ヴェラの話
私はとても嫌な子だった。
だからこそいつもいい子になろうと努力していた。父様や母様の望むような子どもになりたかった。
「ヴェラは良い子だな」と言われるたびに私のちっぽけな自尊心は満たされて、もっともっと良い子になりたいと願った。「ヴェラは強い子ね」と言われるたびに、私は弱い部分を見せてはいけないのだと思った。
私は勉強が嫌いだった。
いつも部屋の窓から見える、表通りで楽しげな笑い声を上げて遊ぶ子どもたちが羨ましくて仕方がなかった。彼らはどこまでも自由だった。好きな時に遊び、好きなときに少しだけ勉強して、そしてまた遊んだ。
私は彼らが泥だらけになりながら楽しんでいる遊びをどれも知らなかった。
私が遊ぶと言えば、女中と庭で花の冠を作ったり、チェスだとかパズルゲームをしたりすることくらいだった。私も、いつか同じように道や野原を走り回って、一緒に遊んでみたかった。
でも、父様は、「あんな下品な笑い声を上げて、男女が共に遊ぶだなんてとんでもない、はしたない奴らだ」と言ったので、男の子とあんなふうに遊ぶのははしたないんだわ、と思って、そんな些細な願いはついぞ誰かに話すことはなかった。
私は神を信じない人が嫌いだった。
父様は厳格な聖職者だったので、幼い頃から私はよく神様のお話を説かれていた。私は神の存在をいわば盲信していたから、別に神の存在を疑うことはなかった。けれど、世情が悲惨になればなるほど、「やはり神なんていない」と考える人と、「こんなときだからこそ神に縋りたい」と考える人に二極化される。私は前者の考えがまるで理解出来なかった。神様はおわすのだ、いつも私たちを見ていらっしゃる。どうしてそんな単純明快なことを信じられないのか。
父様は、「無神論者は、異端尋問にかけられても仕方ない」と言ったので、ふぅん、そうなんだ、と思った。
私には弟がいる。
弟のスクトゥムは良い子だった。良い子だったから、誰よりも父様に認められたくて、いつももがいて、苦しんで、頑張っていた。嫡男であるスクトゥムに、自然と父様の期待も高まるのか、スクトゥムに対する父様の態度はいつも厳しかった。父様はいつもスクトゥムを叱りつけた。スクトゥムが歯を食いしばってそれを耐えているのも知っていた。私は酷くスクトゥムが可哀想に思えて、いつもスクトゥムを慰めていたのだけれど、今思えば、私はそうやってスクトゥムを慰めることによって優越感に浸っていたのかもしれない。スクトゥムはたくさん叱られて可哀想ね。その陳腐で残酷な小さな優越感がもしかしたらスクトゥムを傷つけていたのかもしれないと思うと、あれから十数年経った今でも胸が痛む。
驚くことに、私にはもう一人弟がいた。
名前をアウリガと言って、母様が違う。
アウリガの母様は、昔、私にとてもよくしてくれたらしい女中だった。私は優しくて美しいアウリガの母様がとても大好きで、お庭でご本を読んでもらったり、お歌を歌ったりしていたらしい。
でも、突然、アウリガの母様は女中をやめてしまって、幼い私はとても悲しんで、会いたいと駄々をこねていたそうだ。アウリガの母様が女中をやめた理由は、あの当時、幼かった私はもちろん、他の女中すらも知らなかったのだけど、アウリガを身ごもったからだと後に知った。
アウリガの父様は、私の父様だった。
アウリガと私は異母姉弟だったのだ。
アウリガも、とても良い子だった。良い子だったから、ずっと一人で艱難辛苦に耐えていた。私は、アウリガに
もとても酷いことをした。知らなかったとはいえ、アウリガに、自慢めいた苦労話をしていたのである。アウリガはいつも黙ってそれを聞いていた。きっと、話を聞いているのは辛かったに違いない。同じきょうだいなのに、アウリガと私たちの生活は天と地ほどもかけ離れていた。私たちがふかふかのベッドで軽くてあたたかい羽毛布団に身を包んでいた頃、小さいアウリガは独りで固くて冷たいベッドで寝ていた。私たちが過ごしやすい室内でお勉強をしたり、おいしいご飯をお腹いっぱいに食べていたりしている頃、アウリガはうだるような暑さの炎天下で、もしくは寒くて凍えそうな屋外で、与えられた仕事を黙々と懸命にこなし、更には独房のように狭くてじめじめした小部屋で、冷めたご飯を一人で食べていたのだ。
アウリガは、本当に良い子で、本当に可哀想だった。私を恨んでいても仕方ないのに、アウリガは今でも私を慕ってくれている。
私は悪い子だ。
私はスクトゥムもアウリガも大好きだったけれど、スクトゥムをいつも庇っていたのは、アウリガに優しく手を差し伸べたのは、きっと自分の自尊心を、優越感を満たしたかったのだ。私はこんなに優しい、良い子です。そう思いたかった。なぜなら私は悪い子だったから。
皆に「優しいね」「良い子だね」と言ってもらいたくて、本当の自分を押し込めて、理想の自分を演じていたら、私はもう、本当のじぶんがどこに行ってしまったかわからなくなってしまった。
でも、私はそれでもよかった。
本当のじぶんが嫌いだった。
弱虫で、嫉妬深くて、いつも誰かに認められたくて、そんな自分が大嫌いだった。
話は前後するけれども、私は 13 歳のときに、婚約者が出来た。
もちろん、すぐに結婚するわけではない。私が 16 歳になったら結婚する、という取り決めだった。婚約者は私より 7 つ年上で、彼の父親は最近力をつけてきた豪商だった。
これはいわゆる政略結婚というやつで、私は親たちの道具にされたのだった。
でも、特に疑問は感じなかった。
だって、母様も政略結婚で、この家に嫁いできたのだもの。けれど、私も、一度だけでいいから、おとぎ話のような、素敵な男性と素敵な恋をしてみたいと思った。口にすると、はしたないと叱られるから、誰にも言わなかったけれど。
その婚約者は、私を愛していなかった。私も彼を愛していなかった。彼も親の道具にされたのだった。
「あなたはそれでいいんですか?」
彼は言った。
「おれは、親父が許せない。おれの人生は、おれだけのものなのだから、誰にも何も強制はされたくない。確かに、この年までおれは親父の庇護のもと、生きてきた。でも、だからと言って、結婚なんて大事なこと、勝手に決められたらたまらない。あなたもそうでしょう?おれは嫌だ、政略結婚だなんて。それに、おれは商人になんてなりたくはない。あんなものはね、図太くて悪賢い親父だからこそ出来るんですよ。おれは考古学者になりたい。とこしえの都と呼ばれる、あの地に行ってみたい。だからおれはあなたとは結婚出来ないんです」
彼はそう言って、私に頭を下げた。
「でも、おれはあなたと友達になりたい。夫婦にはなれませんが、おれたちはいい友人になれることでしょう。おれは今晩旅に出る。もう親父の庇護は受けない。そして、おれはやりたいことをやる。あなたも親には縛られず、やりたいことをやりなさい。将来、お互いにいい伴侶を見つけて、美味しい酒でも飲みながら、あんなこともあったねと笑いあいたいものだね。どうか、おれなんかよりいい男を見つけてくれよ」
彼は笑って、庭園のベンチから立ち上がり、「またね」と言った。
やりたいことをやりなさい。
彼の言葉がずっと、私の耳にこだましていた。
そんな彼が死んだと聞かされたのは、わずかひと月後のことだった。
旅先で流行り病に罹患し、苦しみと失意の末にたった一人であっという間に死んだとのことだった。
父様は「哀れな男だ。私の意向に逆らって、婚約破棄なんぞするから」と彼の死を嘲笑した。
そうだ、父様は。
そのときにはっきり気付いた。
父様は、私やスクトゥムが好きなんじゃない。
自分の思い通りになる人間が好きなんだ。
私たち自身を愛してくれているんじゃないんだ。
私を可愛がってくれるのは、私が「父様の考え方をそっくり受け継いだ、自分の思い通りになる人間」だからだったんだ……。
がらがらと何かが崩れていく気がした。
私だって、彼が好きだったわけではない。
お話のなかの恋人同士のように、手を取り合って、甘い言葉を囁き合ってはいない、それどころかお互いに手すら触れていない。どんな顔をしていたかも、もう忘れてしまった。
きっと彼も、私の顔だって忘れてしまっていただろう。ただ、親に言われるがままに会って、何だか妙な話をして、
そして、1 時間もしないうちに会話は終わってしまった。婚約者だなんて名ばかりで、私たちは行きずりの通行人と同じような関係だったのだ。
でも、彼は、私と友達になって欲しいと言ってくれた。
悪い子の私と、友達になりたいと言ってくれた。
私は友達がいない。あたたかいお布団や、食べきれないほどの食事や、私の言うことを何でも聞いてくれる女中や召使はいるけれど、私には友達がいなかった。
「せっかく、お友達が出来ると思ったのに…」
彼は、親の敷いたレールを外れ、自分の夢に近付くための道中での今際で、何を思ったのだろうか。
その日以来、私は父様の考えに素直に頷くことが出来なくなっていた。
そんな折、私は初めて父様の意向に逆らった。アウリガを、父様が言う召使としてではなく、弟として守ってやりたいと思い、何かにつけてアウリガを部屋に呼び寄せ、庇護することにした。
でも、やっぱり、父様はそれを良しとしなくて、ある夜、私を部屋に呼びつけた。
「寄宿学校があるのを知っているね。あの、神学校の」
「はい、父様」
「お前はこれから、そこに行きなさい。いいね。そして、もう戻ってくるんじゃない」
「………」
「返事は?」
「……嫌です」
「…嫌だと?」
私は掌をぎゅっと握りしめて、もう一度「嫌です」と言った。
すると、頬に強烈な衝撃が走って、目の前がちかちかした。父に平手打ちをされたのだった。いつだったか、幼い頃もこのように力の限り父に打たれたのを思い出す。
あの頃の私は、父に従順だったけれど、今は違う。
私は父を、侮蔑するような、出来うる限りの冷たい目で見た。
すると、父の表情がみるみる変わっていく。父は容赦なく、もう一度私の反対側の頬を打った。耳がきぃんとする。そういえば、平手打ちをされたとき、下手をすると鼓膜が破れることがあるって、聞いたことがあるなぁ、なんて、私はどこか冷静な頭の片隅で暢気に考えていた。
鼓膜が破れたら、この人はどうしてくれるんだろう、と考えてふふ、と小さく笑う。すると、それがまた父の逆鱗に触れたのか、父は自分と同じ燃えるような色の私の髪を引っ掴んで、思い切り引っ張った。
私はその万力のような力に逆らえず、無様に床に叩きつけられる。
床に転がった私の背中を、父は蹴り飛ばした。痛みに呻く私の髪の毛をもう一度引っ張って無理矢理身体を起こさせた父は、親指とその他の指で私の頬を掴み、自分と強制的に目線を合わせた。父の血走った緑色の目が、酷く冷たい目をした私を映している。
「お前は!今まで!育ててやった!恩を!忘れたのか!このクズ!」
父は激しく怒りながら、乱暴な口吻を飛ばす。
「縁談が破棄になったのは仕方がない、あの馬鹿な男が死んだせいだからな!だが、自分のすべきこともわきまえず、あの端女の産んだゴミを自分の部屋に招き入れているというのはどういう了見だ!本当に、お前はクズだ、カスだ、死んでしまえ、この──」
私は、そう口汚く罵る父の腕を、気付けば爪で思い切りひっかいていた。父の腕に赤い線が四本走る。
ぎゃっ、と小さく叫んで、父は私を突き飛ばした。
「アウリガのお母様がアウリガを身ごもったのは、あなたの軽率な行動の結果ではないのですか、クズで、カスで、ゴミなのはあなた自身のほうではないんですか。アウリガには何の罪もないでしょう。あなたはとても可哀想な人ですね、そうやって、他人を口汚く罵ることでしか自分を保てないのでしょう、いつも、何もかも人のせいにして。可哀想な人」
私は弾む息を整えつつも、父に向かってそう吐き捨てた。そして、言うだけ言ったあと、私は
すぐさま踵を返し、部屋を飛び出した。涙が後から後から溢れてくる。自分でも訳がわからない感情に胸がいっぱいになって、私は逃げるように自室に飛び込んで、そして鍵をかけて閉じこもった。
激昂した父がいつ来るかとびくびくしていたが、意外にも父は来なかった。夜更けまで私は部屋の隅で小さくなって息を殺していたが、ようやく緩慢な動作で立ち上がり、荷物をまとめた。
もう、どうせここにはいられないのだ。
スクトゥムとアウリガにあいさつをしていきたかったけれど、私が出て行く原因になったのはアウリガだということは、アウリガに知らせないほうがいいような気がしたから、私は黙って出て行くことにした。出て行く理由を言っても言わなくても、アウリガと、そしてスクトゥムを苦しめるのなら、言わないほうがいいと思う。私は必要最低限の荷物をまとめ、母様が「いつか、もしものときのために」と渡しておいてくれた貴金属や、いくらばかりかのお金を持って、ひっそりと屋敷を出た。
屋敷の外に出て、今まで私を閉じ込めていた家を改めて仰ぐ。涙は出なかったけど、スクトゥムやアウリガを残していくことだけが、ただひたすら私の心を責めていた。
私はそのとき、15歳だった。
ある町のとある宿で、一人の男性に出会った。
私は、家にいた召使や、父、そして弟たち──そして、かつての婚約者以外、まともに男性と話したことがなかったので、最初、話しかけられたときは大層怯えてしまったのだが、その人は気さくに、そして優しく私に言った。
「一人で旅をしているの?きみ、危ないよ。自分の身は自分で守れるならともかく、そうじゃないんなら無謀すぎると思うけど」
怯えつつも、何て失礼な人かしら、と思った。
だって、初対面の人に、こんなに馴れ馴れしく話しかけるなんて、不躾だと思う。それに、もう少し言い方ってものがあるはずだ。
世間知らずの私がたった一人でふらふら街を歩くなんて、無謀なのはもちろんわかっている。
だけど、そんな小娘が一人で旅するには何か理由があるんだろうっていうことをそれとなく汲んで、推測するのが紳士というものじゃないかと思って、私は少しむっとして、俯いてしまった。
もう関わり合いになりたくないということを暗に意思表示したつもりだったが、その男の人はそんな私の態度などどこ吹く風で、少し身を乗り出しつつ私の顔をじっと見た。
「ねえ、きみ、よかったら俺が武器の使い方とか教えてあげるよ。あ、俺、奥さんいるから、別にやましいこと考えてる訳じゃないからね」
「………そんなこといきなり言われても、信じろというほうが無理です…」
「でも、そんなこと言ったって……あいたっ」
ごつ、という音と共に、その男の人は黙り込んだ。
不思議に思って顔をあげると、少し勝ち気そうな女の人が拳を固めてその男の人の後ろに立っていた。
「あんた、そんな怪しげなこと言われて、この子、怯えてるでしょうが、馬鹿。うちの人がごめんね」
その女の人は優しく私に微笑みかけた。
私はぽかんとしてしまったが、すぐにその女の人の背中の大きな斧に目が行って、じっと見つめてしまった。
「ああ、これ?珍しいでしょう。この辺では手に入らないものなの。あんまり大きな声では言えないけど…ヴァシュニルから持って帰ってきたんだ」
「ヴァシュニル?」
聞きなれない単語に、私はおうむ返しに聞き返す。そんな私を、二人は少し驚いたような顔で見た。
「ヴァシュニル…知らないの?」
「え、あ…はい……私…世間知らずなので……」
「とこしえの都って…聞いたことない?それがヴァシュニルなんだけど…」
とこしえの都。
それが、ヴァシュニルだったのか。
私はああ、はい…と、あいまいな返事を返す。
そして、どうしてか、口をついて出た言葉が「私もヴァシュニルに行きたいです」だった。
その言葉を聞いた二人は顔を見合わせて、そして怪訝な表情をして私の頭の先からつま先まで見た。
「お嬢ちゃん、正気か?」
男の人が口を開く。
私は躍起になって、「正気です」と反論した。
今でも、どうしてこのとき、こんなにむきになっていたのか、自分でも分からない。けれど、私は縋るように言葉を続けた。
「おねがい。何でもします。お金だって、お支払いします。どうか、私をヴァシュニルに連れて行ってください」
泣きそうな声で切願する私に、女の人は苦笑いをしながら、「ちょっと落ち着いて」と優しく言った。私は縋るように女の人を見上げる。とても背の高い人だった。きっと、170cm は超えていると思う。
「あのね。誰でも行けるって訳じゃあないんだよ。それに、お嬢ちゃん、今すぐ行ったって、絶対に後悔する。だから、少しの間、あたしたちのところで武器の扱い方を覚えなさい。そしたら、いつかきっとヴァシュニルに連れて行ってあげるから」
このご夫婦には、お子さんがいなくって──正確には、女の子が一人いたそうなんだけれど、あるときに受けた小さな矢傷が元で病気になってしまい、亡くなったらしい──私をまるで実の子供のように可愛がってくれた。
一人塞ぎこみ小さくなって座っている、娘さんと同じ年頃の私を何だか放っておけなかったらしい。そして、もう誰にも死んでほしくはないと、武器の扱い方を教えてくれようとしたそうだ。
そんな二人は、悪い子で、嫌な子の私を許容してくれて、けれど駄目なところはきちんと叱ってくれた。教科書や本の知識しか知らない世間知らずな私に、たくさんのことを教えてくれた。
遊ぶのは悪くないということ。
神様を信じるか信じないかは個人の自由だから、神様を信じなくても悪くないということ。
男の子と話したり、遊んだりすることははしたないことではないということ。
ずるいことやいじわるなことを思うのは人間ならごく自然なことで、大切なのはそれを思ったあと、どんな行動を取るかということ。
そして、いつしか、私の心の中の、“偽物の自分”が小さくなっていくのを感じていた。
みんなの期待に応えようと、物分かりが良く、素直で、いつでもにこにこしている理想の私が小さくなっていく。
その代わり、弱虫で、嫉妬深くて、いつも誰かに認められたくてもがいている等身大の私が大きくなっていく。
この人たちと一緒なら、きっと変われる気がした。
けれど、やっぱりそんな日々は長くは続かなくて、私が 18 歳になった頃、二人はもう起き上がれないほど、身体を悪くしていた。
「ヴェラ、ごめんね」
激しい高熱で喘ぐ二人は、泣きながら私の名前を呼んだ。
「やくそく、まもれなくて、ごめんね……」
約束なんて守らなくていいから、死なないで、と言いたかったのに、言葉にならなくて、私は二人の手を握ってしゃくりあげながら激しく泣き続けた。
どうしようもないほど悲しくて、辛くて、そして怖かった。
アウリガも、お母様が亡くなったとき、こんな気持ちだったのだろうか。どうしようも出来ない無力さに歯を食いしばり、ただ手を握ることしか出来なかったのだろうか。急にアウリガやスクトゥムのことが思い出されて、より悲しかった。
「私たちはもう駄目だから、はやく、逃げなさいね…」
二人は、震える手で、いつも外そうとしなかった腕の包帯を解いた。
そこには赤く燃え上がる痣が浮かび上がっている。
これは、巷で実しやかに囁かれる奇病の証なのだろうと、どこか冷静に頭の片隅で思った。
二人が奇病であることは薄々感づいていたけれど、そんなことも気にならないくらい、あたたかくて優しい人たちだったから、気にしていなかった。
「ヴァシュニルに…つれて行ってあげられなくて…ごめんね……あの斧…あなたにあげるから、どうかここから早く逃げてね……あの斧で、じぶんのたいせつなもの、まもってね…」
そんなの、いらない。
だからいなくならないで欲しい。
ヴァシュニルにも行けなくてもいい。
だから傍にいてほしい。
こんなに優しい二人が、どうしてこんな奇病に身をやつする羽目になったのか、わからない。
二人の眼窩が落ちくぼんできて、熱を持って火照っていたはずの皮膚はどんどん冷たくなり、瑞々しさすら失っていく。
二人は私の手を振りほどき、弱弱しく私を突き飛ばした。
私は力なく立ち上がって、大泣きしながら斧を握りしめる。
部屋を出る直前、今にも消えようとしている理性の光が、私を見た。
「ヴェラ…良い子ね」
***
私は今、ヴァシュニルにいる。
この尖塔から見る落日はとても美しい。私は何だか無感動にそれを見つめていた。
頭の中を今までの思い出が慌ただしく駆け巡る。
あれから一年が経った頃、私にも奇病が現れ、私はすぐにヴァシュニルに巡礼したのだ。…スクトゥムやアウリガはどうしてるのかしら。私が旅にで出てから、どれくらいの年月が経ったのかわからない。とても長い時間が経ったような気もすれば、そんなに時間が経っていないような気もする。
もしかしたら、スクトゥムやアウリガのほうが年上になって、可愛いお嫁さんが出来て、可愛い子供が生まれているかもしれない。確かめる術はないけれど。
「…えっと、礼拝所に行きたいんだよね?…行かないのかな?」
「え、あ、はいっ、そうです!すみません、考え事をしていて…」
そう声をかけられた私は、慌てて隣に立っている男性に頭を下げた。ここで出来たお友達のリラちゃんのお兄さんの、ラーンさん。話には聞いていたけれど、それ以上にとっても素敵で、優しかった。
静謐な尖塔の階段に、私とラーンさんの足音だけがいやに響く。ラーンさんは私を先導するように一歩先を歩いて、それでいてなお私と歩くペースを合わせてくれていた。
そんな優しい気遣いに、やっぱり女性には慣れているんだな、と思って少し寂しくなる。
私は、今まで、男性とお付き合いをしたことがないし、むしろまともに話したこともないから、今もこの二人のときに、気の利いたことのひとつも言えない。男の人とどんな話をしたらいいのかわからない。
…初めてラーンさんと会ったとき、なんだかとっても優しそうで、あたたかく笑う方だなと思った。こんな素敵な笑顔を向けられる女性は、とても幸せなのだろう、と思ってから、私は酷く複雑な想いになったのを覚えている。だって、きっと、私はその人にはなれないから。
ラーンさんは、私よりずっと年上で、素敵なひとだから、恐らくもう心に決めた女性がいるはずだと思い至って、私は小さく項垂れた。
女から、男性に想いを寄せるだなんてはしたない。
私は常々父親から言われ続けた言葉を心で反芻させ、芽生え始めている感情を必死で抑え込む。
初めから望みのないことなんて、しても仕方がないじゃないと自分に言い聞かせた。
そうやって自分に言い訳してあげると、諦めがつきやすいということを私は知っていたのだった。
あの二人にかけてもらった言葉と、父の言葉がせめぎ合う。
はしたなくないよ。
はしたない。
はしたなくないよ。
はしたない。
父の言葉はまるで呪縛のように私を苛んだ。
あの二人と暮らしていた頃、その呪縛は薄れかけていたのだけれど、あの二人がいなくなって、また一人ぼっちになった今、私の中の“理想の自分”が首をもたげる。
幼い頃から何度も何度も繰り返し教え込まれていた言葉は、心の奥深くに入り込み、ちょっとやそっとのことでは消し去ることが出来ない。また、父の言葉が耳朶に響いた気がした。
はしたない。
***
夜中、うなされて飛び起きた。
「……ヴェラちゃん?」
そう声をかけられ、びくりと大きく身体を揺らして、のろのろと顔を上げる。ラーンさんが、変わらず優しい表情で私を見つめていた。
「…ラーンさん」
「うなされてたけど」
ラーンさんは優しく笑って、ぽんぽんと私の頭を撫ぜた。途端に恥ずかしくなって、慌ててラーンさんから目をそらす。リラちゃんも、こうしていつもラーンさんに頭を撫でてもらっていたのだろうか。リラちゃんだけでなく、他の女性も、こうして頭を撫でてもらっていたのだろうか…。
そう思うと、心がまたずきんと痛む。そして、何かちくちくして、吐き気までしてきた。ラーンさんのことを全然知らない自分が何だか情けなくて、ラーンさんのことを知っている人のことが羨ましくて泣きそうになる。
この手のぬくもりを、心地よさを知っている人が、他に何人いるのだろうか…。
「……私の家は、聖職者の家系で……」
「ん?」
目の前の篝火をぼうっと見ながら、膝を抱えたまま私は口を開いた。ラーンさんとまだ一緒にいたくて、何かお話しようと思ったけど、口をついて出たのはそんな言葉だった。
ラーンさんは居住まいを正して私の言葉に耳を傾けてくれる。私は少し安心しながら、続きの言葉を探した。
「……それで、ずっと、私は聖職者である父の言葉を信じて育ってきました。父が全ての基準でした。私は、ずっと、父にとっての“良い子”になろうと努力してきました…、でも本当は、とっても嫌な子なんです、私は。承認欲求だって酷いし、嫉妬だって、しちゃうし……弟たち
に対して、いじわるな優越感を覚えたことだって、何回もある……」
そこまで言って、言葉が出なくなってしまった。出会って間もない、こんな素敵な人に何を言っているんだろう。自分の嫌なところをわざわざ曝け出して、何がしたいんだろう。ラーンさんは何も言わなかった。
どんどん心が重くなってくる。
言わなきゃよかった。
野宿なんかせず、早く、宿に帰ればよかった…。
そしたら、私はラーンさんの前で“良い子”でいられたかもしれないのに。
「ううん、それはごく自然なことなんじゃないのかなぁ」
怖くてラーンさんのほうを見ることが出来なかった私は、その言葉で勢いよく顔を上げた。
「え…」
「あはは、そんな不思議そうな顔しなくても。俺だって、同じだよ。程度は違えどきっと皆一緒なんじゃないのかな。そもそも、宗教なんて元を辿れば妬みが根底にあるんだよ。ヴェラちゃん、『貧しい人は幸いである』っていう言葉、知っているかな」
「はい、『――なぜならば、天の国は彼らのためにある』ですよね」
「そうそう、さすがだね。神は、弱者にほど救いの手を差し伸べる。弱者は、より神に愛されるという訳だね。貧しいと言っても、ただ単にお金持ちかそうでないか、という意味だけじゃない。心の貧しい人も含まれるんだよ。嫉妬が醜い…って一口に言ってしまうのはよくないか
もしれないけど、まあ、基本的にあまり好ましいことではないかもしれないね。ヴェラちゃん、もし、ヴェラちゃんに権力もお金も余りあるほどあって、自分の思い通りにならないことなんてないくらいすごい立場にある人だったら、ヴェラちゃんは他の人に嫉妬なんてするか
な」
ラーンさんは幼い子を諭すように優しく、でも丁寧に言葉を紡いだ。その言葉に私はしばし黙考したものの、「しないと思います」と答えた。ラーンさんはうんうんと頷く。
「しないよね。嫉妬なんてものは、自分から見て良く見えるもの、自分が欲しいと思っているものを持っている人に起こる感情だからね。逆に、ヴェラちゃんが嫉妬される側になるね」
ラーンさんはふふ、と笑い、続ける。
「じゃあ、ヴェラちゃんは社会的弱者で、権力はもちろんお金すらなくて、自分の思い通りになることなんてなかったら、どうだろう」
弱者。そう聞いて、ふと、アウリガのことを思い出した。今でも一言一句覚えている、アウリガの悲痛な言葉が頭の中でこだまする。
──僕は本当はあんたらの弟なんだよ。でも、母親が違うっていうだけで、父親も僕のことを自分の子供だって認めてくれないし、生活だって雲泥の差だし。僕だって勉強したい。剣術だってしたい。なんで、そんな恵まれてるのに泣くの?女だから何?身分の差に比べたら、性
差なんてあってないようなものじゃないか…──
アウリガは、私やスクトゥムに“嫉妬した”と言っていた。
自分の力だけではどうにもならない現実の壁に直面し、足掻こうにもどうしようも出来ない。胸を掻き毟りたくなるような感覚に苛まれつつも、その現状から抜け出せない。
「…嫉妬します。きっと、周りにいる幸せそうな人みんなに、嫉妬します……」
あの暗い屋敷の窓から大通りで遊ぶ子供たちを眺めて、私は確かにあの子たちに嫉妬した。
私だってあの子たちと一緒に笑いながら遊びたかった。
かつての婚約者が自分の意志で家を出て、婚約を破棄したことに嫉妬した。私も自分の意志で道を決めたかったし、結婚なんてしないと言いたかった。
「うん。それでいいんだよ。それで普通なんだから」
ラーンさんはまた優しく微笑んで、私の目尻に溜まった涙をそっと拭ってくれた。
「そういう社会的弱者の立場にある人たちが作り出したものが宗教なんだよ。彼らは救いが欲しいんだ。だから宗教は弱者に寄り添うように出来ている。強者は感情のはけ口はいくらでも持っているけれど、弱者は感情のはけ口を作り出すことは難しいから、宗教を心の拠り所にして、心の平安を保っているんだ。ヴェラちゃん、自分のことをあんまり責めちゃ駄目だよ。ヴェラちゃんが本当に“嫌な子”だったとしても、それは別段変わったことじゃなくて、普通のことなんだからね。むしろ、ヴェラちゃんはそうやって自分のコンプレックスに向き合って、改善しようとしているんだから良い子じゃないか。みんな、自分のコンプレックスからは目を背けたくなるものなのに、ヴェラちゃんはそれにちゃんと向き合おうとしていて、偉いね」
そう言って、ラーンさんは私の頭を撫でた。
その途端、堰を切ったように涙が溢れだしてきて、私は小さな子供のように声を上げてわんわん泣いた。今まで、本当に欲しかったものはこれだった。
頭を撫でて、「えらいね」と褒めて欲しかった。
ラーンさんは突然泣き出した私に一瞬驚いたようだったけど、私が落ち着くまでずっと頭を撫でてくれていて、私はそのとき、はっきりとこの男性が好きなのだと自覚した。
私はとても嫌な子だった。
だからこそいつもいい子になろうと努力していた。父様や母様の望むような子どもになりたかった。でも、それは別に必要なことじゃなかったんだとようやく気付くことが出来た。弱虫で、嫉妬深くて、いつも誰かに認められたくて、そんな自分は今でもあんまり好きではないけ
ど、それは別に変なことじゃなくて、皆、大なり小なりコンプレックスを抱えている。だから、こんな自分と上手く付き合っていくことが出来たら、きっとその時に理想の自分を演じなくて済むようになるんだわ、と思った。
私は勉強が嫌いだった。
いつも部屋の窓から見える、表通りで楽しげな笑い声を上げて遊ぶ子どもたちが羨ましくて仕方がなかった。彼らはどこまでも自由だった。好きな時に遊び、好きなときに少しだけ勉強して、そしてまた遊んだ。私は彼らが泥だらけになりながら楽しんでいる遊びをどれも知らなかった。でも、ここヴァシュニルで私はとても素敵なお友達がたくさん出来たので、皆に教えてもらうことが出来ると思う。私が知っていることを教えてあげて、そして私が知らないことも教えてもらうことが出来るのだ。相変わらず、勉強はあまり好きではないけど、皆と一緒にお勉強するなら、それも悪くないかも、と思えるようになった。
私は神を信じない人が嫌いだった。
父様は厳格な聖職者だったので、幼い頃から私はよく神様のお話を説かれていた。私は神の存在をいわば盲信していたから、別に神の存在を疑うことはなかった。けれど、世情が悲惨になればなるほど、「やはり神なんていない」と考える人と、「こんなときだからこそ神に縋りたい」と考える人に二極化される。以前の私は前者の考えがまるで理解出来なかったけれど、今なら少しだけわかる気がする。神様を信じようと信じまいと、幸せな人は幸せだし、不幸せな人は不幸せなのだ。物事を幸せととらえるか不幸せととらえるかは、自分の心次第なのだから。神様の存在は、その物事の捉え方を少しだけ補強するだけで、信仰は強制するものでも強制されるものでもない。だから私は神様の存在を信じない人がいても、そんな考え方もあるんだなと思えるようになった。
私には弟が二人いる。
スクトゥムもアウリガもとっても良い子だった。良い子だったから、誰よりも周りに認められたくて、いつももがいて、苦しんで、頑張って、色々な苦しみや悲しみに耐えていた。
15 歳のときに別れたきり、ずっと会えずにいたのだけれど、ここヴァシュニルで再会したときは本当に驚いたし、嬉しかった。二人とも、奇病になって、辛い運命を辿るようになったことを悲しむべきだったのかもしれないけれど、二人が元気で、そして変わらずに私を姉として慕ってくれたことが本当に嬉しくて仕方がなかった。これからは三人ともずっと一緒だね、と泣きながら言うと、スクトゥムとアウリガはお互いの顔を一瞥して苦い顔をしながら、ハハ、と控えめに笑った。
二人は年も近いしお年頃だし、何より兄弟として過ごした時間が短かったから反発し合うことも多いんだろうけど、これから仲良くなればいいなと思った。
私には大切な人がたくさんいる。
家族はもちろんのこと、たくさんの世界を教えてくれた家庭教師の先生や、身の回りの世話をしてくれた女中たち。
私に変わる“きっかけ”をくれた、かつての婚約者。
武器の扱い方や様々な考え方を教えてくれて、今も使っているこの斧をくれて、何より本当の私を受け入れてくれた第二の親とも言える二人。
ヴァシュニルで出会ったたくさんのお友達。
そして、私の一番欲しかったものをくれたラーンさん。
私は相変わらず、弱虫ですぐに泣いてしまうし、嫉妬もするし、わがままで、理想の自分とはずいぶんかけ離れている。これからも改善できないかもしれない。けれど、それを受け入れてくれて、こんな私を愛してくれるラーンさんが側にいるから、本当の私を嫌いにならなくてもいい。
この広い世界で出会えてよかった。いつでも一緒に過ごせたらいいな、と、隣で優しく微笑むラーンさんに寄り添いながら、そんなことを考えた。