ミョージャと長谷川家
☆バレンシア家☆
パオロの母ソーナは、何かよからぬ胸騒ぎを覚えていた。それは息子パオロが、皇帝からの処分を免れた旨を告げに帰ってきた直後からのことであった。よく考えてみればおかしなことだ。皇帝の決断が覆るなどということは、未だかつてなかったからである。
「ミョージャ、ちょっときなさい」
「なんでしょうか、ソーナ様!」
ミョージャはまだ少女のあどけなさの残る顔で、目を輝かせた。そんな彼女の眩しさのあまり、ソーナはため息をついた。この娘に難しい話をするのはなかなか気が進まない。それでもしなければならない。直感がそう言うのだ。
「ミョージャ。貴女は、何があってもパオロと一緒にいてあげてね」
「えっ」
あまりの突拍子もない言葉に、ミョージャ思わず目を丸くした。それを見たソーナはしばらく考えたが、それよりも最良の言葉は思いつかなかった。
「うん。だからね、この先、色んなことが私を含めバレンシア家に、ひいてはギルバート帝国に訪れるんだと思う。そうなってくるとパオロの人生も、一筋縄ではいかなくなる。そんな時、パオロとミョージャが2人一緒なら、どんなことでも乗り越えていける。そんな気がするの」
「ソーナ様…」
ソーナは極めて真剣な眼差しでミョージャを見つめた。ミョージャは何も言い返せなかった。自分のボキャブラリーの中からどんな言葉を抽出しても、何故だか軽いように思われたからだった。
観念したミョージャは、ソーナをじっと見つめ返した。そして力強く頷いた。この意思表示には、ミョージャの語彙の引き出しに眠っているどの言葉よりも強い意味が込められていた。
ソーナはミョージャの強い意志を確認すると、パオロの亡き父ロベルト・バレンシアの書斎に、ミョージャを案内した。
「ここにはロベルトさんが私達に残した数々の書物があるわ。ここにある書をすべて読めば、パオロの本来の姿や、パオロの本当の出立ちがすべて知れるわ。パオロ博物館ね」
ソーナは笑ったが、ミョージャは笑わなかった。ソーナの言葉に反応しなかったわけではない。ただ、パオロのことをもっとよく知りたいという強い気持ちが、彼女から「気遣い」という概念を奪ったのである。
何を隠そう。パオロの亡き父ロベルトは自分の死を覚悟した後、自分やパオロがこの世界に来る以前のことも含め、自分とパオロのことを細かく書き残していたのである。
ミョージャは、ロベルトの死以来ソーナの他には誰も立ち入りを許されていなかった、ロベルトの書斎に足を踏み入れた。
書物の数々は、ミョージャにとって難しく、容易に理解できるものではなかった。それは書物がパオロ・バレンシアのものであるばかりか、長谷川和雄のものでもあるからだった。それでもミョージャには読むのを諦めるなどという考えはまったくなかった。あまり教養のないミョージャにとってまず難しかったのは文体だった。難しい文体は脳内で簡単な単語に置き換え、まるで翻訳の作業をするかのようにして理解するように努めた。
そして最も難しかったのが、「転生」という概念と、それにまつわる設定だった。まずは各々の単語の意味を抑えておかないと、基本事項すら理解できない。ひとつの基本事項を覚えている間に、そのひとつ前に覚えたものを忘れてしまう。かなり根気のいる作業だった。ミョージャは1日中、メモを取りながら何度も何度も、書物を読み込んだ。そしてついに、8割型を理解するに至った。




