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(九十二)

   (九十二)


「ほら、きらる。降りるよ」

 お母さんが私の手を引っ張る。

「ちが、ちがっ」

 私は必死になって違うって抵抗した。

「ほら、早くしないと、他のお客さんに迷惑でしょ」

 私とお母さんが引っ張り合いをしてるあいだ、バスは止まって待っててくれてる。

 最後は泣いて降りちゃダメだって言ったのに、結局バスから引きずり下ろされてしまった。

 お母さんは来たことがないから知らないんだ。

 病院に来るときにいつも降りるのは〝貴志山下〟ていうバス停なのに、お母さんは一つ手前の〝貴志中町〟で降りてしまった。ここは乗るときのバス停なのに。

 私があんまり泣くもんだから、バス停のすぐそばにあった広場のベンチで泣き止むまで座らされてしまった。

 このベンチは前に土砂降りの雨の中で座ったことがある。あのときは、お友達と一緒だった記憶がある。確か、親切なおじいさんがずぶ濡れになってた私たちを車で送ってくれたんだ。



 開聖病院の奥には同じ病院だけど別の名前のきしやま病院っていう精神科だけの病院があって、そこに入院することになってる。別なのに総合受付は同じで、中を突っ切って裏から出たところに中庭があってその向こう側にきしやま病院の入口がある。

 ほんとうは受付の田町さんとお話ししたかったのに、お母さんはあんまり知ってる人とお話ししない方がいいって、私を引っ張ってどんどん行ってしまった。



 病院では最初に診察があって、それから入院の説明になった。

 いろんな手続きはお母さんがやってくれた。

 私も先生のお話を聞いてたけど、さっぱり分からない。わかったことでも次の話が始まったら、もう忘れちゃってるから、すっかりお母さんに任せることにした。

 それでも書類に自分で名前を書かなきゃいけないところがあって、それも4つもあって、名前の漢字が思い出せないし、書いても震えて上手く書けなくて、周りのみんなが「この子、自分の名前も書けないの」って頭の中で笑ってて、「変な字、恥ずかしいねぇ」ってばかにするから、悲しくなって泣いて紙を破って先生にボールペンを投げてぶつけてしまった。


 私の部屋は、さんまるいち号室って、看護師さんたちのいる部屋のすぐ前にあって、一人だけの特別のお部屋らしい。

 外から鍵がかかって、インターホンでお話をしたら出られるし、壁のオレンジ色のボタンを押しても誰かが来てくれる。何日か、このお部屋で様子を見ることになるんだそうだ。

 この病院では、裸で廊下をうろついたらダメなんだそうで、だからちょっと窮屈でもお部屋の中にいるように言われた。


 部屋の中にはちゃんとトイレがあって不便はない。トイレは便器が部屋の隅にぽつんとあるだけで壁がないから、とっても使いやすい。

 ご飯はドアの横の小さな窓から差し入れてくれるんだって。なんだか映画みたいで面白そうだ。

 けど、お母さんはこの部屋を見て、泣き出しちゃって、だから、私は頑張ってこの部屋から出られるように、きちんと先生の言うことを聞こうって思って、お母さんにもそう約束した。



 お母さんが帰って、私は、ベッドの上で転がってた。

 この部屋ではそれぐらいしかすることがない。

 いまのところ、おまたもいじっていない。

 お薬のおかげで、ほとんどおまたいじりはやらなくなってて、でも、服を着てるのか着てないのかが分からないのは相変わらずだ。

 一応、確かめてみたら、いまは裸ん坊だった。いったいいつ脱いだんだろう?

 ここでは勉強もしなくていい。鉛筆とかの先のとんがったものは危ないから持ってきちゃいけないんだ。

「ぐふっ、ぐふふふふ」

 私はさっき病院の人からその説明を聞いたときのことを思い出して枕に顔を押し当てて笑った。

 その女の人が、とんがったものは危ないから持ってちゃダメなんだよって言うから、じゃあ男の子はおちんちんちょんぎらないといけないんだねって聞いたら、あれは先が丸いから大丈夫なんだよって! おっかしいの。

 私はそれに、何回も突き刺さってるんだよ、危ないよって教えてあげたの。だけど、きっとそんなこと言っちゃったから特別室に入れてもらえることになったのかもしれない。

だって、ここなら絶対に刺さらないから安心なんだ。

「ぐふふふふ」

 なにしろ私はとんでもなく暇だから、そんなことばっかりを考えて時間を潰していた。

 本は持ってきていいらしいけど、いまは()()がとろけてて、字を読む気がしない。


 私はこれから三日間、お薬なしで生活して、体の中からすっかりお薬の成分をなくしてしまって、来週の月曜日から体に合ったお薬を探していくんだそうだ。

 この三日間が勝負だ。



 きょうは、入院するときに診察を受けてるから、先生が私のおっぱいを見物しに来ることはない。女の人が様子を覗きに来るぐらいだ。

 夜の九時には音楽が鳴って、一斉に消灯になった。それで、夕方五時頃にトレーに乗ってやってきたあれっぽっちが晩御飯なんだったんだと気付いて、急にお腹がくーくー鳴りだしてしまった。

 まだ、お薬が抜け切ってなくて、ぼんやりしてたんだろう。いま思えば確かに一汁一菜に小鉢も付いてて、味が薄くて量が少なくて彩りが乏しくってひとりでなんだか寂しくて味気ない以外は学校の家庭科で習った食事のスタイルになっていた。

 だったら、明日はもっとありがたく食べるようにしよう。

おやすみなさい(おやういあぁい)

 声に出してみても、やっぱり、おやすみなさいがちゃんと言えない。

 ぼんやりしたまま、一日目の目を閉じた。



「はい、いらっしゃいませ」

 あみちゃんは、きょうも夢に出てきてくれた。

 すごいなあ、どこにでも来てくれる。

ありがとう(あいあおぉ)

 退屈だったから、夢は賑やかな方がいい。

 いつもの様に、彼も来てくれて、キノコ遊びで朝を迎えた。



 目が覚めたとき、毎朝感じていたぼんやりとした感覚は薄れていた。薬の血中濃度が下がってきたんだろう。

 それで、いま置かれている状況を、じっくりと思い出す必要があった。

 まるで記憶喪失から復帰したみたいに、いくつかのことを慎重に考えなければならなかった。


 私は、あみこの中に現れた『世界さん』に〝力〟を奪われて、淫具の様な扱いに耐えられず、心を病んで、クリニックに通い、薬で感情を抑制されて、訳が分からなくなって、それで、ここに入院している。

 部屋の中に剥き出しの便器が置かれていることに、ガックリとした。こんな独房のような病室に娘が収容されていることを知ったらお母さんはきっと泣き出すだろう。

 お母さんは……、私を明確に認識していた?

 なぜだ? ぼんやりしてて気付かなかったけど、お母さんは壊れてるはずだ。

 毎日、午後にはお見舞いを兼ねて、洗濯物を取りに来てくれる予定になってるから、そのときに確認してみよう。


 とりあえず、私はこの一日をこれからのことを考える時間に当てることにした。

 入院前にやっておいた準備に間違いはなかったか記憶を掘り返しての確認も必要だった。

 たぶん、大丈夫だと願いたい。

 まみこは賢い子だ。一を聞いて十を知って二十をする。そのうちの十は間違いなく余計なことだ。

 掘り返した記憶の中にあった、お父さんをかなづちで三回叩いたことは、もう一度記憶の闇に埋め戻しておくことにした。



 昼食後の看護師さんの巡回で、調子がいいことを伝えて、談話室の公衆電話を使うことを認めてもらった。預けてあるスマホは月曜日に投薬が始まって先生のOKが出てからでないと使わせてもらえないらしい。

 ナースセンターに預けてあるお財布から十円玉を四つ出して、弥生ママに入院の報告をしておく。文香ちゃんと同じ関係の病院だから、伝えといた方がいいと思ってたんだけど、入院前は上手く喋れなかったから、このタイミングが最適だと思う。

 思いのほか、きちんと言葉が使えた。これなら意味が通じたと思う。大まかなことだけ話したところで、四十円分の通話が切れた。時間はほんの一分ほどだった。これなら携帯じゃなくて家の電話に掛ればよかったと思う。まだ少しボケてたのかな? でも、途中で切れたからママは必ず私や病院のこと気にしてくれるだろう。


 家にも電話しようかと思ったけど、ママに四十円も使って、お小遣いも少ないし、どうせ後でお母さんが来るからいいやって、待つことにした。


 けど、結局お母さんは一日中待っててもお見舞いに来てくれなかった。



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