(九十四)
(九十四)
頑張れば思いは必ず叶う。
きょうだけはそうあって欲しいと願うしかない。
あれほどあれを死にものぐるいで頑張ったのは初めての日以来のことだ。
わずか十歳の小学生の乙女が筋肉痛になるほど限界まで力を出し尽くしたんだ。運動会のリレーでもなかなかそこまではやらない。
きっと上手くいく。
昨夜は、あみこにも気付かれなかった。
あの子が部屋に戻ってきたとき、「まだやってるの!?」って呆れられたけど、ぼけたふりして「ちもきいい」でごまかした。
おかげで計画通り〝お土産〟も持ち帰ることができた。
それで、私はこの独房の中で、四時を待つことにした。
時間は待てば待つほど、遅々として進まない。
検温→・→朝ご飯→・→回診→・→お昼ご飯。
きょうが最後の日だ。明日からはまたお薬が処方されて、ぼやけた生活が始まることになる。
いまはとても頭が澄んでいるというのに。でも、することがないと、手がおまたに伸びるのは仕方ない。
実際には、検温→おまた→朝ご飯→おまた→回診→おまた→お昼ご飯→おまたおまたおまた、なのだ。
分かる。私は無意識のうちに失った〝力〟を取り戻そうとしているんだ。けれども、さわさわと筆先で触れられるようなじれったい刺激を延々と感じるだけで〝力〟はぜんぶあみこに行ってしまう。だから私は余計に必死になっていじり続けることになってしまうのだ。
でも、それもきょうでおしまいにしよう。
お昼過ぎに、おまたに区切りをつけて、ちゃんと手も洗ってインターホンでスタッフさんを呼んで、電話を掛けさせてもらった。
二十円あれば、ここの公衆電話から家の電話になら二分ぐらい話ができる。
私は深呼吸して、緑色の重たい受話器を持ち上げた。
呼出音のあと、かちゃんとお金が落ちる音が響いた。
『はい、秋本です』
お母さんの声だ。電話だとちょっとすました声になってる。
「あ、お母さん、私」
『…………』
電話の向こうで黙ったまま息遣いだけがかすかに聞こえる。やっぱり、目の前にいないと私のことは忘れてしまったんだろうか。
『ひょっとして、きらりなの?』
「えっ、お母さん……」きらりって……。
『そうなの? きらり、きらりなのね! ねえ、いまどこにいるの、ねえ、どうしてるの、元気なの、ちゃんとご飯食べてる?』
お母さんが矢継ぎ早に話し掛けてくる。お母さんの中にきらりの思い出の欠片が残っているんだろうか。
「お母さん、私、きらる、きらるだよ」この世界にきらりはいない、はず、なんだ。
『……きら、る…………』
ぽつんと言って、お母さんは何も言わなくなった。
「あのね、お母さん、いろいろ心配ばかり掛けてごめんね。こんなことになっちゃって。ほんとに、いままで、ありがとう」
『…………』
やっぱり、お母さんは私を分かってくれない。もう、あんまり残り時間はなさそうだ。
「あの……、それからね、お父さんに、かなづちで叩いてごめんねって言っといて。じゃあ、ね」受話器を耳から離してフックに戻そうとした。
『あっ、きらる、お見舞いに行くから。おかあさ……』
慌てて受話器を耳に押し当てたけど、もう、通話は切れていた。
スタッフさんに声を掛けて、私は急いで部屋に戻った。
そして、ベッドに潜って大声で泣いた。
知ってる限りの謝罪と贖罪と浄化の言葉を並べて、お母さんとお父さんのために涙を流した。
まだ四時まで二時間もあって、泣き尽くすには十分な時間があった。
四時、私はいつもの白服で正装してベッドに腰かけて時間を待った。
彼は約束通り、文香の見舞いに訪れるだろうか。
まみこは上手くやってるんだろうか。
亮平くんは元気だろうか。
果たして昨夜の〝お土産〟は効果を発揮してくれるんだろうか。
私はそっとおまたに触れた。
そこをなぞると湧き出す〝力〟がふわりと滲んで、そして砂漠に水を撒くように跡形もなく吸い取られていく。
湧いては消える〝光の粒子〟の動きを慎重に追い掛けた。
「あ」
減らなくなった。おまたをいじって湧き出す〝力〟が吸い取られなくなった。
白井文香の病室で、まみこがやってくれたのか。
状況は分からないけど、あみこが事態の収拾に意識を奪われてるに違いない。
いまなら私の〝力〟でここから鍵を破って脱出することができる。
私は急いでポーチの中に隠した、きのうの〝お土産〟を取り出した。
それは、昨夜のうちに余った〝力〟で光を纏わせていたおかげで、いまも淡く発光して見える。
これなら中身もきっと元気なままのはずだ。
このまま、おまたをいじり続けても〝幸福ホルモンのパワー〟を蓄えることはできる。けれど、あみこのトラブル対応がどれほど続くか分からないいま、何分もおまたに構っていられない。
ここは一発で劇的にパワーを得る必要があるんだ。
私は〝お土産〟を摘み上げた。
私と彼は昨夜あみこがいないあいだに、これを使った。
彼がいつもカバンの中にひとつ忍ばせていた、ゴム製品。カバンがリュックからスクールバッグに変わっても、持っていてくれたアレだ。
私の極限まで高めた〝光粒子エネルギー〟を彼の意識に流し込んで、それを彼が自の〝命の細胞〟とともに、私に打ち込んだものが、たっぷりと入っている。
この中の細胞たちには私と彼との〝力〟一発分が蓄えられているのだ。
細胞が力尽きることのないように、〝力のベール〟を纏わせ、私の中に隠して持ち帰ったのだ。
具体的な名称で言うと、乙女らしくないので、そういう感じなのだ。
あとは、私がこれを飲み込んで〝力〟を取り込めばいい。
私はその薄いゴム製品を口に含んだ。
ゴム臭い、というか、青臭い、生臭いうえにヌメっとしてる。これは絶対に乙女が口にしてはいけないものだ。ストロベリーの香り付きっていうのも、なんとも微妙で中途半端で趣味が悪い。
いつも直接口で受け止めるときはそれほど感じないのに、後から口にするのがこれほど恐ろしいものは他にはない。
けど、勇気をだして、不気味なぶよぶよする薄膜に歯を立てた。
プチッという感触とともに、口の中に弾けた液体は、昔お母さんに飲ませれた漢方の煎じ薬よりもはるかに臭く鼻に抜け、苦く喉に粘り付くようにぬるりとつっかえて……、うえっ、もういい!
胃に納まった彼の体液から凄まじい光が弾け出し、全身を穿いた。私の身体が輝いているのが分かるほどだ。
あみこに奪われて久しく感じていなかった、あの天空に、頂上に、昇り詰めるような、全てを支配する圧倒的な快感、多幸感、絶頂感。
私の、――――世界!
身体が震え、脚がガクガクとなって膝に力が入らない。
でも、この幸せな余韻に浸ってる暇はない。
足下の水溜まりに立って、口の中に残ったゴムの残骸をその場に吐き出した。
「ズボン、脱いどけばよかったな……」
張り付く着衣の気持ち悪さに、思い切ってずぶ濡れのズボンとぬるぬるの下着を脱ぎ捨てた。私は白のワンピースさえ着てればいい。
「くっそ、小学生の乙女になんてことさせてんだ!」
でも、それ相応の〝力〟は手に入れた。
髪の毛が金色に逆立ってるんじゃないかって思うほどだ。
それで、部屋の隅に置いてある靴に足を突っ込んだ。靴下を履いてなかったのは正解だった。
「特別室、解錠!」
ガチャンと機械錠の回る音が部屋に響いた。
ドアを開けて廊下に飛び出ると、特に変わりはない。
事件が隣の病院のことだからか。廊下を抜けて病棟の扉に走るときナースセンターの中を覗くと、スタッフが電話の対応などで慌ててる様子が伺えた。
こちらの動きにも気付いていないようだ。あと、数分は大丈夫、であって欲しい。
閉鎖病棟の扉を解錠して、開放病棟との連絡通路に出た。
機械錠の解錠も、防災センターに連絡が必要な電子錠も、IDカードの認証式ロックも、難なく通り抜けられた。
「よし、いける!」
この先に屋上に通じる職員専用の階段があるはずだ。
「きらる」
突然の懐かしい声に振り向いた。
「お母さん!?」隣にお父さんもいる。
なんで? いや、あの電話からすぐに家を出てきたんだ。二時間もあれば来られる。お父さんは……、そう、今日は日曜日だった。
「おい、ケーキ、買ってきたぞ」
お父さんが白い箱を顔の前に掲げる。
あれは、私の好きなパティスリーの箱だ。高くてなかなか買ってもらえないお店。ガトーショコラの美味しいお店だ。
手を伸ばせば、駆け寄れば手にすることのできる喜びがすぐ目の前にあった。
「ありがとう! 大好きだよ!」
私はお母さんとお父さんに大声で叫んだ。
そして、背を向けて走った。
遥遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。
それでも私は長い階段を駆け上がって、屋上を目指す。
大好きだ、お母さんもお父さんも。ガトーショコラよりも好きだ。
階段を上り詰めた先に、最後の頑丈な鉄の扉があった。
「屋上扉、解錠!」
扉の向こう、屋上は天空に青空が広がって、光に溢れていた。
建ち並んだ空調設備の間を抜けて、屋上の端を取り囲む高さ二メートルほどのフェンスにしがみついてよじ登る。
「あっ」
急に握力が弱くなって、膝にも力が入らなくなった。
あみこの状況が落ち着いてきたのかもしれない。〝力〟を奪われる。
なんとかフェンスをまたいで、向こう側に降りようとしたとき、バランスを崩した。
そのまま肩から落ちて、フェンスを越えた屋上の縁の転落防止のコンクリート枠で思い切り体を打った。
「あたた……」
肘を擦りむいて血が滲んでいる。そういえば、怪我なんて久しぶりのことだ。
立ち上がろうとして、足首に痛みが走った。
どうやら着地のときに痛めたらしい。
顎に伝う汗を手の甲で拭って、ぬるりとした感触に、あっ、と目をやった。
「血、か……」
落ちた拍子で顔をぶつけたようだ。左の瞼の上に突っ張るような違和感を感じるけど、現実を見たくないので触らずにいた。
それほど痛みを感じないのに、だらだらと屋上のコンクリートに血の滴を垂らしている。
頬を伝う熱い滴は勢いを増していく。
「ぼろぼろ、身も心も、こんな子、乙女じゃない」
でも、まだあみこは気付いてないはずだ。気付いてたら、私はきっとあの独房のような病室に強制送還させられてるだろうから。
私は屋上の縁に立った。
風が気持ちいい。
青空に、太陽が輝いている。
赤城も榛名も、遠くには谷川岳も見渡すことができた。
さあ、行こう。この光溢れる世界へ。
あみこが気付く前に。『世界さん』が気付く前に……。
「きらりきらきらおほしさまー!」
ふっ、やまびこでも聞こえたらいい思い出になったのにな……。
私は両手を広げて世界に飛び出した。




