(八十七)
(八十七)
「きるこ、帰ろう」
あみこが私の背中を優しく支える。
私はコドモのイエに向かって歩き出した。あみこの手は、私が行こうとする方向へ、優しく歩を進める手助けをしてくれている。私が駅に行こうとすれば、きっと彼女も付いてきてくれるだろう。いま私は間違いなく、自分の意思で、あみこに誘われているからではなく、私の気持ちでコドモのイエに行こうとしているのだ。
休みたかった。心を休ませたかった。
「でもね、私、やんなきゃいけないんだ……」
足も気持ちも、ぜんぶコドモのイエに向かっているのに、言葉だけが自分に与えられた責任を確かめるように呟いていた。
「ちょっと休憩してからにしよう。その方がね、なんか、いいんだって」
「うん」
あみこの〝なんか〟っていう言い方が面白くて、自然と笑うことができた。
きっとそこには〝能率〟とか〝効率〟とかって言葉が入るんだと思うけど、〝なんか〟っていうのがすごく暖かくて柔らかい感じがした。
「私、のど乾いちゃった」コドモのイエで、なにか飲みたい。
「そういえば、まみこってそっちに行かなかった?」
あみこがふっと思い出したようにいう。たぶん、重たい雰囲気から話題を変えたかったんだろう。
「あの子、きのこが浮気してるから懲らしめてくるって言ってたんだけど」
少し冗談めかして言う。
「あー、来てた来てた」
私はまみこが現れたときの様子を詳しく話して聞かせた。
凶器持参で病院に待ち構えていた姿は冗談では済まされない恐怖があった。
私が帰るときに、「もう少し絵本を読んでいたいから残る」と言うまみこからカッターナイフを取り上げておいたけど、無理に連れ帰った方がよかっただろうか。
「まみこ、大丈夫かなぁ」
あみこが心配を口にする。確かに、あのあと亮平くんを追いかけて血なまぐさい事件にでもなってたらどうしよう。
「あの子、すっごい影響受けてるから」
ああ、そっちの方の〝大丈夫〟か。
あみこは名指しこそしてないけど、まみこが私の影響を受け過ぎてるって言ってるのがよくわかる。
ころころと可愛い甘えんぼさんが、雰囲気はそのままなのに口では言えないようなことを平気でやってしまう。
「うん、ごめんね」
けど、いまは私を止められない。
「しょうがないよ、きるこなんかと仲間になっちゃったんだからね」
あみこがニヤッと笑って人差し指を立てて見せて、その先を私の頬っぺたにぐりぐり押し付けた。
人差し指の先は、私たちが〝血の契約〟を交わした印で象徴的な部分なのだ。
私はサッと頭を振って、頬っぺたに当たってる指をパクッと口にくわえた。それで逃げられないように唇できゅっと挟み、歯で軽く噛んで、舌でべろべろと舐めまわしながら、私の人差し指をあみこの口の中に突っ込んだ。
あみこも私の指を舌を使って唾で洗うみたいに口の中でじゃぶじゃぶ音をさせてこね回した。
さんざん舐め回してお互いに指を引き抜くと、てらてらと流れそうなほどの唾で濡れ光っている。
あみこはそれを顔の前で掲げて、思いっきり嫌そうに顔をしかめて、その指を私のお腹で脱ぐうようになすり付けた。
私もあみこで濡れ光った指をあみこの肩にすり込んだ。
あみこが私の平らな胸を突っついて「あれぇ、背中と間違えちゃった」って笑うと、私はあみこに突っ込んだ指を鼻先に運んでわざとらしく匂いを嗅いで「喰っさぁい」と鼻を歪めた。
私たちはそうやって、互いを突っつき合いながら、コドモのイエまでのバスに乗るほどの道のりを、ふざけてはしゃいで笑って歩いた。
コドモのイエでは、一階の食堂スペースが開けられていて、ショコラちゃんがウサギのコスプレでポットを置いたテーブルの前に座ってお昼のカップ麺をすすっていた。
こういうのをシュールって言うんだと思う。
どうやら来場してくれた子にカップラーメンのお湯を入れる係をやってるらしい。
きょうのスペース開放は、なんの宣伝のしていないのに、クチコミで集まった子供らが十何人か、思い思いに席に座って、ラーメンを食べている。
カップ麺は地元の企業が提供してくれたものだそうで、友井さんやを金井さんが商工会などにも声をかけてくれてるらしい。これはコドモのイエでの犯罪が露見する前からの繋がりがいまでもあるからなんだろう。
私が与えられたミッション半ばで帰ってきたことに、ショコラちゃんは人差し指を唇に当てて静かにと目配せをした。
「隣に啓示がいるの」
声を潜めて、奥の部屋を指差す。
どうやら奥のスペースで、子供らの宿題や勉強を見てやってるらしい。
自分の浮気調査で私たちが動いてることに気付かれたらまずいことになる。
隣を覗いたら、低学年ぐらいの女の子に向かってなにかを教えてるようだ。いいお兄ちゃんをやってるみたいだけど、その子には変なことを教えたり手を出したりしちゃダメだよ。
「伊勢崎は、また今度でも行ってみて」
ショコラちゃんに叱られなくてほっとして、どうしてそのウサギの格好をしてるのかは聞きそびれてしまった。アンケートの〝何年生ですか?〟に気を良くしたのかもしれない。
三階に上がろうとする私たちに、後ろからショコラちゃんが声を掛けてきた。
「まみちゃんがお友達連れてきてたよ。上で遊んでるって!」
「お友達?」私とあみこは顔を見合せた。
三階の〝乙女の部屋〟からはまみこの声が廊下に漏れて聞こえていた。
ただ、にゃにゃにゃにゃ、にゃにゃにゃにゃ言ってるみたいにハッキリとは聞き取れない。
お友達の方は大人しい子なのか声がしない。
あみこが先に立って、部屋の扉を開けて中を覗き込んだ。
「ちょっと、あんたたち、なにやってんの!」
あみこの声に、中でバタバタと騒ぐ様子がしている。
「わぁ、あみこ姉ちゃんだぁ」
まみこの声だけど、ここからだとあみこの背中ばかりで中は見えない。
「ちょっと、その子誰?」
まみこが連れてきた友達っていう子はあみこも知らない子のようだ。
「この子ね、亮平くん。きのこの浮気相手」
私はあみこを押しのけて、部屋の中に首を突っ込んだ。
なんで亮平くんがここにいるんだ?
「なにやってん……、の」
私は怒鳴ろうとして、途中で中の様子に呆れ返ってしまった。
「キノコ遊び」
まみこが得意げに腰に手を当てて胸を張ってるのに、亮平くんは部屋の隅で体育座りで小さくなっている。
「ここ、女人禁制だよ!」
あみこが指摘するけど、もはや誰もこの場所が〝男子禁制〟だという正しい言葉を使わない。
「いいから、もう、さっさと服着なさい!」
私の注意に、あみこが後ろから恨めしそうに呟いた。
「きるこなんかと仲間になるから…………」
私は、休みたかった。心を休ませたかった。




