朝雨、おはよう
朝の光が窓から差し込み、部屋の中に柔らかな明るさが広がっていた。快斗は目を覚まし、ぼんやりと天井を見つめた。昨夜の微妙な会話を思い出しながらも、やっと訪れた平穏な眠りに少しだけ救われた気がした。
「おはようございます、快斗さん。」
低く落ち着いた声が聞こえ、快斗がそちらに目を向けると、陽香留が立っていた。
「…おはよう。」
まだ少し寝ぼけた声で快斗は答えた。そして、どこからかいい匂いがする。
「すぐに朝食ができますよ。リビングに座っててください。」
陽香留は振り返らず、料理に集中していた。
快斗は布団から起き上がり、ダイニングテーブルに座る。テーブルの上にはすでに並べられた食器や小さな花瓶があり、花瓶には一輪の小さな白い花が飾られていた。昨日はゆっくり見られなかったけど、意外と几帳面なやつだな、と快斗は心の中で呟く。
ほどなくして、陽香留がフライパンを手にテーブルへやってきた。
「簡単なものしか作れなかったんですけど、どうぞ。」
皿にはこんがりと焼かれたオムレツ、トースト、そして彩り豊かなサラダが並んでいる。香ばしい匂いが漂い、快斗の胃が自然と鳴った。
「お前、こういうの作れるんだな。」
少し驚いたような口調で快斗が言うと、陽香留は控えめに微笑んだ。
「意外でしたか?実家がそういう雰囲気だったので、自然と覚えたんです。」
「ふーん。」
快斗はあまり深く詮索しないようにしながら、フォークを手に取った。一口食べると、卵のふんわりした食感と絶妙な味付けに思わず顔がほころぶ。
「うまいな、これ。」
「ありがとうございます。適当に作ったんですけど、喜んでもらえたならよかった。」
陽香留は穏やかに答えたが、その声には少しだけ嬉しそうな響きがあった。
食事が進むにつれ、昨夜の気まずさは次第に薄れ、代わりに落ち着いた空気が二人の間に漂っていた。快斗はトーストをかじりながら、ふと陽香留に目を向けた。
「なぁ、お前、俺みたいなやつにわざわざこんなことしてくれて、何が楽しいんだよ。」
陽香留はコーヒーカップを持ちながら、少し考えるように視線を宙に彷徨わせた。
「楽しいというより…君がどうしてそんなに自分を追い込んでるのか気になるんです。それが分かるまで、一緒にいたいだけですよ。」
陽香留はどこ吹く風で微笑みを浮かべる。
「それに快斗さんだって、僕のこと気になるでしょ?」
「はぁ?お前が何考えてんのか分かんねぇってだけだ。そんなもん、知りたくもねぇ。」
「そっか、それじゃゆっくりしてって。少なくとも、ここなら自分を偽らなくてもいいんですよ。」
陽香留はソファに腰掛け、軽く手招きするような仕草をする。
快斗はその様子に苛立ちつつも、周りを警戒して立ち尽くしていたが、ようやく観念して椅子に腰を下ろした。
「それで?話があるならさっさとしろよ。」
「そんなに焦らないでくださいよ。僕はただ、快斗さんを知りたいだけなんです。」
その言葉に快斗は眉間にしわを寄せる。
「お前な、何が面白いんだ?お前みたいなやつが俺に興味持つ理由が全く分かんねぇ。」
「快斗さんは、僕の理想の『友達』だからですよ。」
陽香留は柔らかい口調で言い放ったが、その瞳にはどこか鋭い光が宿っていた。
「…は?理想だぁ?何言ってんだ。」
「今まで誰かと本音で話したこと、ありますか?僕はないです。だけど、快斗さんとならできる気がする。僕のことを、心の底から嫌いになってくれる相手って、快斗さんぐらいしかいないんですよ。」
その言葉に快斗は返事が詰まる。
「ふざけんな。俺は、誰かと仲良くする気なんてねぇんだよ。それこそ、友達なんて薄っぺらいものは信じちゃいねぇ。」
陽香留は頬に手を添えながら、少し笑う。
「でしょうね。でも、それが快斗さんの本心だって、僕だけは分かるんです。他の人は快斗さんの仮面を見て満足してるけど、僕はもっと快斗さんを知りたいんです。」
快斗は椅子に深くもたれかかり、天井を睨むように視線を向ける。
「…お前がそうだとしても、俺はお前に興味なんてねぇよ。お前が何を望んでるのか知らねぇけど、俺に近づくのはやめろ。」
「ふふ、それはどうでしょうね。快斗さん、結局は逃げない人ですもん。」
「はぁ?」
陽香留は立ち上がり、快斗に向かって一歩踏み出す。その瞳は快斗を見つめたままだ。
「快斗さんは他人の期待に応えるのが上手い人。でも、それは自分を捨ててるからできること。僕はその捨てられた快斗さんを拾って、ちゃんと快斗さんに向き合いたいんです。」
その言葉に快斗は一瞬だけ言葉を失った。陽香留の真っ直ぐな視線が刺さる。
「…意味わかんねぇ。」
吐き捨てるように言ったが、その声はどこか弱々しいものだった。
「わかんなくていいんです。けど、少しだけ僕の側にいてくれますか?」
陽香留はゆっくりと座り直し、微笑みながら快斗を見つめた。
「変なやつだな。」
快斗は呆れたように笑ったが、その声には昨日までとは違う、少しだけ柔らかい響きが含まれていた。
陽香留は何も言わず、穏やかに微笑んでいた。
朝食を終えたあと、快斗は陽香留の家の居心地の良さに少し後ろ髪を引かれる気持ちを抱えながら、玄関へ向かった。陽香留は玄関先まで快斗を見送るためについてくる。
「今日はありがとうな。泊めてもらって助かった。」
快斗は靴を履きながら、軽く頭を下げた。言葉こそそっけなかったが、その声には素直な感謝が滲んでいた。
「どういたしまして。また何かあればいつでもどうぞ。半ば無理やりでしたけど」
陽香留は控えめに微笑みながら言った。ドアのすぐ横に立っている陽香留の姿はどこか穏やかで、昨夜とは違う柔らかい雰囲気をまとっていた。
「お前んとこ、意外と居心地悪くなかったわ。」
快斗は冗談めかして笑いながら言ったが、靴を履き終わると、一瞬言葉を探すように沈黙した。そして小さな声で続けた。
「…世話になった。じゃあな。」
陽香留はその言葉を聞き取ったのか、静かに頷いた。
「気をつけて帰ってくださいね。」
快斗がドアを開けると、ひんやりとした外の空気が流れ込む。彼は振り返ることなく玄関の外に出たが、数歩歩いたところでふと立ち止まり、振り向いた。
「……本当に、もし、万に一つ、なんかあったら、頼るかもしれない。」
それだけ言うと、快斗は再び前を向き、足早に階段を降りていった。陽香留はドアのそばに立ったまま、快斗の背中が見えなくなるまで見送っていた。そして快斗が完全に視界から消えると、小さく微笑んでドアを閉めた。
「また来る気があるなら、喜んで歓迎しますよ。」
誰にも聞こえないような小さな声で、陽香留はそう呟いた。