第一話 トホホ、グルリンと出会う
「うわっ…!?」
気が付くと、男は見慣れない場所に立っていた。
アスファルトの感触はなく、足元にはふかふかの草が生えている。
見上げればどこまでも広がる青い空。
そして周囲には、聞いたこともないような鳥の鳴き声が響いていた。
「え…?ここは…どこだ?」
虚な瞳で男はぼんやりと呟いた。
ここ数日は仕事に行くことも無く、誰もいない静かな家で一人思い出を振り返っていた。
幸せな時間を共に過ごしていた妻と娘を一瞬で失った交通事故から、まるで時間が止まってしまったかのようにただただ悲しみに暮れていた。
生きている心地なんて、まるでしなかった。
「夢、か…?」
頬をつねってみる。
痛い。
どうやら現実らしい。
しかしこんな現実、受け止められるわけがない。
「また…一人ぼっち、か…」
膝から崩れ落ちそうになったその時だった。
「やっほー!新入りさん、いらっしゃ~い!」
けたたましい声が、頭の中に直接響いてきた。
驚いて顔を上げると、目の前にビー玉のようなつやつやと光る球体が浮いている。
それがまるで生き物のように、短い手足をちょこちょこと動かしているのだ。
「な、なんだ、お前は…!?」
驚いた男は、生まれて初めて見る奇妙な存在に思わず後ずさった。
「オレ?オレはね、『ウザ可愛いビー玉グルメ精霊』!略してグルリン様だよ!」
ビー玉…もといグルリンは、胸を張って(ように見える)得意げに言った。
「ウザ可愛い…?グルメ精霊…?」
男はあまりの突飛な自己紹介に、思考が完全に停止した。
交通事故に遭い見知らぬ異世界に飛ばされ、挙句の果てに自称・ウザ可愛いビー玉グルメ精霊なる謎の生物に話しかけられる。
情報過多にも程がある。
「そうそう!でさ、えっと…キミの名前は?」
グルリンはくるくると宙を舞いながら、怪訝そうに眺めてくる男に問いかけた。
「さとう、はじめ…」
「ふむふむ、サトウハジメね!ちょっと長いなぁ…うーん…」
グルリンは顎に手を当てて、しばらく考え込んだ。
男はこの奇妙な精霊が何を悩んでいるなのか、全く想像がつかなかった。
「よし!決めた!キミのことは今日から『トホホ』って呼ぶことにする!」
グルリンは突然そう言い放った。
「トホホ…?」
はじめは自分の新しい呼び名に、間抜けな声を上げた。
なぜトホホなのか全く理解できない。
「うん!だってほら、なんかこう…しょんぼりしてて、ため息ばっかりついてそうでしょ?トホホ~って感じ!」
グルリンは短い手足をヒラヒラさせながら、楽しそうに言った。
「しょんぼり…ため息…まあ、そうかもしれませんが…」
妻と娘を失ったばかりなのだから当然しょんぼりもするし、ため息もつく。
しかし、それをそのまま通称にされるとは予想外だった。
全くデリカシーのかけらもない生き物だ。
「いいじゃん、トホホ!語呂も可愛いし!さあ、トホホ!何か美味しい思い出、持ってない?」
グルリンは、キラキラとした大きな瞳をトホホに向け、ヨダレ(のようなもの)を垂らしながら言った。
「美味しい…思い出…?」
トホホ…いや、はじめは、グルリンの唐突な質問に、ますます混乱した。
美味しい思い出なんて、今の彼には一つもない。
妻と娘の笑顔は鮮明に覚えているけれど、それは甘美な「美味しい」という感情とは違う気がする。
「ほらほら!楽しかったこととか、嬉しかったこととか!そういう思い出って、サイコーに味が濃くて美味しいんだよね~!」
グルリンは待ちきれないといった様子で、はじめの周りをくるくると飛び回る。
「楽しいこと…嬉しかったこと…」
はじめの脳裏には、妻と娘との何気ない日常が浮かんでは消える。
遊園地で娘がはしゃいでいた姿。
妻が作ってくれた少し焦げ付いた卵焼き。
どれも大切な思い出だけど、今の彼にとっては、触れると心が締め付けられるような痛みを伴う記憶ばかりだった。
「うーん…やっぱり、しょっぱい顔してるねぇトホホ。もしかして苦い思い出ばっかり?」
グルリンは、はじめの表情をじっと見つめ首をかしげた。
「苦い…?」
妻と娘を失った悲しみ、自分を責める後悔。
それらは確かに、苦くて、重くて、喉に詰まるような感情だった。
「まあ苦いのも嫌いじゃないけどさ。特に後味がスッキリするような苦さだと、最高なんだよね!」
グルリンはなぜか楽しそうに短い手を擦り合わせた。
「お前…一体、何なんだ…?」
はじめは目の前の奇妙な精霊に対する不信感を募らせた。
こいつは人の悲しみを何だと思っているんだ?
「オレは、思い出を食べる精霊!キミの思い出と引き換えに、とんでもない力を貸してあげるんだよ、トホホ!」
グルリンは得意げに胸を張った(ように見える)。
「力…?」
今のはじめに力なんて必要ない。
ただ、あの日に戻りたい。
もう一度、妻と娘の笑顔が見たい。
「そう!魔法力とか、そういうやつ!この世界では、結構役に立つんだぜ?トホホ!」
グルリンは、はじめの肩(らしき場所)に、ちょこんと手を置いた。
「別に…そんなものいらない…」
はじめは力なく首を横に振った。
「え~、もったいない!せっかく異世界に来たんだから、エンジョイしなきゃ損だよ!ね?トホホ!何か一つでいいからさ、思い出ちょうだいよ~!」
グルリンは両手を合わせて、上目遣いではじめを見つめてきた。
その必死な様子に、はじめはなんだか拍子抜けしてしまった。
「思い出を…食べると、どうなるんだ?」
興味本位で、そう問いかけてみた。
「ん?食べるとね、こんなビー玉が出てくるんだ!」
グルリンはそう言うと、はじめの頭の上を指差した。
そこには半透明で、淡い光を放つビー玉のようなものが浮かんでいた。
「これが…記憶の足跡…?」
それは、どこか懐かしい光を帯びていた。
「そう!で、オレがそれを食べると、キミにエネルギーが戻ってくるんだ!おまけに、食べたビー玉によっては、その時の感情とか能力が、ちょこっとだけ戻ってくることもあるんだぜ!トホホ!」
グルリンは目を輝かせながら説明した。
「感情…や、能力…?」
はじめは自分の頭の上に浮かぶビー玉を、ぼんやりと見つめた。
それは一体どんな思い出の欠片なのだろうか。
「さあさあ!遠慮しないで!ほら、なんか思い出してごらんよ、トホホ!昔、友達とバカやって笑ったこととかさ!」
グルリンはせかすようにはじめの背中を押し(ようとしたが、小さすぎて届いていない)、ブンブンと飛び回る。
はじめはグルリンのあまりの楽天ぶりに、張りつめていた気持ちがほんの少しだけ緩んだ気がした。
妻と娘を失った悲しみは消えないけれど、この奇妙な精霊との出会いが、彼の止まっていた時間を再び動かし始めるのかもしれない。
そしてなぜか気に入ってしまった「トホホ」という響きが、今の自分の情けない状況に妙に合っているような気もした。
「…そう、だな…」
はじめは小さく呟いた。
目の前のウザ…
いや、グルリンとやらが一体何者なのか、この世界がどうなっているのか全く分からない。
それでもこの奇妙な出会いが、彼の退屈だった日々にささやかな騒動をもたらす予感がした。
そして今日から自分の通称が「トホホ」になったという、どうでもいいような、でも少し面白い事実を彼は心の中でそっと受け入れたのだった。
「なあ、トホホ」
グルリンはくるくると宙を舞いながら、改まった声で言った。
さっきまでのハイテンションはどこへやら、そのビー玉のような瞳がほんの少しだけ真剣な色を帯びているように見えた。
「オレと契約しないか?」
「契約…?」
はじめは、怪訝な顔でグルリンを見返した。
一体、この奇妙な精霊と何を契約するというのだろうか。
「ああ。キミの思い出と引き換えに、オレがキミに力を貸してあげる契約さ」
グルリンは至極真面目な顔で言った。
その言葉にはじめは息を呑んだ。
「思い出と引き換えに…力…?」
グルリンは、こくりと頷いた。
「そう。キミが大切な思い出を一つくれるたびに、オレはその思い出を食べる。するとキミは常人以上の魔力を使えるようになるんだ」
「魔力…」
異世界に来て、いきなり魔法力とは、まるで現実味がない。
しかし目の前で光り輝くグルリンの存在が、それが単なる夢物語ではないことを表していた。
「でも…思い出と引き換えって…」
はじめは言葉を詰まらせた。
失うものがあまりにも大きすぎる気がした。
特に記憶は決して手放したくないものであり、中でも妻子との記憶は何よりも大切なものだった。
グルリンは、はじめの葛藤を察したように少しだけ声を落とした。
「もちろん無理強いはしないよ。でも、この世界で生きていくには力があった方がいいと思うぜ?特にトホホみたいに、なんだか弱っちそうな人はさ」
最後の言葉は余計だったが、グルリンの言っていることはもっともだった。
見知らぬ異世界で何の力も持たない自分がどうなってしまうのか、想像もつかなかった。
「それにさ、思い出はなくなってもキミが生きていれば、また新しい思い出を作れるかもしれないだろ?」
グルリンの言葉はどこまでも楽天的に響いた。
失ったものの大きさを思えば、簡単に割り切れるものではない。
それでもその能天気な言葉は、はじめの重く沈んだ心にかすかな光を灯したような気がした。
「…もし契約したら…どうなるんだ?」
はじめは震える声で問いかけた。
「簡単さ!キミが『グルリン、力を貸して!』って念じるだけで、オレが食べた思い出のエネルギーが、キミの体の中に流れ込んでくる。最初は少し戸惑うかもしれないけど、すぐに慣れるよ!」
グルリンは再びいつもの調子を取り戻し胸を張った(ように見える)。
「でも…本当に思い出がなくなってしまうのか…?妻や娘のことも…忘れてしまうのか…?」
その言葉を発した瞬間、はじめの胸には耐え難い痛みが走った。
想像するだけで心が引き裂かれるようだった。
グルリンは少しだけ沈黙した後、静かに言った。
「ああ、残念ながらね。オレが食べるのは、キミの精神そのものから生まれたエネルギーだから。そのエネルギーの元になった記憶は、薄れていってしまうだろうね」
その言葉は、はじめの心に重くのしかかった。
妻子の記憶は彼が生きてきた証であり、決して失ってはならないものだった。
しかし、このまま無力な自分がこの異世界で生き残っていけるのだろうかという不安も、同時に押し寄せてきていた。
「…他に、生きる方法はないのか…?」
はじめは藁にもすがる思いでグルリンに問いかけた。
「さあねぇ…。この世界は広いから、他にも色々な生き方があるかもしれないけど…少なくともオレと契約すれば、すぐにでも力を得られる。危険な目に遭う確率も、ぐっと減ると思うぜ?」
グルリンの言葉は現実的だった。
今の自分には何の頼るものもない。
このままでは本当に抜け殻のように、ただ生きているだけになってしまうかもしれない。
長い沈黙が流れた。
はじめは頭の中で激しい葛藤を繰り広げていた。
大切な記憶と生きるための力。
どちらを選ぶべきなのか、答えは簡単に出なかった。
しかしふと、娘の小さな笑顔が脳裏に浮かんだ。
もし自分がここで倒れてしまったら、妻子との思い出も本当にただの幻になってしまう。
生き延びて、いつか二人の墓前で語れるような、新しい何かを見つけなければならないのではないか。
そしてかつて見た、妻の優しい眼差しも蘇った。
「あなたは、生きて」と、あの時、彼女はそう言った気がした。
「…分かった…」
はじめは絞り出すような声で言った。
「オレは…お前と契約する…」
グルリンはその言葉を聞くと、パッと明るい光を放った。
「マジで!?やったー!トホホ、話が分かるじゃないか!」
さっきまでの真剣な表情はどこへやら、グルリンは再びハイテンションになった。
「じゃあ早速最初の思い出をちょうだい!どんなのがいいかな~?やっぱり、甘くて幸せなやつがいいなぁ!」
グルリンは待ちきれないといった様子で、短い手を擦り合わせた。
はじめはグルリンの能天気さに、内心で苦笑いを浮かべた。
この精霊は、本当に人の気持ちを理解しているのだろうか。
それでも覚悟を決めたはじめは、ゆっくりと口を開いた。
「…初めて…妻と出会った時のことを…」
それは彼にとって、かけがえのない大切な思い出だった。
その思い出を手放すことは、胸が張り裂けるほど辛かった。
しかし生きるために、彼はその痛みを押し殺した。
彼の言葉が終わると同時に頭の中に、淡い光を放つビー玉のようなものが現れた。
それは他のビー玉よりも少し大きく、優しい虹色に輝いていた。
「おっ!これはこれは!見るからに美味しそうなビー玉だ!」
グルリンは目を輝かせ、そのビー玉に飛びついた。
小さな口でパクッとそれを食べる。
「ん~!これは大当たり!甘酸っぱくて、初恋の味がする!」
と、なんとも大げさな擬音を発した。
グルリンがビー玉を食べ終えると同時に、はじめの体の中にじんわりとした温かいエネルギーが流れ込んでくるのを感じた。
それは、今まで感じたことのない不思議な感覚だった。
しかしそれと同時に、妻と初めて出会った日の記憶が、ほんの少しだけぼやけていくような気がした。
あの時、彼女が着ていた服の色、交わした言葉の細部…
まるで大切な絵画の一部分が薄いベールで覆われたように、曖昧になっていくのを感じた。
胸に言いようのない寂しさが広がった。
本当に大切なものを失ってしまったのだという実感が、遅れてやってきた。
「さあトホホ!どうだい?力が湧いてきただろ?これでキミもこの世界で生きていけるぞ!」
グルリンは満足そうにお腹(のような部分)をさすりながら笑顔で言った。
はじめは押し寄せる喪失感に耐えながら、なんとか頷いた。
「ああ…ありがとう…グルリン…」
その声は虫にも聞こえないほど、小さく震えていた。
そしてはじめは思った。
自分にとって、もっとも悲しくてもっとも大切な思い出。
雨の日の信号待ちで、横断歩道を渡ろうと待っていた時の事。
考え事をしていて青になったことに自分は気付かず、渡り始めた妻と娘は信号無視の車に撥ねられてしまう。
娘を車から咄嗟に守ろうとした妻は即死。
娘も自分の腕の中で、何かを伝えようとしながら力無く生き絶えた。
この記憶は何があっても失ってはならないと、深く心に誓った。
それはまるで自分と共に過ごした妻と娘が、この世に存在した唯一の証であるかのように感じていたから。
そんなはじめを、小さな妖精は興味深い眼差しで見つめていた。
こうして佐藤はじめ通称トホホは、大切な思い出と引き換えに、ウザ可愛いビー玉グルメ精霊のグルリンと奇妙な契約を結んだのだった。
彼の記憶を失いながら生きる波瀾万丈な異世界生活が今、始まったばかりだった。