたも、おかしくないってことだ。
だよね?
それなのに、この国の人たちはみんな、平気で生活してるじゃん。ミサイルのことなんか全く考えずにさ。
それだけじゃないよ。
今にもあの交差点から、ヤバい薬でおかしくなった誰かが運転してる車がものすごい勢いで曲がってきて、僕らを轢き殺そうとするかもしれない。
駅で電車が来た瞬間、誰かに背中を押されて、線路に落とされるかもしれない。
誰かの飼っているでかい犬が逃げ出して、襲いかかってくるかもしれない。
でも、皆そんなことなんか絶対起こらないと思って、普通に暮らしてる。
そういうのと同じだと思うんだ。
危険はいろんなところに隠れてるけど、それはよほど運が悪かったり、無茶をしたりしなければ、普通は襲いかかってくることはない。
「穴」だって一緒だよ。気をつけて扱えば包丁で指を切ったりしないのと同じように、ちょっとだけ気をつけていれば、別に危険なことはない。それどころか、普段はそれがあることも忘れて生活できる。
「慣れ」って、そういうものだと思うんだけど、違うのかな?
え?「君、本当に小学生なの?」
ああ、それ、よく言われるんだ。
本当だよ。正真正銘、小学校5年生。なにか証明するものがあればいいんだけど、身分証明書っぽいもの、なにも持ってないんだよね。なんなら、僕の小学校へ行く?そしたらきっと、「確かに塁君は小学校5年生です」って、先生が保証してくれると思う。ここからそんなに遠くないし、もしよかったら……。
え?そんな必要はない?ただ、君のそういうきちんとしたところが、小学生とは思えないから、つい言ってしまっただけ?
そうなんだ。
って、そうだよね。言われてみれば確かに、普通の小学生は、小学生かどうか聞かれたとき、自分が小学生だって証明する方法なんか考えないかも。
でも、しょうがないんだ。癖なんだよ、こういう風に考えちゃうのって。
悪いのは、母さんなんだ。
母さん、さっきも言ったけど、大学の講師でね。それも、ナントカ物理学とかいう、理系の研究してるんだ。
そのせいなのか、やたらと理屈にうるさくてさ。小さい頃「お菓子がほしい」ってねだっても、だだこねても、絶対買ってくれなくて。
「私はきちんとした理由を話そうともせず、大声を出して自分の欲求を通そうとするような、非論理的な態度は大嫌いです。なぜそのお菓子がほしいのか、もっときちんと筋道立てて説明しなさい」
なんて言うんだよ、保育園に通い始めたばかりの子どもに向かってさ。
説明しない限り絶対買ってもらえなかったし、下手な説明をすると、
「今の説明は論理的ではありません。もっとよく考えなさい」
とか言われて、やっぱり買ってもらえない。
だから、一生懸命考えるようになったし、この説明でいいかどうか。何回も考え直すようにもなった。
その癖が身についちゃってるから、どうしても、なにかを説明するときにはきちんと相手に理解してもらえるようにって考えるし、できれば証拠なんかも出さないとって思っちゃうんだよ。
そうなんだ。全ては、子どもの頃から僕に無理矢理物事を考えさせてきた、母さんのせいなんだよ。
そのくせ、仕事中、たびたびやってる舌打ちに「ねえ、その舌打ち止めらんないの?まわりの人にまで自分の不機嫌さをアピールするのって、すごく子どもっぽいと思うよ」って言ってやったら、たちまち怒りだして。
「あんたって子は、本当に子どもらしくない!大人のやることにいちいち口を出すんじゃない!」なんて、この上なく非論理的に怒鳴りつけるんだ。
大人って、本当に身勝手だよね。って、これはうちの父さん母さんだけかもしれないけど。
とにかく、こんな風に小さい頃から育てられてきたから、気がついたら、なにかというといろんなことを考えちゃうようになってたんだ。
それで、うちは共働きで、父さんも母さんも忙しかったし、子どもは僕一人だけだったから、自然と一人で過ごす時間が多くてさ。
あ、もちろん小さい頃は保育園で、小学校に上がってからは学童にも入ってたよ。でも、両親のどちらも教育関係で、夜遅くまで仕事だから、それだけだと時間が足りないんだよ。 それで、保育園とか学童が終わって、普通のおうちならそろそろ夕ご飯、って時間からは、一人で過ごしてたんだ。
あ、一人って言っても、家に一人きりで放っておかれたりじゃないよ。それはほら、「ネグレクトだ」とか言われるのがいやだったんだと思う。うちの両親、特に父さんの方は、ものすごく外面を気にするしね。
だから、父さんの仕事場につれてかれて、そこで放っておかれた。まさか教室につれて入るわけにはいかないから、狭い事務室の椅子に座らされてね。
退屈だったよ。
遊ぶものはなにもないし、それに学習塾だからね。ゲームとかで遊ぶ音が外に漏れたりしたら、やっぱりまずいし。
だからね、本を読んでたんだ、ずっと。
さっきも言ったけど、父さんの職場は学習塾だ。そこの事務室にある本ていえば、なんだか分かるよね。
うん、そう。教科書とかテキストとか、参考書とか。
国語算数理科社会、それに英語。
小さい頃からずっと、僕は1日に数時間はそういうものを読んで過ごしてたんだ。
そりゃあ、勉強ができるようになって、当たり前だよね。
小学校に上がる頃までに小学校三年生ぐらいまでの勉強は全部できたし、小学校3年生になる頃には、小学校の勉強は全部終わって、中学校の勉強を始めてた。
で、4年生になって、それじゃあそろそろこの子も教室で、他の子と一緒に勉強させようか、ってなってね。どんな問題でもすいすい解いちゃうんだから、そりゃあ父さんは喜んだよ。さすがは僕の子だ、将来有望だ、これだけの学力があれば難関国立だって絶対合格間違いなしだ、ってね。
そりゃ確かに「父さんの子だから」勉強ができるようになったんだけどさ。でも、その本当の理由が素質とか才能とか遺伝とかのせいじゃなくて、単に貧乏で延長保育料をケチった結果だよ、って教えてあげたらどんな顔したんだろうね。
ま、さすがにそれはいえなかったけど。父さん、本当にうれしそうにはしゃいてたし。
ということで、僕は特進クラスっていうのに入って、国立中学校合格を目指し、毎日勉強することになったんだ。
でも、これが本当に退屈で退屈でさ。
だって、2年生の時点で小学校の勉強は全部終わってるんだよ?それも、塾に置いてある、受験用の参考書やテキストで。
授業は、それをもう一度くり返してやるだけ。おもしろいはずないよね。
そんなことやるくらいなら、事務室で本を読んでいたいって言ったんだけど、許してもらえなくて。それで、仕方ないから教室では一番後ろの席に座って、出された問題をさっさと解き終わった後は、ぼんやりと絵を描いていたり、うつらうつらしてたりしたんだ。 そんなことしてたら、まあ目立つよね。
なんだあいつ、先生の子どもだからって、特別扱いかよ、いい気になりやがって、なんて思われちゃって。
特進クラスにいる子って、それまでずっと勉強ができて、家でも学校でもちやほやされてた子が多いんだ。元気で、活発で、頑張り屋で、先生から信頼されてて、学級委員なんかやってて、スポーツだって得意だけど、その分えらそうで意地悪で性格が悪いような子。
そんな子ばかりが揃ってるなか、授業中いつもぼんやりしてて、学校でも目立たない、本ばかり読んでいるような僕がいきなり成績トップになったんだから、そりゃあムカつくよね。
あんな奴に負けるもんかって、皆必死で勉強してたみたいだけど、なにしろ僕はみんなよりも三年分は勉強進んでたからね。悪いけど、勝負にならないんだ。いつだって、全教科満点で僕がトップだった。
で……おもしろいよね。ああいう子って、自分の負けを、絶対素直に認めようとしないんだ。
勉強じゃ勝てないけど、他のことじゃ自分の方が上だ、とかいってみたり、勉強しかできないヤツって気持ち悪いよな、とかあおってきたり。何かで読んだ、どうでもいいような知識を知ってることをひけらかしてみたり、体育の授業で、わざと僕をドッジボールのターゲットにしたり。いろんな方法を編み出しては、自分の方が「上」なんだって示そうとするんだ。
でも、残念ながら、どれもこれも、その場限りではいい気分になれるかもだけど、決してそれ以上にはならない。だって、勉強の成績より重要なランキングなんて、子ども――特に中学受験なんか考えてる子どもに、ありはしないんだから。
どんだけがんばっても、夜眠る時間さえ削って勉強しても、いつもぼんやりしてるアイツに勝てない。ものすごく集中して授業を聞き、家では何回も復習してテストに臨んでいるのに、授業中居眠りばかりしてるアイツに、どうしても点数が届かない。期待をかけて、お金をかけて、必死で後押ししてくれてる両親は――特に母親は――がっかりするし、自分のプライドは粉々になるし、つらくてつらくて仕方がない、っていうのは、よく分かるよ。
でも、だからって汚い手を使ってまで僕の成績を落とそうとするのって、違くないかって思うんだよね。
え?うん、そう。
そういうことをやったんだよ。塾の中で一番僕を敵視していた子――小林遙君はね。
もうすぐ、四年生も終わり、5年生に進級するって頃だったかな。
いつものように塾の事務室で参考書を読んで時間をつぶしていると、いきなり小林君の両親が訪ねてきたんだ。
これってね、結構珍しいんだよ。
普通、塾にやってくるのはお父さんかお母さんのどちらかで、両方揃ってやってくるって、まずないんだ。
逆に言うと、そうやって揃ってやってくる時っていうのは、たいがい深刻な相談とか、厄介な頼みごととかがある時でさ。
この時は、「厄介な頼みごと」の方だった。
小林君の両親を教室の方に案内すると、父さんは僕に「いいか、おとなしくしてろよ」って言い置いて――そんなこと言わなくたって、いつもおとなしくしてるんだけどね――教室の中へ入っていってね。
そのまま、20分ぐらい話し込んでいた。
結構時間かかってるな、込みあった話なのかななんて、のんきに思いながらパラパラ本のページをめくってたら、ようやく扉が開いてね。
「本日はどうもお忙しいところをお時間割いていただいて」とか、「まことにずうずうしいお願いなのですが、どうか前向きにご検討いただければと」とか、いつもはえらそうで高飛車な態度ばっかりの小林君のご両親が、やけに丁寧に、へりくだった態度で、父さんに頭を下げているんだ。
父さんは困ったように「いえいえ」「あの、まあ、はい、検討してみますんで」みたいな、なんだかはっきりしない返事をしながら、愛想笑いを浮かべてぺこぺこするばかり。
やがて、二人が急な階段を下って立ち去ったのを見届けた後で、父さん、深々とため息をついたんだ。
「なあ塁。その……特進クラスから進学クラスに移ってくれないか?」
その言葉を聞いたとき、僕は耳を疑った。
何度も言うけど、僕は塾の特進クラスでも、ぶっちぎりのトップだったんだ。しかも、普段の態度も悪くない。そりゃあ、時々は居眠りしたり、本を読んでたりしたけれど、何かというと大騒ぎして授業の進行を止める小林君なんかと比べたら、ずっとおとなしく、扱いやすい生徒だったはずなんだ。
その僕が、どうして特進クラスから進学クラスに落とされなきゃいけないのか?
そう問いただすと、父さん、ぐったりと座り込んでね。小林君が、アイツと一緒のクラスだと落ち着いて勉強に集中できない、このままじゃ成績が落ちるばかりだから、違う塾に移らせてほしいって、そういったと言うんだ。
もうね、あきれちゃったよ。
でも、あきれたままじゃ納得できないから、ため息をつきながら、父さんにいろいろ尋ねたんだ。
「父さん。僕と小林君たちとで、どっちが授業態度悪いと思う?」
「そりゃあ、小林君たちだ」
「なら、小林君たちを下のクラスに落とすべきじゃないの?」
「それは、できないっていうんだ。その、ウチの子は最難関中学を目指しているんだから、特進クラス以外は認められないって。下のクラスに行くぐらいなら転塾するっていうんだよ」
「じゃあ、いっそ転塾してもらったら?」
「そんなことできないよ!小林さんのうちはお医者で、お母さんはPTA活動にも熱心な方だ。そんな方に転塾されたら、うちの塾の評判はがた落ちじゃないか」
いかにも困り果てた、という感じで情けない声を出し、すがるような目で、父さんはじっと僕を見つめる。
他人の勝手な意見を受け入れ、自分が正しいことを平気で曲げて、その曲がった結果を息子の僕にまで押しつける。なんだか憐れで情けなくて、僕ははっきり思った。こんな大人には、絶対なりたくないって。
でも、ここまで言われたら、仕方ないよね。
僕は、さっきの父さんと負けず劣らずの大きなため息をついて、言った。
「分かったよ。じゃあ、特進クラスはやめる。その代わり、進学クラスにも行かない。あんな、学校の勉強と同じことしかしないクラスにいたら、退屈で死んじゃうよ」
「じゃあ、どうするんだ」
「事務室で一人で勉強してるよ。それでいいでしょ」
放り出すようにそう言うと、父さんはますます困り果てた顔になった。
「いやあ……それも困るんだよ。お前、事務室で一人で勉強してても、きっと国立附属、受かっちゃうだろ?そんなことされたら、僕の立場はどうなる?塾の授業受けなくなって勉強はできるようになるんだって思われたら、生徒が減っちゃうかもしれないじゃないか」「え?……でも、進学クラスに入ったって、そこから国立附属に入学したら……」
「ああ、うん。特進クラスじゃないとは入れない難関校に進学クラスから入られたんじゃ、やっぱり講師の僕の面目は丸つぶれだ」
「じゃあ……ひょっとして父さん……僕に……」
「うん……言いにくいんだが、塁。お前、中学受験は諦めてくれないか?父さんを助けると思って。この通りだ!」
そう言うと、父さんいきなり跪いて初詣の時みたいに両手を合わせ、顔をくしゃくしゃにして、僕を拝み始めたんだ。
でもね。そんな態度を見せられたところで、僕の気持ちはちっとも動かなかった。それどころか、だんだん、ふつふつと怒りが湧いてきたんだ。
「ねえ、父さん。塾の先生って仕事は、息子の僕に、中学受験を諦めさせてまで、生徒と親の機嫌取らなくちゃいけないものなの?」
荒れる内心とは裏腹に、この上なく静かな声でそう尋ねると、父さんは、びくって一度身を縮こまらせた後、ゆっくりと顔を上げた。
驚いたことに、その顔には、彫刻刀で彫りつけたみたいにくっきりと、怒りの表情が浮かび上がっていた。
「この塾は、俺の全てだ!ここで子どもに勉強を教えることが俺の生きがいなんだ!邪魔するヤツは、たとえ我が子でも許さん!」
ところどころ裏返る声でそう怒鳴ると、そのままくるりと後ろを向いて、ほこりをけたてながら、事務室に消えてしまったんだ。
逆ギレだよね。
自分の都合で、頼んでもいないのに僕を特進クラスに入れて、塾の看板代わりにしてたくせに、都合が悪くなると追い出して、しかも受験すら許さないとか言い出す。
いや、僕だって、別に心の底から「受験したい」なんてことは思ってなかった。むしろ、「受験、面倒だなあ」とか思ってた。だから、受験なんか、やめたってよかったんだ。でもね、親のつまらない都合とか立場とかを守りたいってだけで、一方的に受験をやめさせられるっていうのは、納得できなかった。それにもちろん、「客」だからってムチャクチャな要望を出して、そこまでして僕をトップから引きずり下ろさないと気が済まない、そんな小林君にも、その両親にも、全然納得できなかった。
だからね。仕返しすることにしたんだ。
いくら僕が子どもだからって、弱い立場だからって、好き勝手にできると思っているなら、大きな間違いだ。それを、思い知らせてやる……そう思ったんだ。
そのために、まずはしおらしい顔を作って、おそるおそる事務室の扉を開けてね。机の上のパソコン画面に集中してる振りをしながら背中を向けている父さんに、しょんぼりした声でこう言ったんだ。
「ごめんよ、父さん。わがままばかり言って。分かったよ、五年生になったら、特進クラスから進学クラスに移る。ただ、その前に、学年最後のテストだけ、特進クラス用のを受けていいかな?最後の思い出にしたいんだ……」
学年末のテストにはね、特別な意味があるんだ。
総まとめ的な問題が多く出題されるこのテストは、生徒の学力が最もよく現れるから、っていうんで、次の学年のクラス分けに、大きく影響するんだよ。
もちろん、毎月行われるテストも参考にされるんだけど、学年末のテストは、1回でその毎月のテストの半年分に匹敵するぐらい、重要視されてる。だから、生徒は皆、このテストでいい点取ろうと、必死になって勉強するんだ。
そんな中、小林君は本当にあからさまだった。
「来年度、このクラスから落ちて、なんと進学クラスまで下がるヤツがいるらしいぜ。一体どんな情けない点数取ったんだろうな。ははははは……」
自分の両親を操り、ものすごく卑劣な手で陥れたくせに、こんなこと言って、僕をクラスの笑いものにしたんだよ。
といっても、僕は動じなかったけど。
なんたって、近いうち――間近に迫った学年末テストで、彼が地獄を見るのは分かっていたんだから。
そして、いよいよやってきたテスト当日だよ。
いつものように僕は教室の一番前の右端、成績トップの者が座る席に着いた。
僕のすぐ後ろは、万年2位の小林君だ。
普段ならものすごく憎らしげな顔で僕をにらみつけて、テスト用紙だってひったくるようにして取っていくんだけど、その日は、勝利を確信していたんだろうね、ニヤニヤと気持ち悪い笑い顔をずっと浮かべてた。
「始め」の合図がかかると同時に、僕はいつもどおり、ものすごい速度で問題を全て解くと、机に突っ伏して居眠りを始めた――というか、居眠りする振りをし始めた。
すると、思ったとおり、後ろの小林君の尻が浮く気配が伝わってくる。
いつもそうだったんだ。
自分の書いた答えに自信がないのか、問題を解き終わると小林君、僕の答案を盗み見て、合っているかどうか確かめて……違ってたら書き直してたんだ。
いわゆる「カンニング」ってやつさ。
彼がそれをしてるのは分かってたけど、いつも僕は放っておいた。そんなつまらないこと言いつけたところで、父さんがまともに説教できるとは思えなかったし、肝心の、一番難しい問題の答えだけは、体でカバーして、見えないようにしてたしね。
けれど、その日は違った。
いつもより深く眠り込んでいるふりをして、答案全てが彼に見えるようにしてやったんだ。
その時のテスト問題ときたら、さすが学年末だけあって難問揃いだったし、きっと「渡りに舟」なんて思ったんだろうね。小林君、そりゃもううれしそうに、僕の答案を写してたよ。全て間違った答えが書いてあるとも知らずにね。
そして僕は、終了30秒前にむくりと起き上がって、答案を見直すふりをしながら間違った答えを全て消し、最後に出題された一番の難問にだけ正解に書き直して提出したんだ。
四教科全てで同じことをし、クラスの皆があの問題がどうとか、この問題の答えはこうなったとか、大声で騒いでいる中、僕はそそくさとクラスを後にしたんだ。
その後、どうなったか分かるよね。
学年末のテストでオール0点をたたき出した小林君は、当然両親呼び出し。
遙君、泣きはらした目で父親と母親に挟まれ、うちの父さんから散々注意をされた上、お情けで特進クラスに残してもらったのだけれど、当然席次は一番下。悔し涙をながしながら遙君をにらみつけていたお母さんと、ものすごく渋い顔で腕組みしてたお父さん、そして、ただただおろおろと泣きじゃくっていた遙君がものすごく印象的で……正直、すうっとしたよ。
父さんは、当然僕が何かしたんじゃないかって疑ったみたいだ。けど、答案の答えは全然違っているし、言われたとおり進学クラス行きの得点だったし、一番難しい問題だけ正解してるっていう、世にも珍しい点の取り方だったしで、これは下手に僕を責めると、多分余計なことを皆にいいかねないと悟ったらしい。苦虫をかみつぶして、その上ものすごく胸がむかついているっていう感じの表情で僕をみるだけで、なにも言ってこなかった。
つまり、僕の仕返しは、ものの見事に成功したってわけ。
正直いって、生まれてから今まで、あんなに気持ちいいことはなかったよ。
自分のことしか考えず、平気で人の気持ちを踏みにじると、どんなしっぺ返しを喰らうか、これで分かったろ、ざまあみろ、って思った。
でもね、同時に、これでもうすっきりしたから、後はおとなしくしてようとも思ったんだよ。
これ以上はきっとやり過ぎになるし、もともとそんなに受験に乗り気じゃなかったし、国立附属は高校受験で入ればいいやって、そう思っていたんだ。
けどね。
ひどい目にあわせた奴らの中に、たった一人、いたんだよ。
せっかく僕が身を引いてやったのに、その幸運を理解せず、逆恨みしてさらに仕返ししようなんて考える、甘やかされたバカがね。
新学期始まってすぐの、水曜日だったかな。
退屈で退屈で死んでしまいそうな進学クラスの授業がようやく終わり、大あくびしながら最後に教室を出たところで、小林君に捕まったんだ。
「おい、ちょっと付き合えよ」
怒りに燃える目でそう言うと、先に立ってずんずん歩き出す。
塾から出てちょっと行ったところに、神社があってね。昼間は子どもが遊んでたり、参拝の人がちらほらいたりするんだけど、夜になると、誰もいなくなる。遙君、その神社の鳥居をくぐって、建物の裏手、本当に誰もいないところへ歩いて行って……そこでふり返ったんだ。
「おい、あれはいったい、どういうことだよ!」
精一杯声を低くした、ささやき声だった。なんだかそれが妙に芝居じみてて、思わず僕は笑っちゃってね。
「あれって、なんのことだい?」
ととぼけながら、ずっとニヤニヤしてたんだ。
それが彼の怒りにますます油を注いだんだろうね。
「とぼけんじゃねえよ!学年末テストだよ!」
顔を真っ赤にしながら、馬鹿でかい声で怒鳴りつける。
「ああ、学年末か。難しかったよね。僕、大失敗しちゃって」
しょんぼりした声を出そう出そうとするんだけど、どうしたわけか、楽しいそうな声しか出てこないんだ。
それでとうとう、遙君、切れちゃって。
「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」
そう言って、殴りかかってきたんだけど……普通なら、まっすぐ僕に向かって進んでくるところを、右足を一歩横に踏み出して、それから左足を斜め前に踏み出して、僕の正面までやってきたんだ。
まるで、なにかを避けるみたいにね。
それで、僕も気がついた。
「小林君。ひょっとして、見えているのかい、穴が?」
そう言うと、小林君、ビクッとした表情になった。それから、
「あ、穴?そりゃ、なんのことだよ?そんなもの、お、俺は別に……」
なんて、実にわかりやすく、見えていることを教えてくれてね。
それもまた、なんだかおもしろくて、すっかり上機嫌になった僕は、つい、言ってしまったんだ。
「見えているんなら、気をつけてね。その穴、結構危ないよ」
陥れられた屈辱を晴らしてやろうと呼び出したのに、ニヤニヤ笑いとからかうような口調で、小林君、すっかり逆上しちゃったんだと思う。
「危険だと!ふざけんな、こんな穴ぼこなんか全然怖くねえよ!」
言うが早いか、穴の縁にしゃがみ込み、ズボッと音がしそうなほどの勢いで片手をつっこんでね。
そのまま、消えちゃったんだよ。
「あっ」って、息を呑むひまもなかった。
僕、しばらく呆然として穴を見つめてたんだけど……そこで不意に「げふっ」って、いかにも満足そうなゲップの音が聞こえたような気がしてね。急に怖くなって、あわててその場所から離れて……家に帰ったんだ。
え?
どうしてその時、誰か大人に言わなかったのかって?
ばかだな、おじさん。
一体大人に、なにを言えばいいのさ?
僕の後ろにずっと「穴」がつきまとっています、小林君はその「穴」に手を突っ込んで消えちゃったんです、「穴」がなんなのか僕は知りません、ほんとなんです、信じてくださいって、そう言ったとして、一体誰が信じてくれる?
こうやって、一からゆっくり丁寧に話してるのに、おじさんだってまだ半信半疑どころか、八割ぐらいは作り話だって思ってるでしょ。
誰に話したって信じてもらえないんだから、話すだけ無駄。そう思った……というか、そうなるのがわかりきってたから、誰かに話そうって気さえ起こらなかったかな。
他のことで、心がいっぱいになってたしね。
え?なにって……もちろん「安心」だよ。
ああ、もうこれで、小林君からつまらないことで嫌がらせされることもないし、イヤミを言われることもない。足も引っ張られないんだって思って、本当に、心の底から、すごくすごく安心してたんだ。
なにを驚いた顔してるの?
悪いと思わなかったのかって?
小林君が「穴」に落ちたこと?
やだな、おじさん。よく考えてよ。僕、なにもしてないんだよ。
僕はただ、「穴」が見えるのかい?って聞いただけ。
それに、その「穴」危ないよって、わざわざ注意までしてあげたんだよ?
なのに、小林君、一人で勝手に逆上して、自分から手を突っ込んだんだ。
なんで僕が罪悪感を感じなくちゃいけないの?
バカな運転手が「危険」て書いてある標識を無視してスピード出しすぎて、崖から落ちて死んだ、っていうのと同じでしょ?
違う?
ああ、うん。分かってくれた?
それならよかった。
それから?
ああ、小林君が「穴」に落ちた後、どうしたかってこと?
えっと、どうだったかな……。
そのまままっすぐ家に帰って、コンビニで買ったご飯を食べて。
見たいテレビもなかったから、そのまますぐ、寝たと思うよ。
うん、そう。夢も見ずにね。
前半部分投稿。後半部分は来週月曜日投稿予定。




