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アウリガの話

母の口癖は「辛い」だった。

僕が物心つくころ、母は既に酷くやつれていて、汚らしかった。眼だけは異様にぎらぎらしており、壮年の女性には似つかわしくない顔に刻まれた深い皺は、母の醜さを際立たせていた。

しかし、母にも少女のような頃はあったのだ。

これが若い頃の母様よ、と見せられた小さなポートレートには、美しく、瑞々しい少女が描かれていた。

聞けば、母はある聖職者一家の屋敷の女中だったそうだ。

そして、その主人のお手付きになって、僕が生まれたということらしい。

幼い当時の僕は、その意味がわからなくて、ただ、ふぅん、と曖昧な相槌を打っておいたのだが、母は「今は辛いけれど、いつか、お父様に会わせてあげるからね」と涙を浮かべてそう言った。


──別にいらないのに。


そう思ったけれど、母の悲しむ顔が見たくなくて、口にはしなかった。






 僕が7歳になった頃、長らく身体を壊していた母が死んだ。

この世を恨み、儚み、そして残して逝く幼い僕の将来を案じ、苦しんで逝った。

僕と同じ色をした瞳はもう二度と開かなかった。

夜毎この世に呪詛を吐くような女でも、僕にとってはただ一人の母だったので、そんな母が死んで、酷く悲しくて、それ以上に酷く恐ろしい気分になった。

近頃、世間はある奇病について戦々恐々としており、僕もそれが何か知らないままに怯えていたほどなので、世間は貧乏な母と子の家に起きた、ありがちな不幸などには構っていられなかったのである。


 母が死んで3日ほどして、僕の家に上品そうな赤い髪の紳士が現れた。

その紳士は、なんと僕の父親だったのである。

どこから母の死を聞きつけたのやら、はたまたずっと監視していたのか──真偽のほどは分からないのだが、とにかく父は母が死んでから母に会いに来た。

今なら、今更何をしに来たんだと父の訪問を唾棄していたはずである。

しかし、当時の僕は、心細さやら不安やらで押しつぶされそうになっていたので、初対面の父に縋ってわんわん泣いた。

父はそっと静かに僕の頭を撫ぜて、柔らかな毛布で僕を包み、僕を馬車に乗せた。



 父の屋敷には、僕より三つ年上の女の子と、二つ年上の男の子がいた。

どうも、僕の腹違いの姉と兄らしかった。

僕は、母が死んで悲しかったのだけども、大きな家と、上品な父と、利発そうな顔立ちをした姉と兄がまとめて手に入って、内心とてもどきどきしていた。

あの壊れそうなあばら家で、夜毎母に呪詛を聞かされ、寒さと餓えに震える日々が終わったのだ。

そんな期待に胸を膨らませる僕を、父は召使部屋へ連れて行った。

元のあばら家と負けず劣らずの汚い、狭い部屋だった。

え?と僕は父の顔を見上げると、父は微笑んで、この部屋を使いなさい、と有無を言わさぬ声色で言ったのだ。


父は言った。

私の子供は、ヴェラとスクトゥムだけだ。お前は路地裏で凍えて死にそうになっていたので、拾ってきたのだ。今日からは、お前は召使として働きなさい。そうすれば、衣食住は保障してやろう。


僕は耳を疑った。

そして、震える声で呟いた。

僕はあなたの子供ですよね──と。


父は逡巡の末、小さく頷いたあと、「しかし、望まれたわけではない」と絞り出すように言った。

あなたは、聖職者なんですよね……、と問うと、父は頷きもせず、「ヴェラとスクトゥムは聖職者にする。お前は…………聖職者にはなるんじゃあない」そう吐き捨てた。

聖職者って、何なんだ、と絶望した。



やはり、人生とはそう上手くいかないようである。

僕は、唯一の父に庶子としてすら認められず、日光の当たらない部屋を宛がわれ、人目を遠ざけられた。

好きで庶子で生まれたんじゃあない。

あんたが悪いんじゃないか。

僕は悪くない。

母も……悪くなかったんだ、きっと。




ある日、僕が庭の草むしりをしていると、明るい笑い声がすぐそばから聞こえた。



「あ……」



僕は思わず声を出してしまい、慌てて口を塞いだのだが、遅かったらしい。笑い声の主はこちらに気付き、駆け寄ってきた。



「あなた、だあれ?」



僕の、姉と兄だった。

姉は人懐っこい笑みを浮かべ、フードを深く被った僕の顔を覗き込もうとしたが、僕はさっと顔を背け、それを拒否した。


あなたたちはいいですよね。

同じ父の子でも、綺麗な服を着て、何不自由ない生活を送れるんですから。


そう思って、僕は姉の問いかけを無視して、足元の雑草に視線を落とした。

僕も雑草みたいだ、なんて思うと、悲しくて視界が滲んだ。



「もう行こうよ」



兄は不満げな声で姉に呼びかけたようだったが、姉はそれを無視し、しゃがみこんで、僕と一緒になって草むしりを始めたので、僕は大層驚いて、いけませんと力なく呟いた。



「どうして?」

「だって……手が、汚れるし……これは、僕の仕事だし……」



あなたたちと並んでいると、僕があまりに惨めで可哀想だから、頼むから向こうへ行ってくださいと願ったが、そんな願いとは裏腹に、姉は変わらずぶちぶちと好きに雑草をむしっていた。

兄は呆れてどこかに行ってしまったらしい。いつの間にかいなくなっていた。


「あなた、スクトゥムより年下よね」


姉が口を開いた。



「あ、スクトゥムっていうのはね、さっき隣にいた子で、私のひとつちがいの弟なの」

「……………………。」

「私はヴェラ。あなた、いくつなの?お名前は?」



楽しげに話しかけてくる姉を無視し、僕はただ草むしりに没頭していた。

返事をしなければ、諦めてどこかに行くだろうと思ったのだ。

だが、姉はどこにも行かず、時折ぶちぶちと雑草をむしったり、小さな花を摘んで、僕の傍に置いたりと、好きなことをして僕の返事を待っているようだった。



「…………アウリガ……、7歳…………」



根負けした僕がそれだけを呟くと、姉は破顔して、「アウリガっていうのね」と嬉しそうに言った。





 それ以来、姉はちょくちょく僕の傍をうろつくようになった。

何度か、女中や召使に窘められ、どこか別の場所へ連行されていたが、またすぐにひょっこり現れるようになったのだ。



「あのね、スクトゥムったらね、信仰のお勉強をしないといけないのにね、ぜんぜん真面目にお勉強しないの」



姉の話はそのように他愛もないことであったが、僕にとってそれはまるで想像もつかないようなめくるめく生活だった。

望めばいくらでも知識を与えられ、姉は10歳にして、もう剣術の稽古も始めたそうであった。

羨ましくて、妬ましくて気が狂いそうになったときもあった。

僕がしもやけた手に息を吐きかけながら床に雑巾をかけている頃、姉や兄は暖かい部屋で仲良くお勉強ときたもんだ。

母親が違うだけで、どうしてこうも運命が変わってしまったのか、幼い僕には皆目見当もつかなくて、ただひたすら自分の運命を嘆き、呪った。

いつしか僕は、いつかの母のように世を恨むようになっていた。

父や姉、兄と同じ赤い色の髪すらも嫌悪の対象になりつつあった。

母と同じ色の瞳が、どんどん陰鬱に曇っていくのが手に取るようにわかる。

僕は誰にも愛されず、誰にも必要とされていなかった。

母がいた頃は、母は母なりに僕を愛してくれていた。


そんな母ももういない。


僕は今になって初めて、母がいなくなった悲しみに涙を流した。






母が死に、この屋敷に来てから5年が経ったものの、僕は相も変わらず赤髪を隠すようにボロボロのフードを深く被り、どん底に程近い生活をしていた。

父は僕に「旦那様」と呼ぶように命じ、僕もそれを従っていた。

僕は相変わらず、父の子供として認められていなかったのだ。

姉も兄も、僕が自分たちの腹違いの弟だとは知らない。でももうどうでもよかった。

僕はもう、何に対しても期待をするのはやめた。

期待するから辛かったんだ。

期待しなければ失望することもない。

瑞々しい少女の頃の母のポートレートも、もう捨ててしまった。



今日も庭で姉が剣術の稽古をしていた。

直剣を懸命に振っている姉を見て、僕は何の感情も湧かなかった。

はいはい、頑張ってくださいね、と内心せせら笑うと、僕は花の手入れを始めた。

花の手入れは好きだ。少なくとも、冷たい廊下を磨くよりは。



「ねえ、アウリガ」



いつの間にか姉が傍に来ていた。

僕はそんな姉を一瞥したものの、すぐに目線を手元の薔薇の苗に戻す。

今日中に苗を50本、植えてしまわないといけないのだ。

それだけでなく、肥料もやっておかなくてはならない。姉に構っている暇はなかった。



「ねえアウリガったら。聞いているの?」



珍しく、姉の声は苛立っているような、焦っているような、とにかくいつもと違うあんばいだった。

でも僕は相変わらずそれを無視した。

ややあって聞こえてきたのは、姉のすすり泣く声だったので、さすがの僕もぎょっとして顔を上げた。

姉が、恵まれて何一つの不自由もなく育ってきたはずの姉が、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。



「…………父様が言うの。お前は女だから剣術なんてしても無駄だって。何も護れやしないって言うの……。そんなことないよね?女だからって、無駄なことなんてないよね?」



何だ、そんなことで泣いていたのか。と思った。

僕は母親が違うっていうだけで、あんたらとは似ても似つかない生活をしているんだ。

僕だって知識を得たい。剣術だって学びたい。

何でお前たちだけなんだ。



今まで抑え付けてきた怒りと悲しみが溢れだして止まらなくなった僕は、姉の頬を打った。

姉は今までめそめそと泣いていたのだが、僕に平手打ちをされて瞠目し、目を白黒させて僕を見た。

何が何だかわからないという表情で僕を不安げに見ている。



ああ、わからないだろうな。

じゃあ、わからせてあげる。



僕は今まで目深に被っていたフードを脱いで、驚いている姉に言った。



「僕は本当はあんたらの弟なんだよ。でも、母親が違うっていうだけで、父親も僕のことを自分の子供だって認めてくれないし、生活だって雲泥の差だし。僕だって勉強したい。剣術だってしたい。なんで、そんな恵まれてるのに泣くの?女だから何?身分の差に比べたら、性差なんてあってないようなものじゃないか……」



 一息にそう言うと、悲しくて悔しくて、自分の意思とは関係なくぼろぼろと涙が零れてきた。

今まで我慢していた感情が発露して、あまりのことに言葉を失っている姉に泣きながらまくし立てた。



「母さんだって死んだ。一人ぼっちになって、悲しくて怖くて仕方なかったときに、あの人が来て、お前は私の息子だって言ってもらえて、どれだけ嬉しくて安心したと思う?頭を撫でてくれた手が、どれだけ心強かったと思う?ふわふわの毛布で包んでもらって、優しく抱き締めてもらったのに、どれだけ救われたか。それなのに、今はどうだ?自分の父親を旦那様だって呼ぶ悲しさが、空しさが、辛さが、怒りがあんたにわかるの?」



姉からしてみれば、自分の父に妾と子がいたことを暴露されて、相当なショックであっただろうが、それでもいいやと思った。

お前も苦しめばいいんだと思った。

姉はまた泣き出した。

僕も泣きながら薔薇の苗を植えた。

視界がぼやけて手元が見えなくて、何度も棘で指を傷つけたが、その傷は全然痛くなかったのに、心だけがきりきりと痛かった。

僕が薔薇を植え終わった頃、姉は僕をそっと抱き締め、ごめんね、ごめんね、とまた泣いた。





その夜、僕は全く眠れなかった。色んな想いが頭の中を渦巻いており、肚の底から何かどす黒い感情が湧きだしそうになるのを感じていたのだった。

そんな折、控えめにこつこつと木扉が叩かれる音がした。

気のせいだと思い無視を決め込んだが、次はドアが開く音がしたので、僕は上半身を起こし、ドアの方を見る。

やはりというか何と言うか、訪問者は姉だった。



「アウリガ、ちょっと来て」



姉は渋る僕を無理矢理部屋から引きずり出すと、女とは思えない程の力強さで僕の手を引く。

姉が持つ蝋燭の明かりがチラチラとして、僕は何だかぼんやりとしてきた。

姉はある部屋の前で立ち止まると、ここに入って、と促した。

その部屋は浴室だった。



「あの……?」

「いいから、お風呂、入っておいで」



浴室の外から姉の声がする。

僕は訝しがりながらも、召使用の浴室とはまるで違う浴室に入ることにした。

浴槽も広い。石鹸なんかも、とても上質な香りがした。

僕はその上等の石鹸で体を洗い、広い浴槽に少しだけ浸かる。

お湯はほのかにハーブの香りがして、酷くざわついていた心がほんの少しだけ落ち着いた。



風呂から出ると、僕が今まで着ていた服がなくなっていて、新しい、綿の服が置いてあった。

これを着ろということなのだろうか。

それを来て浴室の外に出ると、廊下の壁にもたれかかって、姉がこっくりこっくりと船を漕いでいた。

そんな姉の肩にそっと触れて、少しだけ揺すると、すぐに目を覚ました姉はにっこりとほほ笑んだ。



「じゃあ、私の部屋で寝よう」



****



「あの、やっぱり、戻ります」


姉の部屋の壁際で所在なさげに立つ僕に、姉は何で?と問う。

何でも糞も、何を言っているんだこの人は、と思った。



「何でって……」

「いいじゃない、姉弟なんでしょう?別に、遠慮することないじゃない」



姉はそう言うと、僕の普段の寝床の倍はある、大きなベッドに腰を掛けた。

姉の重みでベッドが沈み、それがとても柔らかなのだと知る。

僕の普段の寝床は固くて、冷たくて、毎日体が痛くなるのに。



「でも、怒られる……」

「大丈夫、私はアウリガの味方だからね」



姉さんがそう言って、暖かなベッドに招いてくれて、僕を抱き締め、頭を撫でながら寝かしつけてくれたので、僕は子供のように声をあげて泣きながら姉さんに縋りついて、安らかに眠った。

肚の底で湧き上がりつつあったどす黒い何かが、消えていく気がした。





それから、姉さんは何かと僕によくしてくれた。

夜はいつも部屋に連れて行ってくれて、暖かなベッドに眠らせてくれた。

姉さんが使っていた教材も貸してくれたし、こっそり剣も振らせてくれた。

僕はいつの間にか姉さんが大好きになっていた。

優しくて、明るい姉さん。

姉さんの笑顔が大好きだった。



ところが、そんな姉さんが突然、いなくなった。

聞けば、寄宿学校に入ることになったそうだ。

僕はとても狼狽した。

姉さんは、そんなこと、一言も言っていなかった。

寄宿学校に行くだなんて、聞いていない。

だって、昨日だって、「また明日ね」と微笑んで、僕の髪を撫でてくれた。

寄宿学校に行くなら、また明日ね、なんて言うはずがない。

僕はあまりのことにパニックになって、誰彼構わず姉さんのことを尋ねた。

皆が皆口を揃えて「お嬢様の御意志です」と言ったが、そんなはずは……、いやでも。

もしかしたら。

本当は、姉さんも、僕のことが疎ましかったのかもしれない。

姉さんは、僕のことが嫌いだったのかもしれない。

姉さんからしたら、僕はあくまで妾の子なんだ。

一時とはいえ姉さんの父親の心を奪った女の子供なんだ。いい気はしないだろう。というか、嫌に決まっている。でも、姉さんは、本当に僕に優しくしてくれた……。

演技で、あんなことが出来るだろうか?

もし、もし、僕に優しくしたせいで、姉さんが寄宿学校に送られたのだとしたら。

僕は姉さんの優しさに甘えすぎたんだ。

期待はしないはずだった。

何もかも諦めたはずだったのに、変な気を起こしてしまったから、神様が怒って、僕から姉さんを取り上げたんだ。



「お前のせいで、姉ちゃんがいなくなったんだ」



あまりのことに、前後不覚にすら陥っていた僕の背中に、突如そんな言葉が投げつけられた。

その言葉を理解するのにやや時間を要し、やっと理解し振り向いた僕が見たのは、目を吊り上げて憤っている兄の姿だった。



「………………。」

「お前がおれたちの弟だなんて嘘ついて、姉ちゃんに近づくから。姉ちゃんは家を出なくちゃいけなかったんだ」

「……嘘じゃない」

「なんで嘘じゃないってわかるんだ」

「嘘じゃない!姉さんは僕に優しくしてくれた!僕の味方だって言った!」

「姉ちゃんは誰にだって優しいんだ!お前だけにじゃない」

「嘘じゃ……嘘じゃない…………嘘じゃない!嘘じゃない!」



僕は狂ったようにそう叫んだ。

そうでもしないと、姉さんの優しいぬくもりすら否定される気がしたのだ。

でも、僕が躍起になればなるほど、まだ幼なさの残る兄も躍起になって、それを否定した。


姉さんは優しい。でもそれはお前にだけじゃない。姉さんの優しさにつけ込むな。


兄はそう繰り返した。


ついに、僕は兄の言葉に()()()、僕は兄に殴り掛かった。

兄は僕より二つ年上だったけれど、背の丈は同じくらいだった。僕の方が細かったけれど。

咄嗟のことに兄は反応出来なかったのか、僕の怒りに身を任せた体当たりが直撃してしまい、二人して廊下にくしゃりと倒れこんだ。

それにより、兄もまた、僕と同じようにキレてしまったのか、驚くほどの勢いで僕の髪の毛を掴み、引きずり倒そうとしてくる。

マウントを取っていた僕はそんな兄の手を払いのけ、渾身の力を振り絞り、兄の顔に拳を振り下ろそうと腕を思い切り振り上げた。

しかし、それは振り下ろされることはなく、僕の腕は何者かによってがっしり掴まれていた。

恐る恐るそちらを振り向くと、般若のような形相をした父が立っていた。

父は僕の右腕を凄まじい力で掴んだまま、思い切り僕の左頬をはり倒した。そのとき、僕の奥歯が1本折れてしまった程だ。


 姉さんがいなくなったことへのショックと、父の冷酷なあの緑の瞳。

そして焼けるように痛む左頬。その上苦い鉄の味が口の中に瞬く間に広がって、僕は堰を切ったように泣き出してしまった。


僕が悪いんじゃない。

母さんが悪いんじゃない。

姉さんが悪いんじゃない。

兄もきっと悪いわけじゃない。

全部、この冷酷な緑の目をした男が悪いんだ。



「出ていけ!」



男はそう怒鳴ると、僕の右腕をぐいと引っ張って兄の上から僕を退かせた。



「金と、必要最低限のものはやる。出ていけ」

「父さん、それはさすがに……」

「スクトゥム。お前は部屋に戻っていなさい。追って沙汰する」



一応、兄は僕を庇おうとしてくれたようだった。

でも、父の唸るような声に、そんな気持ちは挫かれてしまったらしい。

僕の体当たりでの痛みに顔を歪めながら、小さくなって自分の部屋に戻って行った。






 こうして、僕は何もかも失ってしまった。

僕は金と、少しの食糧と衣服を与えられて、家を追い出された。

そして、何より不快だったのが、あの男が、母のポートレートを渡してきたことだった。

元々ポートレートは二枚あって、一枚をあの男が、もう一枚を母が持っていたようだ。

あの、美しい少女のときの母が僕を嘲笑っているようで、僕は道すがらそれを捨てた。


 もう、生きている意味がわからなくて、辛くて、何度も死のうと思った。

でも、いざ死のうとすると、今際の母の顔が脳裏にちらつき、恐ろしくてその度に吐いた。

僕は意気地なしだ。

頭も悪いし、剣で身を守ることすら出来ない。

無力なんだ。

そんな僕は自暴自棄になり、どんどん泥沼にはまって行った。

時には強盗まがいのことをして、他人から食糧や金品を奪った。

自分が汚い人間になっていくのと同じくして、僕は他人の汚いところもたくさん見てきた。

益々人が嫌いになり、僕の犯罪行為も激しくなってゆく。


どうせ、お前らも、汚いんだろ。

そう思っていた。




 14歳になった頃、僕はある金持ちの奥様に拾われ、召使いとして雇ってもらった……というのは建前で、まあ、よくある話だが、僕は奥様の性奴のような存在になったのだった。

奥様はなかなかの変態だった、若くて美人だったけれど。

奥様はいつも、僕を酷くなじりながら行為に及んだ。

そして、行為が終われば決まって、ごめんね、私の可愛いアウリガ、愛しているわ、と優しく囁いた。

という訳で、僕の人格は14歳にして大いに歪んでしまったのである。

でもまあ、その奥様は昼も夜も教育は熱心だったので、僕が勉強をしたいと言えば家庭教師を雇ってくれたし、剣術を習いたいといえば有名な先生を就けてくれた。

どうしてそこまでしてくださるんですか、と問うと、奥様は決まって、アウリガ、あなたが美しいからよ、と笑った。


そういうことも相まって、僕の性格は益々歪んでいった。

僕がにっこりと微笑めば、みんながちやほやしてくれた。

肚の底では、どうせお前たちは僕の上っ面しか見てないんだろ、と唾棄した。



奥様に拾われて2年近く経ったとき、僕の身体に突如不思議な症状が現れた。


最初は、何だこれ、としか思わなかった。

何しろ、最初は小さな違和感だったのだ。

だが、小さな差異はやがて大きな違和になり、僕は、どうも人間じゃあなくなってしまったようだった。

僕という人間は緩やかに死んでゆき、どうやら化け物のような存在になってしまったようだった。


まず、怪我をしても、すぐに治る。

あまり痛くない。

それに、髪の毛や爪もあんまり伸びなくなった。


他にも大小様々な変化が僕に訪れたが、僕はさして気にしなかった。だって、どうせ僕はどうでもいい存在なんだから。

奥様だって、僕の顔が好きなだけだ。

素直にハイと奥様の言うことを聞く、素直なふりをした僕が好きなだけだ。

本当の僕を曝け出したら、きっと、僕は嫌われる。

まあ、そんなわけで、奇病にかかった者たちが送られる収容所へ僕は自ら望んで行くことにした。

奥様は、とても寂しくなるわ、私の可愛いアウリガ、と泣いたが、この女はきっとすぐに新しいおもちゃを拾うんだろうな、と、僕は酷く冷めた目でそれを見た。





***



「………………アウリガ、聞いてる?」

「え、あ、うん……ごめん、聞いてなかったよ」



長いこと物思いに耽っていた僕は、姉さんの声により現実に引き戻された。

姉さんは、もう、と腰に手を遣って怒ったような仕草をしたけれど、すぐにまたにっこりと笑った。



「でも、本当によかったわ。アウリガにもう一度会えて」

「うん」



僕は、収容所へ向かう旅路で姉さん(と、兄さん)に奇跡的に再会した。

どうやら二人も奇病が発現し、収容所へ向かうつもりだったようだった。


姉さんは僕を見るなり、わんわん泣いて、またあの時のようにごめんねごめんねと何度も僕に謝った。

兄は何も言わなかったけど。いつの間にか、僕は姉さんよりも背が高くなっていた。

ただただ万斛の涙を流す姉さんの頭をそっと撫ぜると、姉さんは一瞬、はっと顔をあげ、そして僕を強く抱き締めた。

変わらずに温かい。

僕の心もじんわりと溶けていくようだった。



──収容所で、僕たちは一般には知らされていない真実を聞かされた。

僕たちが罹患した奇病は、本来であればすぐに死に至る病であること。

しかし、稀にその病に耐性を持つ者がいること。

ただし耐性を持った者がこの奇病に侵されると、さまざまな面で人外の能力を手に入れることとなり、人の理から外れてしまうこと。

この収容所はあくまで世間一般から罹患者を守るための隠れ蓑であり、病に耐性を持つ者はヴァシュニルという国で保護され、自由に暮らすことが出来るということ。


僕は生まれて初めて、自由を手に入れることが出来たのだ。


昔の僕は、自分は酷く不幸で、この不幸に終わりはないと信じ切っていた。

でも、今はそうは思わない。

昔の僕がいたから、今の僕が存在するのだ。

今までが酷すぎたんだから、これ以上酷くなるはずのない人生、これからは自由にやるさ。


あの頃と変わらず微笑む姉の顔を見て、僕もつられてにっこりと笑った。

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