(九十六)
(九十六)
シャープペンシルで書く字は、お行儀がいい。
いつものちびた鉛筆で書いてたときより、ちょっと字が上手になった気がする。
書く度に、芯がくるくる回って書き心地が変わらない、みんなに大人気のシャーペンだ。とうとう私もこれを使えるようになった。
真っ白で角の四角い消しゴムも目盛りがくっきり見える定規も、全部お母さんが買ってくれた。
「いままで不自由させてごめんね」って、オシャレな服も、穴の空いてない下着も、この学習机も、私だけの部屋も、新しい家になったこのマンションも、全部が全部、まるでおとぎ話の世界のようだ。
でも、私にとって、あの頃はぜんぜん「ごめんね」じゃなかった。
お母さんは私たちの誇りでヒーローで自慢だった。
だからどんな境遇にあっても、それを不幸だなんて思ったことはない。
あ、ちょっとカッコつけすぎかな、少しだけ思ってたかもしれない。お腹いっぱいご飯が食べたいとたから、使わなくなった文房具も全部引き出しの中にしまってある。それは絶対に捨てちゃいけない、私の大切な宝物だから。
たぶん、私はいま、とても幸せなんだろう。
学校でいじめられることもなくなった。
お母さんの昔のことをとやかく言う人はいたけど、全部、野木先生が守ってくれた。インターネットの悪い書き込みも、誰かが投稿した人を見つけてしまって、社会的制裁っていうのを与えてるらしい。だったらその誰かっていうのはスタッフの白井さんだろう。あの人はけっこうパソコンに詳しいらしくて、白井さんに掛かったら、匿名掲示板が匿名じゃなくなるっていう噂だ。
国会議員の何人かがひどい差別の書き込みをしてたってバレて、辞めたり逮捕されたりしてた。
いま、野木先生に陰で逆らう人はいない。正面から意見を言うしかなくなってるんだ。
「まみこ!?」
ハッとして振り返ったけど、後ろにまみこはいなかった。
「まただ……」
誰かが後ろにいるような気がして、振り向いても誰もいない。
いつも誰かが……、ううん、私じゃない私がすぐ後ろにいて、私をじっと見ているような気がする。
それに、私は頭の中で最近あった出来事をその子に説明するみたいに思い返してる。
「きっとストレスだね……」
あんなにべったりだったまみこも自分の部屋ができて、ひとりで何をしてるのか、こもるようになってしまった。
分かる。お姉ちゃんがうっとうしいんだ。
私が、まみこが亮平くんと遊ぶのを禁じたから。あれは子どもの遊びじゃない。あんなのは…………。
私はペンを置いて右手を見た。
きれいに洗った。なにも汚れてはいない。臭いも……。
右の手のひらを恐る恐る鼻の前にあげると、きついハンドソープの匂いばかりのはずなのに、胃の奥から激しい吐き気が込み上げて、右手を机に叩き付けた。じんじんとした痛みが吐き気を消してくれる。口の中に湧いた酸っぱいものを唾と一緒に飲み込んだ。
きょうは二学期の終業式の日で、放課後はコドモのイエでクリスマス会の準備があった。
コドモのイエの代表だったあの子が死んでから、私も会のいろんなお手伝いをするようになった。
けれども、私があの子と同じようにやるには〝力〟が必要だって分かってた。その〝力〟も、どうやれば得られるかも知ってたんだ。
私はさんざんそれをあの子にやらせていたんだ。
でも、その行為はあの子やまみことお風呂とかでふざけてたのと違う。自分でそこに触れることも、いやらしいことのように感じてしまって、どうしても続けられなかった。あれはふざけや遊びですることじゃないんだ。……じゃなかったんだ。
きょう、私は〝力〟を得ようと、それを試してみた、頑張ってみたんだよ。
きらるが使っていた、あの〝乙女の部屋〟に相談したいことがあるってあの人を呼んで、野木先生の家に隠してあった『エリクサー』とかいう得体の知れない液体をスプレーして。
恐ろしかった、怪物みたいな力で優しく、甘い言葉で心をえぐってくる。
必死になって、抵抗して、どうやって逃げたのか自分でも分からない。
気が付いたらトイレの中で、裸で震えてて、右手にべったりとあの人の粘ついた体液が付いていて、恐怖に便器の中に手を突っ込んで水を流しながら必死になって洗い流した。
それで、コドモのイエの着替えを着て、家に逃げ帰ってきた。
あの、彼の出した体液の臭いがいまも鼻に付いて離れない。右手に染み付いてる気がする。
「無理、絶対に無理!」
きらるは特別な子だったんだ。小学生じゃない。あの子の頭の中には地獄の穴が空いてて、人間の精気を吸い取ってる魔物だ! ネットで調べて知った。あの子はサキュバスっていう悪魔なんだって!
「あの部屋を誰かに見つかったらどうしよう……」
私が脱いだ服。
あの人の残した汚れ。
怖い、考えるのも怖い。
もう忘れよう。
きっと彼が全部始末してくれる。
明日になったらいつものように何事もなかったみたいになっているはずだ。
――――哀れだね…………。
驚いて後ろを振り向いた。
……誰もいない。
「誰、誰かいるのっ!」
「あ、お姉ちゃん、私」
ドアの外でまみこの声がした。
「あぁ、まみこ……」
そこに人がいたことに私はほっとした。
「お姉ちゃん、お風呂沸いたよ、一緒に入る?」
珍しいな。最近まみこは私とお風呂に入らなくなった。亮平くんとの遊びの一件からだ。私は寂しいけど仕方ないと諦めていた
「うん、すぐ行く!」
私は冬休みの宿題をぱたんと閉じて立ち上がった。
新しい家のお風呂は広い。
ボタンを押せば湯船にお湯が満ちて、蛇口からは無限にお湯が出る。
もったいないからシャワーはあんまり使わないけど、まみこはお構いなしのようだ。
お風呂場を洗うみたいに勢いよくシャワーを出しっぱなしでまみこが髪も身体もいっぺんに洗う。
お風呂は豪華になったけど、ボディーソープもシャンプーもコンディショナーも、全部ドラッグストアの特売品で、そこのところは変わりない。
まみこの打たせ湯みたいなお湯の使い方に、もったいないって言いそうになるけど、きょうは我慢した。
こんな日があっても、きっといい。
「ちょりゃあっ!」
まみこが掛け声で湯船に飛び込む。
「こら、お尻、お尻」
あんなにシャワーを出してるのに、まみこのお尻が泡だらけだ。
そのままどぶんと一気に鼻の頭までお湯に沈んでしまった。おヘソから太腿までの間の肝心なあの部分が間違いなくきちんと洗えてない。
女の子ならそこは必ず洗って欲しい場所だ。
「使ってないから大丈夫」
どういう理屈だ。〝大〟はしてなくても〝小〟には行くだろう。
「ちゃんと洗わないとダメだよ」
自分のを流しながらまみこに注意して、それからまみこの向かいに体を沈めた。
「お姉ちゃんはしっかり洗わないとね」
「そりゃあ、したけどね」
一日一回、必ずあるのは健康な証拠だと思う。
「やっぱりね。お姉ちゃん帰ってきたとき、すっごい臭ってたもん」
まみこがたしなめるように注意する。
「えっ、うそっ!?」
でも、私がトイレに行ったのは朝学校に出る前のことだ。
「けど、お姉ちゃんだけずるいよ、私は亮平くんとぜんぜんしてないのに」
まみこが頬っぺたを膨らませた。
「ちょっと、臭ってるってなにが?」
まさか、まみこが、そんなはずは……、ない。
「知らないよ、なんの臭いかなんて。だって亮平くんまだなんだもん」
「えっ」
まみこ、なにを言ってるの? まだってなにが?
「そうだ!」
いきなりまみこが手を打って大声を上げた。
「ねえ、バスボム入れていい、バスボム、もらったの!」
「えっ、あぁ、いいけど」
まみこの勢いにびっくりした。まあ、バスボムなら楽しそうだ。
「これこれ」
まみこが手のひらに白い玉を乗せている。
そんなもの、いつの間に持ってたんだろう。白い、真っ白い、キレイなのになぜだか不安になる色だ。
私はザワザワする気持ちで、それに見入ってしまった。
「ねえ、私たちがこんな暮らしができるのって、きのこのおかげだよね」
「うん、まあ……、そうだね」
お母さんの仕事も、私たちが貧乏じゃなくなったのも、きるこのおかげには違いない。
「お姉ちゃん、恩返ししなきゃね」
「恩返し?」
問い返すと、まみこが私をじっと見つめた。
その視線は、私がいつも後ろから見られてるのと同じ感じのものだった。まるでまみこの中から私がこちらを見つめているような感じがする。
まみこが手のひらを返してバスボムをお湯に沈めた。
重たいバスボムは小さな泡を出しながら、しゅっと沈んで湯船の底にぶつかってぱかんと割れた。
その瞬間、それは一気に崩れ激しく泡立って、お湯を真っ白に波立たせた。
発泡するガスのむせかえるような臭気に私はこらえきれず、洗い場に顔を突き出して胃の奥から突き上げるものをありったけ吐き出した。
これは、私の右手を汚したあの臭いだ。
「まみ……、こ、これ、ど、したの……」
「もらったんだよ、昨夜きのこに。夢の中でさ」
「きらるに!?」
「入浴剤、気持ちいいでしょ?」
白いぬるぬるとした感触、異様な臭気が泡立ち湯がうねる。
「高森のお兄ちゃんがきのこの中に出した全部なんだって、一兆匹だって! すごいよね」
浴槽から飛び出ようとして、足に力が入らなかった。いや、力を入れるべき足がない。
白濁した粘液の中で、私の足そのものの感覚が見当たらない。
慌てて浴槽の縁を掴もうとして、肘から手が水面に出てこなかった。私の手が消えている。
「お姉ちゃん、ダメだよ、じっとしてなきゃ。いまきのこがお姉ちゃんの身体と入れ替わってるところなんだから」
「なによ、それ」私はもう液面に顔だけが突き出ている格好だ。体の感覚はすでになにもかもなくなっている。
「きのこの力がいっぱい入った、セーシで、あみこを作り替えるんだって、そうしたらきのこはまた出て来れるんだよ。生き返るんだって!」
「バカな真似はやめて!」
「バカじゃない。きのこに恩返ししなきゃいけないんだよ。あみこは〝きのこ遊び〟も反対だったし、亮平くんとも遊べないから、長女はきのこの方がずっといいんだ」
あごまで沈みそうになって、仰向けになって液面から顔を出した。私が溶けている。溶けて違う私になっていく。
「だからね、私にも亮平くんときのこ遊びさせてくれてたらよかったんだよ」まみこが冷たく言い放つ。
「ダメ! まみこにはまだ早いって!」
「もう、沈んじゃえば?」
まみこが手で水を掻いて私の顔に掛け始めた。
「私がいなくなってもダメなものはダメだよ! しっかり自分で考えなきゃ! ねえ、まみこ! 私たちずっとしあわせだったじゃん、お母さんと三人で仲良しだったじゃん、忘れないで、どんなときでも、お母さんが教えてくれたこと、絶対忘れないで!」
ぬるりとした苦い液体が喉に流れ込んできた。でも、むせようにも、もう肺もなかった。
「ばーか、死んじゃえ……」
まみこの声が聞こえなくなって、それで、目の前が白い液体で覆われて、私は真っ白になった。それなのにあの臭いだけがいつまでもいつまでも意識の中にこびりついて離れなかった。
私の意識が消えてなくなる――――。
「でも、すごいよねこの泡!」
目を開けると、まみこが夢中になってお湯をかき回していた。
「バラの香りなんだってさ」
水面をばしゃばしゃ叩きながら、まみこがいっぱいに息を吸い込んでいる。
「あ、あぁ……、いい匂いだね……」
ミルク色のお湯に華やかなバラの香りがする。
「お風呂がセレブだよ、ゴージャスゴージャス!」
まみこが満面の笑みを浮かべている。
「さすが、ショコラちゃんのおみやげはすごいよね!」
そうだ、長いことこの子と一緒にお風呂に入っていなかったんだった。
「ねえ、まみこ、これからはこうやって一緒にお風呂、入ろうよ」
「お姉ちゃん!」
まみこが私に飛びついてきた。
なんだ、なにがあったんだろう。いま、ここでなにかあったような気がするんだけど。
――――ちえっ、もういいよ。
私は前の人から意識を離した。




