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(九)

   (九)


 洗濯機の乾燥が終わってほかほかになった服に着替えると、まもなく彼が戻ってきた。

 こころなしか、息を弾ませている。会いたくて走って来ましたって感じだ。

 彼は私の顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。お母さんとはぐれた子供がやっと会えたときみたいに。そういうのをみると、彼が私を好きだということもあながち嘘じゃないように思える。

 彼はコドモのイエを出た途端、待ちわびたみたいに手を繋いできた。驚いて彼の顔を見上げると、いつもの優しい笑顔じゃなくて、真剣な顔でまっすぐ前を見つめていた。なにか感じが違う。

 彼は真面目だ。いい加減な気持ちで手を繋いだわけじゃないってことかな?

 そうだ、きっと、もう私たちの間では、手を繋ぐことは当たり前のことになってしまってるんだ。

 きっと彼は当たり前の少し先に進んでいく。少し進んで、またそれが当たり前になったら、もう一歩先に進む。そうやって、段々と当たり前が進んで行って、知らず知らずに後戻り出来ないずっと先まで私を連れて行ってしまうんだ。


 そうだ、彼と私は『いかのおすし』だ……。


〝いか〟:イカない。

 知らない人について行かない。

 でも、私は彼を知っている。すごく知ってる。

 だって、大好きなんだもん。

 声を掛けられたら付いていく。声を掛けやすいように構って欲しい素振だってみせる。なんなら、こっちからお願いしたいぐらい付いていく。

 それに、これから行くのは私の家なんだから。

 繋いだ手をキュッとして、彼の顔を見上げた。

 彼は「なに?」って顔で優しく微笑んでくる。

 私はもう一回キュッてした。彼はそれに応えてキュッキュッって。

 ああ、凄い!

 私はいまこの人を独り占めしてる。彼は私だけの彼。

 握った手をゆっくりと開いてみた。

 ねえ、どうする? 私が離れていっちゃうよ。

 私を握っていた大きな手が広がって、触れ合う二人の肌が一瞬離れそうになる。

 汗ばんだ掌にひんやりとした空気を感じた。

 彼は空中に投げ出されそうになる私を急いで捕まえてくれた。それは私の指が彼の指と激しく絡み合って、もう絶対に解けないひとつの肉塊になったみたいに。

 彼が私を求めている。彼はこんなにも私を欲しがってる。

 付いて行くんじゃない。連れて行ってあげるんだ!

 彼を私の……。私だけの世界に!


〝の〟:ノらない。

 知らない人のクルマに乗らない。

 ふふふ、なにを言ってるの? クルマはないけど、私が彼を乗せてあげるの。きっと彼はふわふわ気持ちいい。

 さっきから恥ずかしくなるぐらい、ずっと私ばっかり見ている。

 世界で一番優しい瞳で、私を見つめて甘い言葉をかけてくる。

 たわいない学校の出来事にメイプルシロップをたっぷり絡めてトロトロにして私を浸してしまう。彼の言葉で私の身体はもう甘くベトベト。きっと彼はパンケーキみたいになった私を食べてしまいたいんだ。

 ダメダメ。ダメだよ。

 私はオヤツじゃないの。

 豪華なディナー。

 メインは肉よ。もっとお腹を空かせなさい。

 私の家まで、まだまだたっぷり時間はあるわ。

 私もキラキラの笑顔であなたを美味しくしてあげる。私があなたを頂いて、あなたは私を美味しく召し上がれ!

 大好きな、あなたの肉を口いっぱいに頬張って、私はあなたの迸る生命を飲み込むの。

 私はあなたに食べられる痛みを悦びに変えるわ。

 二人がひとつに交わって、さあ、世界を変えましょう。

 私とあなただけの世界に!


〝お〟:オオごえでさけぶ。

 大声で叫ぶ。

〝す〟:スぐにげる。

 すぐ逃げる。

「きらりちゃん……」

 ああ、胸がいっぱいで、彼が何を話しているのか、全然頭に入ってこない。でも、彼は今日何度私の名前を呼んだだろう。

 男の人が女の子の名前を呼ぶのは『妻問い』って言うんだよ。国語の時間に先生が雑談で言っていた昔の人の恋愛のこと。好きな人の名前を呼ぶのは「君の全てが欲しい」っていうプロポーズなんだ。

 あなたって、とっても欲しがり屋さんだったんだね。

 私の名前を何度も呼ぶなんて!

 あ、そうだ、私はいままで彼を呼んだことがない。いつも「あの」とか「えっと」とかばっかりだ。これじゃあ、あまりにも控え目すぎる。

 いくら私が大人しい淑女でも、もうちょっと積極的にならないと。

「ねえ、私はなんて呼んだらいい?」

「えっ、オレのこと?」

 彼が自分の鼻の頭を人差し指で押さえる。

 私はにこやかに頷く。

「うーん、別に、名前でも、呼び捨てでも。なんかいいのがあればあだ名でもいいよ」

 おまかせは一番難しい。


――ねえ、今日の晩御飯、何がいい?

――なんでもいいよ。


 いくら愛する妻の手料理が美味しくても、それじゃあ可愛いお嫁さんは困ってしまうの。

『なんでもいい』は女の子には禁句だよ。

 ハッキリと言って欲しいの。

 私をあなたの言いなりにさせて欲しいの。

 ああ、あなたの呼び名はなあに?

 名字だと他人行儀だし、年下の女の子が名前を呼び捨てするのは品がないわ。

「……けーくん」

 ぽっと頭に浮かんだのを声に出してみたら、一瞬、彼の笑顔が消えて顔色がさっと変わった。私はそれを見逃さない。

『けーくん』はきっとあの女の呼び方だ。

 それも特別なときの、あの女だけの。女の勘ってやつだ。

「どう?」

 決めた。彼がなんと言おうと呼び名は『けーくん』だ!

「いいよ、それで」

 元の笑顔に戻った彼が微笑むけれど、目の奥は笑っていない。

 意地悪なんかじゃない。けーくん、あなたを助けてあげる。昔のことは全部忘れて私だけのものになれば、あなたは私を手に入れることができる。

 幸せに満ちた世界をその手に掴むことができるのよ。

 お腹の底にぎゅっと力を入れた。

「けぇーーくぅーーん!!」

 運動会の応援合戦みたいに、自分の体の何倍もある声で新しい彼の呼名を大声で叫んだ。

 びっくりして立ち止まった彼の手を振り切って走り出す。

「きらりちゃん、どうしたの!?」

 後ろで彼も叫んでる。

 私は首を捻って彼に向けて叫び返した。

「逃げてるの!」

 彼も叫ぶ。

「追いかけてもいい?」

「うん!」

 彼は獲物を狙う獣のようにものすごいスピードで、あっという間に私を捕まえた。

 最初に右の肩を、次に左の二の腕を掴まれて、足を止めた。

「捕まえたぞ」

 私は息がハアハアあがって苦しくて返事が出来ないのに、彼は優しい声のままだ。

 深呼吸して彼の方に向き直ろうと思ったら、彼が私の肩から前に腕を回して、私の背中に胸を付けてきた。後ろから抱きしめられて、耳元で彼の吐く息を感じる。

 これは想像以上に大人だ。頭の先まで熱く沸騰してしまいそう。

 彼の手が少しだけ、胸に触れていて、私はその手に自分の手を重ねて、彼の掌に心臓のドキドキをそっと教えてあげた。


〝し〟:シらせる。

 知らせる?

 知らせたい!

「けーくん……、好き……」

 ああ、もうどこかへ違う世界へ連れ去って……。



 少しだけ。

 ほんの少しだけの時間、彼は私の背中で硬くなったまま、私の心臓の鼓動を掌で優しく包み込むようにして感じてくれた。

 もし、私たち二人が道端じゃなかったら、もし、買い物のおばさんが通らなかったら、あと三十秒で私は立っていられなくなってただろう。

 彼に隅々まで知られてしまって、心臓が破裂してたかもしれない。

 熱中症のように身体中が熱い。

 きっと頭のてっぺんから足のつま先まで真っ赤になってるに違いない。だから、ずっと俯いて歩いた。彼が手を繋いでくれるから安心して歩ける。でも、ずっと黙ったまんまだ。

 燃え上がった炎に急に水を掛けたみたいになって、それでも奥の方ではまだぶすぶすとくすぶってて息苦しくてたまらない。

 きっと彼は大人の分、私なんかよりもっと熱くたぎるものがあるに違いない。

 かといって、もう一度火がついてしまったら、彼の炎は私を焼き尽くすまで治まらなかっただろう。

 それは怖いし、まあ、道端だし、買い物のオバサンも多いし。

 彼は一度も教えたことがないのに私の家があるマンションの前で立ち止まった。

「ここの五階だったよね。部屋まで送る?」

 私は首を横に振った。さすがに、彼と一緒にいる真っ赤な私をお母さんに見られたら恥ずかしい。

 きょうはありがとう、と言いたいのに言葉にできない。さようならも言いたくない。

「明日も午後は図書館で涼んでるよ」

 ああ! それは、また会いに行ってもいいってこと?

 私はそおっと頷いた。

 あんまり勢いよく顔を動かすと、涙が零れそうだったから。

 彼はそんな私の顔を見て、ちょっとびっくりしたみたいに笑って、私の頭を掌でポンポンと叩いた。

「じゃあ、またね」

 その途端、我慢してた涙がぶわっと溢れ出して頬っぺたから顎まで伝っていく。

 慌てて掌で拭って、一番いい笑顔を作って「うん」と頷いた。それで、急いで後ろを向いてマンションのエントランスの中に駆け込んだ。

 こんな顔は彼に見せられない。

 顔は笑っているのにボロボロと涙と鼻水が止まらなくて、エレベーターを待てなくて非常階段を駆け上がった。



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