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スクトゥムの話

 そのとき、俺は酷く狼狽したことを覚えている。

当時、俺は五歳になるかならないかくらいの年齢だったが、あまりの恐怖にあのときのことは今でも鮮明に思い出せる。

あの日、俺は父の大切にしていた壺を割ったのだ。

東国の品らしく、この辺りでは滅多に手に入らないセージ、だかハクジ、だかの壺らしい。

聖職者の父は酷く厳格だった。

一つ違いの姉のことはそれなりに甘やかしていたのだが、嫡男である俺に対して父は酷く厳しかったのである。

俺は父に叱られるのが一番嫌いだったし、苦手だった。

俺は、壺を割ってしまったことよりも、父に叱られるのが怖かった。

父は、俺を叱るときはいつも烈火の如く怒鳴りつけた。お前は何て駄目な奴だと詰られた。

その度に、姉がよく慰めてくれたのだが、俺は内心「お前はいいよな、甘やかされて」なんて思っていたものだった。


割れた壺を前に、幼い俺は途方に暮れた。

新しい品物を用意することも出来ない。

こうも粉々に砕けては修復も出来ないだろう。

そのとき、ドアのほうから物音がして、俺はびくりと身を強張らせた。

身体を竦めながら恐る恐る振り向くと、そこには姉が立っている。

姉は大きな目をますます大きくして、泣きべそをかいた俺と割れた壺を見ていた。


「スクトゥム、それ、わっちゃったの?」


姉の声色は驚きに満ちてはいたものの、優しかったが、罪悪感からか俺は責められているように感じ、思わずワッと泣き出してしまった。

そんな俺を見て姉は慌てて駆け寄ってきて、俺の頭を撫でた。


「だいじょうぶ、泣かないで、スクトゥム。お姉ちゃんがなんとかしてあげるから。だからスクトゥムはおへやにもどっておきなさいね」


姉はそう言って微笑んだ。

今から考えてみれば、六歳の姉にどうにか出来るはずもなかったのだ。

だが、そのときはあまりに姉が自信満々に笑いながら言うので、俺は安心しきって泣き止み、姉に礼を言うと、馬鹿正直に部屋に戻った。


部屋に戻った俺は緊張が解けたからなのか、眠気を感じソファに身を沈めてうとうととしていた。

しかし、廊下から父の恐ろしい怒鳴り声が聞こえて、そんな微睡みはすぐに吹き飛んでしまった。

慌てて部屋から出ると、姉の部屋の前で、姉が廊下にへたり込んで泣いていた。

そして廊下に仁王立ちになって、恐ろしい貌で、恐ろしい声で、姉に罵詈雑言を投げかけている父がいた。

姉は自分が壺を割ってしまったと言ったらしかった。

あまりの父の剣幕に、他の女中や召使も集まってきて、はらはらと成り行きを見守っている。

うちはいわゆる中流階級というやつで、それなりに女中や召使もいたのだ。



「ヴェラ、見損なったぞ」



父はそう吐き捨てた。

ちがう、ねえちゃんが悪いんじゃない。そう言おうとしたのに、声が出なかった。

未だかつて見たことのない父の剣幕を前に、俺は足がすくみ、声すら発することが出来なかったのだ。

正直に俺が割ったとあのとき申告していたら、どうなっていただろうか。

今更知る由もないことだが、今でも時々考えてしまう。

だが、確実に俺は父の不興を買い、今まで以上に詰られ、責められ、人格すら否定されていたことだろう。

父はそういう人間なのだ。聖職者の癖に随分俗っぽく、厭らしい、欲に塗れた人間だった。

後に分かったのだが、裏では随分阿漕な商売をして金を得ていたらしい。

その上、女中に手を出し、子供を孕ませた挙句、わずかばかりの手切れ金を渡して追い出したりもしていたのだ。

まあ、当時の俺はそんなことは知らなかったので、俺にとって父は偉大な存在であり、同時に絶対者でもあった。

ある意味、俺は父に服従と隷属を強いられていたのだ。

俺はいつも父の顔色を窺っていた。

父の機嫌を損ねないよう、父の理想に応えられるよう、幼いながらも必死だった。

父の愛情を繋ぎ止めていた唯一の“期待”を、俺は裏切りたくなかった。

嫡男としての責任がいつも俺の肩に圧し掛かっていた。



「あ………」



ようやく絞り出した言葉は、言葉になっていなかった。

しかし、その声で俺に気付いた父は、俺を一瞥すると「部屋に入っていなさい」と冷たく言った。

姉は顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

右頬が赤く腫れている。父に打たれたのであろう。

姉はそんな顔を力なく横に振り、へやにもどりなさい、と口を動かした。


俺は、自分が情けなくて、涙が溢れてきた。

でも、どうしても「自分が割った」とは言えなかった。

言えば、姉が叩かれてまで俺を庇ってくれたのも無駄になる。


そうだ、俺は、静かに部屋に戻ればいいんだ……。


そうやって、俺は罪悪感の中で揺れ動く心を抑え込み、言い訳で心を閉ざして、自室に籠って泣いた。





父は俺のことを数字の上でしか判断しなかった。

父は非常に現実主義者で、結果こそすべてだった。

結果が出なければ、俺は酷く叱られた。

いくら努力をしても、過程は評価されず、結果が出なければ、父は目を恐ろしく吊り上げて、酷く萎縮している俺を睨めつけたのだった。

あの目が怖かった。父の優しげな眼を見たことがなかった。

俺と同じ赤い髪が、緑の瞳が、俺を酷く苦しめた。



 あの日以来、俺は、姉に何か特別な感情を抱くようになっていた。

姉として慕っているというものもあるが、それだけではないような気がしていた。

けど、恋人にしたいとか、性的な目で見るとか、そういうものでもないような気がする。

ただ、姉が幸せであるなら、健やかに生きられるなら、他に何もいらない。

そして、その傍に俺もいられたら、と思ったのだ。

だから、姉の傍に誰かがいるのが嫌だった。

それが、同性であろうと異性であろうと嫌だった。

そこは、俺の居場所なんだ。

姉ちゃんの隣にいるのは、姉ちゃんの傍で姉ちゃんの笑顔を守るのは、俺なんだ……。


 そうした、いびつな感情が腹の底でどす黒く渦巻き、成長していくのを、俺は確かに感じていた。


だから、あの日、姉さんが使用人の子供に興味を示したとき、俺はとても面白くなくて、子供じみた感情を丸出しにして、拗ねてしまったのだ。

あのとき、意地を張っていなければ、姉ちゃんを無理矢理引っ張って、あの使用人の子供から引き離していれば、何か少し変わっていたのだろうか。

過去は変えることが出来ないし、俺自身、そうしたからと言って何かが変わっていたのかと言われれば、そうではないと考える。

所詮、俺はこの広い世界のちっぽけな存在の一人にすぎない。

俺一人がもがいたからといって、何かが変わる訳でもない。

俺は、このちっぽけな世界の、ちっぽけな街の、ちっぽけな家の、ちっぽけな存在の父親にさえ怯えている、ちっぽけでくだらない人間だから。




ところで、俺は、小さいうちからよく人々の懺悔を聞いていた。

これも聖職者になるための一歩だと、父に教え込まれていたのだ。

信者の中には、俺を孫か何かのように思い、懺悔というよりも、むしろ孫を可愛がる祖父母のように世間話をしに来る者も多かった。

そんなある日、俺は、ある信者に、こう質問された。


「私は、もちろん神様を信じているけれど、本当に神様は私たちのことを見てくれているのだろうか?本当に、死後の救いはあるのだろうか?」と。


14歳になるかならないかの頃だった。

俺は、「そう言いつつも、死後の救いを信じているからこそ、あなたはこうして、今日もここに来ているのでしょう」とぶっきらぼうに言う。

すると、信者は、はっとしたように、ええ、ごめんなさい。と寂しそうに呟いた。


それからわずか1週間後、その信者が亡くなったと聞かされた。

元々老齢だったから、老衰かとも思ったのだが、どうやら予てからの病を苦にしての自死を選んだようだった。


父は葬儀の用意をしつつ、「自ら命を絶つなんて、とんだ愚か者だ」とぶつぶつぼやいている。

それを横目に見つつ、俺は眉を顰めた。父はこういうときでも本当に聖職者であるのかと疑う発言をする。

俗っぽくて、厭らしい。

でも、信者の前ではそんな姿を微塵も感じさせなくて、それがより父の卑劣さを増大させているようだった。

そんな父を横目に、俺はその信者との会話を反芻させていて、ふと、「あの信者に間接的に死を選ばせたのは、俺なのではないか」と思い至った。

考えすぎかもしれない。

けれど、辛い現実に耐えられなかった彼女は、死後の救いを求めて、死を選んだのではないか。

死という未知の領域において、道を指し示したのは俺の言葉だったのではないか。


それなら、俺は人殺しだ。




身寄りのない彼女の葬儀は酷く寂しげだった。

花に囲まれ、静かに目を伏せる彼女の遺骸を見、俺は空恐ろしい何かを感じた。

うなじにぴりぴりと感じる死の影と恐怖に、身をすくませ、隣にいる姉の手に縋る。

姉は俺の頭を撫で、手を握ってくれた。

姉の手のぬくもりが、この厳かで悲しい空気を緩和してくれた。

こんなときでもフードを深く被ったあの使用人の子供が忙しなく働いているのが目の端に移り、俺は途端に心の中でどす黒く、不愉快な気持ちが湧きあがるのを感じる。

自分でも、何でこんなにもいらつくのかが分からない。

分からないからこそ、姉の手を強く握り返し、この手を放したくないと思った。

使用人の子供は、一瞬こちらを見たように感じたが、すぐにまたどこかに行ってしまったので、それは判じえなかった。

でも、あいつが俺と姉を見て、そして、そろそろ身の程を知っていればいいなと思った。

この心の奥底で冷たく青白く燃えている嫉妬の炎の存在に、俺は気付きつつも、気付かないふりをしていた。




その日の夜、俺はベッドに横になりながら、ずっと自問自答を繰り返していた。

死後の救いは、本当にあるのだろうか。

父は死後の救いはあると言うけれど、父は死んだことがないのに、何故そう断言出来るのだろうか。

父は本や、父の先生に聞いたのだろうけど、その本の著者や先生も死んだことがないだろうに(今はもう死んでいるかもしれないが)、何故分かるのだろうか。

本当に死後の救いはあるのだろうか。


人は、自分の知らないものが怖い。

だから、死が怖いのかもしれない。誰も経験したことがないから、誰も教えてくれないから、怖い。

だから、俺たちは、神に縋って、死後の救いを信じ、どうにか正気を保って日々を生きているのかもしれない…。

それなら、死後の救いを信じて、自死を選んだ彼女は幸せだったのだろうか。


もし、信仰心の篤い者全てに等しく救いが訪れるとして、神が本当に存在するなら、信者全てが救われるのだろう。

死後の救いがなく訪れるもののが“絶対的な無”だったとしたら、信仰心があろうとなかろうとどうせ皆等しく無に還るのだ、それならせめて生きているうちに心のよりどころを見つけた信者のほうが幸せだろう。


だから、どっちにしろ、神に縋るほうが“お得”なのだ。


彼女には救いが訪れたのだろうか。現世で辛いことばかりあったのなら、せめて死後の世界で彼女に救いと心の平安が訪れているといいな、と思った。

そして、俺は自分が死ぬときのことを考える。

老衰で死ぬならまだいい。

病気や事故、死を選ばざるを得ない何かに直面したら?

俺が死んでも、この世界は何も変わらない。

俺が死んだら、この身体はどうなるのか。

彼女のように、俺も冷たくなって、静かに眠り続けるように、ただ“在る”だけのものになってしまうのだろうか。


姉は泣いてくれるだろうか。

父は。

母は。

あの使用人の子供は。


俺は酷く死が怖くなって、ベッドの中で身体を丸める。夜の帳はまだ深く、朝焼けはまだ遠かった。






「アウリガは、私たちの弟なんだって……」


隣で本を読んでいた姉が、やにわにそんなことを呟いたので、俺は思わず本を取り落してしまった。

固い背表紙が足の甲に直撃して、呻きながら俺は「え?」と聞き返した。

姉は心ここにあらずと言ったふうに、本に目を落としながら「うん…」とだけ言った。

答えになってない。

でも、それだけで十分だった。

頭の中がぐしゃぐしゃになる。あいつが?弟?


「……腹違いの弟なんだって…。父様は…母様を裏切ったのかしら…。でも、男の人が他に愛人を作ることは、別段おかしくないことなのかな…わからないよ…私。世間知らずだから。いくら二人が政略結婚だったからって、こんなにも一緒にいるってことは、それなりに愛し合っていたわけじゃないのかな。男の人のこと、わからないや。ねえ、スクトゥム。スクトゥムもそう?奥さん以外にも、他の人を愛せる?」



そこで姉は初めて俺を見た。大きな緑色の瞳が俺をじっと見つめる。瞳を縁取っている睫毛が少し濡れている。

姉はすぐ泣く。その涙を拭うのは、俺だけでいい。



「しないよ。失礼なこと言うなよ」

「うん…うん。そうだよね。ごめんね…。私、アウリガの前では、何でもないふりをしたけど、それを聞いたとき、本当にショックで、どうしたらいいのかわからなくなったの。父様が汚らわしく思えてしまった…父様は、聖職者なのに。不邪淫って、もう前時代的なのかな。アウリガは悪くないんだけど、私…もうどうしたらいいか」



本の上に涙がぽたぽたと落ちていく。

俺の右手が神経質に痙攣する。

俺は一瞬の逡巡の後、立ち上がって、そして姉の身体をそっと抱き締めた。

いつの間にか、俺は姉と背丈が同じくらいになっていた。



それからしばらくして、姉がいなくなった。

俺は動揺した。

姉の部屋は、まだ生活感に溢れていて、しばらくすればふらっと帰って来そうな気すらしたのだが、姉のお気に入りのトランクがない。

父は憮然とした表情で「ヴェラの意志だ。あいつは寄宿舎に入った」としか言ってくれなかった。

嘘に決まってる。姉は、そんなことは一言も言っていなかった。

混乱したまま、俺は父の書斎を後にする。

自室に帰る途中の廊下で、俺は姉の部屋の前で立ち尽くす赤毛の子供を見つけた。

アウリガだ。

アウリガは縋るような目をして姉の部屋の扉を見つめていた。

途端に、どうしようもないほどの嫌悪感が溢れてくる。

お前が。



「お前のせいで、姉ちゃんがいなくなったんだ」



考えるより先にそんな言葉を吐き捨てた。

アウリガは茫然としたままこちらを振り向いた。

俺はそのとき初めてアウリガを見た。

俺と同じ赤毛。

女みたいな顔立ちをしていたけど、その表情は酷く倦み疲れている。

目は、明るい空色をしていた。

巻き毛と目の色は母親に似たのだろうか。

確かに、姉の言うとおり、アウリガがこの家に来たのは父親の不貞が元だからで、アウリガが悪い訳ではないということは重々承知している。

でも、理性では割り切れない何かがあったのだろう。


俺はむきになってアウリガの言葉全てを否定した。

姉ちゃんはお前だけのものじゃない。ずっと、俺だけのものだったんだ。

そんなアウリガはついに我慢できなくなったのか、俺に突進してきた。

突然のことに反応出来なかった俺はアウリガもろとも廊下の床に倒れ込んでしまった。

何でお前がキレるんだ。俺は猛烈に腹が立って、俺の上に乗っかっているアウリガを引きずり倒そうと躍起になるが、アウリガはそんな俺の手を払いのけ、拳を振り上げた。


殴られる、と暢気に思う。

だが、いつまで経ってもその拳が振り下ろされることはなかった。

アウリガの後ろに、いつも俺を叱るときのように恐ろしい顔をした父が立っていた。

その怜悧な目を見て、俺は心底震えあがってしまった。


アウリガは父に思い切りはり倒されて、そして小さな子供のように泣き出してしまった。

その姿を見て、今までの怒りが嘘のようにしぼんでしまう。

俺がこうして父に叱られ、体罰を受けたあと、必ず姉がこっそり部屋に来て、優しく抱き締めて慰めてくれた。

でも、こいつは違う。

やっと縋るものが出来たのに、それをすぐに取り上げられてしまった。

父はアウリガに「出ていけ」と吐き捨てたので、俺は慌ててそれを止めた。

さすがに酷すぎる。だが、父は有無を言わさぬ様相で俺を一喝した。

アウリガのことが気になったけど、あの時と同じように、俺はすごすごと引き下がってしまった。

俺も、卑怯者だ。

アウリガの悲しそうな泣き声がいつまでも耳から離れなくて、俺はベッドの中で耳を塞いでいた。



***


その日の夜、俺は父の書斎を再度訪れていた。

先ほどから、父は俺のほうを振り向こうともしない。

ただ苛立たしげな様子を隠そうともせず俺に「出ていけ」と繰り返している。

だが、俺は引き下がらずに、父の後姿を見つめていた。父の、あの目を見なければ、少し勇気が出る。



「アウリガが、弟だと聞きましたが」



父は書斎机に向かったまま、フンと鼻を鳴らした。



「…姉さんの元婚約者の家の当主が急死して、あの家は急に没落したと聞きましたが」



父は何も反応しない。



「………姉さんはどこに行ったんですか。アウリガは」



父はそこで、ようやく大仰そうにこちらを振り向いた。

緑の瞳が俺を睨みつける。途端に、じわりと嫌な汗がうなじを伝った。

手が震えたが、それを振り払うかのように掌に爪を立てて、俺は続けた。



「父さん。あんたは…あんたは、どこまで汚い人間なんですか」



振り絞るようにして言ったそれを聞いて、父は心底愉快そうに哄笑した。

しかし、目は笑っていない。目は冷酷に俺を睨んだまま、父は笑った。



「お前の質問に全て答えてやろう。そうだ。アウリガはお前の弟だ。腹違いのな。戯れで女中に手を出したら孕んでしまった。あれの母親は端女だったが大層美しい女だったから、アウリガも女だったらまだほかに使い道があったかもしれんな。ハハハハハハハハ。ヴェラの元婚約者の家か?私の顔に泥を塗ったあの馬鹿息子の落とし前をきっちりつけてもらった訳だ。まあ、死ぬとは思わなくて驚いたが。ハハハハ。なに、あれの扱う商品の文句をな、少しだけ、信者に話しただけだ。噂とは怖いな。たちまち風聞が流布して、商売が行き詰ってどうにもゆかず自死したそうだ。ヴェラもアウリガもどこに行ったか知らん。追い出したのは私だがな。ハハハハ。スクトゥム、私が憎いだろう。殺してもいいぞ。お前にそんな度胸があるならな。スクトゥム、お前、私が怖いだろう。恐ろしいだろう。お前はいつも私に怯えているものな。なぁ?スクトゥム?」


父は勝ち誇った表情で唸るように言った。

俺は、何だかんだで、父のことを尊敬していた。

けれど、ここまでのクズだとは思わなかった。

本当に、悲しくなるほどこの男はクズだった。

どうして、俺は、こんな男に怯えていたんだろう…。

今までの父親像が音を立てて崩れる。そして、この男の血が流れている自分自身も嫌悪した。



「……わかった」

「…何がだ?」

「あんたは…あんたは、自分の都合や欲のために、一体何人の人生を狂わせてきたんだ…。もう、あんたは生きてちゃいけない。俺が殺してやる。その後俺も死ぬから、安心しろよ」



父が怯んだのと同時に、俺は壁に飾ってあった剣に手を伸ばし、咄嗟に父を切りつけた。

迷いはなかったが、手元が狂ってしまい剣は父の腕を掠っただけだった。

しかし、父の腕からは鮮血が噴き出し、それを見て父は無様に絶叫した。

俺は剣を握りなおすと、また迷いなく父に向かって剣を振り下ろした。

腰が抜けたのか父はその場にへたり込んでしまい、剣は書斎机の天板を粉砕したものの、父には当たらなかった。



「ま、ま、待て、ス、ス、ス、スクトゥム、おお、お、落ち着け」

「残念だけど、この上なく落ち着いてる。次は殺す」

「待て、待て、待て待て待て待て!!話せばわかる!話せば!」

「話してわからないから殺すんだろうが。アホか」



父は情けなく泣きじゃくりながら、俺に命乞いをした。

殺さないでください。死にたくない。すみませんでした。本当にすみませんでした。殺さないでください。

父の緑色の瞳は、怯えながら俺を見上げていた。俺は拍子抜けしてしまい、完全に毒気を抜かれてしまった。

まあ、この男の底も知れたものだ。やはりクズは心底クズだった。

俺は、こんな男にずっとびくびくしていたのかと思うと虚しさすら覚えてしまう。俺は大きなため息をつき、剣を下ろした。



「……俺は出て行く。ああ、そう。その前に」



俺はまだへたり込んで放心している父に言った。



「あんた…随分傍若無人に振る舞ってきたけど……まさかそのつけが回ってこないとは思っていないよな?因果応報って知ってるよな。あんた、随分恨まれてるだろうから…一体どれだけの悪意と不幸があんたに戻ってくるんだろうな…」



俺はとても残酷な言葉を吐いて、書斎を後にした。俺は父に呪いをかけてしまった。

父は俺の言葉によって、自分に無数の悪意が向けられているとはっきりと認識してしまったのだ。

これから、もし父の身に何か不幸な出来事が降りかかると、父は「もしかして、つけが回ってきたのかもしれない」と感じることだろう。

実際は大したことのない不幸でも、俺の“呪い”によって父の不幸は増大する。

これから、父は因果応報に怯える日々を過ごすのだ。

これが原因で父が死を選ぶようなことがあれば、やっぱり俺は人殺しになってしまう。


ま、しょうがないな…。


その時は俺も天国には行けないな、とぼんやり思った。



それからの俺は、姉と、一応弟も探して各地を放浪していた。

いつまで経っても二人に会えなくて、心が折れそうになったこともあったが、それでも旅を続けた。

途中、立ち寄った街で、俺と同じ髪の色をした男が収容所に向かったという話を聞いて、俺は一縷の望みに賭けて収容所に向かうことにした。

俺と同じ髪の色をした人間なんて、たくさんいるに決まっている。

けれど、何の手がかりもない状態で当て所なく放浪するのはもう心身ともに限界が近付いていた。

だから、その男がアウリガだという確証は何もなかったが、俺は収容所に向かうことにした。


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