(七十七)
(七十七)
篠原凛音は落ち着いていた。けれども、こちらの理解が追い付けないところがあって、すぐに現場に向かうことになった。
交通手段は〝キノコ狩り〟のときと同じだけど、彼女の家に裸で行くわけにもいかないので、私はワンピースを頭から被って、あみこはパンツを穿いてブラウスを羽織った。
凛音の住むアパートの玄関で実体化すると、私たちを察したまみこがすぐにやってきた。
キノコ狩りのときほどではないが、ゾンビのように汚れている。
「きのこ姉ちゃん、失敗した」
まみこは少し興奮してはいたが、恐怖や怯えはまったく見られず、クレーンゲームで獲物を取り損なったような残念さだけがちらちらとあった。
まみこが早口で状況を説明する。
まみこは悪いことをする子ではないけど、小さい子供は善悪の基準に偏りがあることが多い。客観的な見方をするには自分の目で確かめる必要はあった。
玄関すぐの座敷には凛音の姿があって、大きな彼女の体で奥の様子がよく分からない。まみこに付いて中に入った。
「どうしたの」凛音に並んで問いかけた。電話とまみこの話でおおよそのことは分かっていて、目の前の状況も、そのことを示している。
「繭ちゃんが、お父さんとお母さんを刺して。お父さんはもう死んでる」
なるほど、トイレの前で男が首から血を吹き出して倒れている。あれは〝刺した〟じゃなくて〝斬った〟だ。
手の小さいまみこが包丁を刀みたいに両手で握って、凛音を組み敷くように四つん這いになった男の首を、斬首刑さながら一撃、振り抜いた。
まみこには人を殺すことに躊躇いがないのだ。そのことが正しいことだと判断したら決して迷わない。きっと、母親が罪を背負ってでも自分たちを守ったことに対する神聖で崇高な思いが根底にあるに違いない。
問題は、台所で倒れている女の方だ。目の前で男が殺されて、女は当然自分を守ろうと抵抗しただろう。いくら女でも大人が抵抗すれば一年生のまみこが全力を出しても容易に急所は貫けない。
そして、留めを刺せなかった理由が、あの美琴だ。女の前で庇うように泣き叫んでいる。
さすがのまみこも美琴を打ち払ってまで女を始末することができなかったようだ。
それで、美琴は女を助けるように泣きながら懇願していて、それを凛音はただ見ている。凛音は女が死ぬのを待っているのか。
私はまみこだけと話をすることにして、二人だけの空間を創造した。
「まみこ、どうなったの?」
「きょうは、ねこちゃんと一緒に家で遊ぼうってなって……」いまは凛音ちゃんのことをねこちゃんと呼んでいるのか。名前なんか自分が分かればいい記号ぐらいにしか考えてないのだろう。
「きょうは3の付く日でお父さんもお母さんも遅くまでパチンコ行ってるから大丈夫って言ってて。そしたら、いきなり帰ってきて、バカみたいに怒ってて。お金がなくなったから、ねこちゃんに〝売春〟やって稼いで来いって。それで嫌だって言ったら殴ったり蹴ったりして、そいつがねこちゃんにいやらしいことしようとして、そっちの女も〝教えてもらえ〟とか言ってずっと蹴ったりしてて、だから私が殺した。女の方は逃げられてねこちゃんの妹が邪魔するから仕留め損なった」
「まみこたちが帰ったときに、美琴ちゃんはいたの?」
「うん、先に帰ってて、宿題してたよ」
ここの姉妹は、前にも思ったんだけど、あみこたちみたいに、いつも一緒にいるわけじゃないようだ。親との関係もあるんだろうか?
凛音ちゃんは、どうなんだろう。お父さんとお母さんが死ぬのを本当に望んでいるんだろうか。
いまの私なら、どのような世界も描けるのだけど。ここにいる子供たちが一番幸せになる未来を作りたい。
「私、親にお金が必要なら売春しろって言われて、お父さんが、やり方教えてやるって……。売春するようになったら、それまで暴力振るわれてたのが少なくなって、身体が綺麗な方が、傷がない方が売れるからだって。そんなの美琴に見せられないから、放課後ひとりでやってたんだ。でも、きらるちゃんたちに助けられて、私もうやめようって思ったんだよ。まゆみちゃんには感謝してる。でも、妹には、私より親が必要だったんだ。妹を助けてあげて欲しい。こんなのきっと辛すぎるから」
「警察とか救急とかに電話しないで私に電話したのはどうして?」
「まゆみちゃんを巻き込みたくなかったから、それに、きっときらるちゃんなら美琴のこと、助けてくれるって思ったから」
「美琴ちゃん、助けて」
女の傷は浅い。左の脇腹を包丁で切られているだけだ。美琴がすがりついて体を揺すってるから傷が広がってなおさら痛むのだ。愚かにもそれが分かっていない。
「お母さん、死んじゃ嫌だ、お母さん!」
さっきから、女も美琴も同じ言葉の繰り返しだ。この女は放って置いても死なないだろう。
この親たちは、凛音を支配して虐待を続ける一方で、美琴を可愛がった。同じ子供なのに、なぜそんな違いが生まれた?
「ねえ、どうして凛音ちゃんに売春なんかさせたの?」
「お姉ちゃんは好きでやってたんだよ!」美琴が女を庇って私を睨みつけた。
「ちゃんと家のお手伝いしてお小遣いもらわないで、いやらしいことしてお金を稼いでたんだ!」
「美琴ちゃんはお姉ちゃんが売春して喜んでお金もらってたのを見たの?」
「お母さんが言ってた! お父さんも、あいつはダメな子だって、言っても聞かないって、いっつも言ってた!」この子も、可愛がってもらってたわけじゃないんだ。
「美琴ちゃんは、ちゃんとお小遣いもらってたの?」
「家でいい子にしてたら、毎月もらえたよ! 小学生になったら五百円、三年生になったら千円。お姉ちゃんは悪い子だからお小遣いあげても売春するんだって言ってた!」
「そっか」凛音は小遣いなんて一度ももらったことはない。私は美琴の頭をなでて、女を見た。
苦しさの中にも満足気な色がみえる。美琴が自分の思い通りに育ったことを誇らしく思う母親の顔だ。その女の前にしゃがんで顔を正面にした。
「ねえ、どうして凛音ちゃんに売春なんかさせたの?」
「お――――――――――」とりあえず、また割り込んでこようとする、美琴の言葉を切った。黙って聞いてろ。
「その子は体売るぐらいしか役に立たないからだよ、小学生のくせに媚びて色気出して気色悪い」
「美琴ちゃんは、どんな役に立ってたの?」
女は言葉に詰まった。美琴が役に立つことといえば、凛音を支配するための道具ぐらいだ。親の無能さを誤魔化すために、できない子供の役を押し付けられた凛音の存在を正当化するための引き立て役が美琴なのだ。
「美琴は普通の子だよ。その子は言うことも聞かない、なんにもできないクズなんだよ。だからちゃんと躾てやってるんだ」
めずらしくもない、腐った毒親か。
「凛音ちゃんは賢くて、優しくて、思いやりのある子だよ。学校で見ててわかるもの」
「その子がいい子なもんか、親をバカにしたような目で見て。美琴だけでよかったんだよ、あんな子生まれてこなきゃ良かったんだ!」
これだけ元気だと仕留めないと死にそうにないな。
私は立ち上がって美琴に振り向いた。
「美琴ちゃん、お母さんの言う通り、お姉ちゃんは悪い子?」
美琴が私の顔を見上げた。悲しい目だ。助けを求める目だ。この子は、いったい何を助けて欲しい?
「美琴ちゃんは、どうして助けを呼ばないの? もう三年生なら救急車を呼べるよね。警察に電話してもいい。部屋を飛び出して大声で叫べば近所の人が助けてくれるはずだよ。早くしないとお母さん、死んじゃうよ」
「美琴、美琴ちゃん、助けて、救急車を、助けてぇ!」
女はうるさいが、それも美琴が自分で生きるために必要な乗り越えるべき試練だ。
私はスマホに警察への緊急通報の表示を出して、通話ボタンを押すだけの状態にして、美琴の前に差し出した。
「押せば警察と話ができるよ。例え何も言わなくても、スマホの位置情報でお巡りさんが駆けつけてくれる。お姉ちゃんたちは捕まって、お母さんは助かる」
美琴はスマホを見つめたまま、ぎゅっと手を結んで震えている。この子は押せない。ずっと、自分で何かをすることなく、何にも関わらないで生きてきたんだ。
凛音という分厚い盾がこの子に自分で考える機会を奪った。しかし、また凛音がいたからこそ、この子が守られたのも事実だ。もし凛音がこの家族を見捨てていたら、残虐な矛先はこの子に向けられていたかもしれないのだ。
「しっかりしなさい、篠原美琴。凛音は悪い子なの? お母さんから聞いたとか、お母さんに言われたとか。それがあなたの目? あなたの耳? 本当のことをあなたはずっと近くで見てたはずでしょう、聞いてたはずでしょう!?」
「美琴、そんな人たちの言うことなんか聞いちゃだめ、その人たちはお父さんを殺したのよ!」
そして、返答次第ではお前も死ぬことになる。
「美琴ちゃん、あなたがもらってたお小遣い、使わずに貯めてるそうね。なにか目標があるの?」
「…………」美琴は黙ったまま俯いた。
「ねえ、小学校に入って、毎月五百円で始まったお小遣い。三年生からは千円でしょう。もう二万円ぐらいになるのかな? ちゃんとある? 取られてない?」
「やめなさい、美琴ちゃん」女が止めようと声を上げる。
美琴がハッとして立ち上がった。それで押し入れを開けて奥の方からひとつの箱を取り出した。心の中に、お金が奪われたのではないかという疑念が湧いたに違いない。なにしろこんな連中と暮らしてるんだから。
「あるよ」美琴が箱を開けて中を確かめた。
「いくらある?」
「えっと……、ちょうど二万円」ほっとしたように、数えた千円札を束ねて見せた。
「五百円から始めた貯金が、どうして全部千円札なの?」
美琴は手にしたお金に〝えっ?〟って顔になった。
「それに、計算したらわかるけど、あなたの貯金は今月の十月分でちょうど一万九千円のはずよ」
「そのお金は、凛音ちゃんがこそに入れたのよ」
「えっ、なんで、どうして……」美琴が凛音を仰いだ。
「どうせその子が使い込んでこっそり返しておいたんでしょ!」女が叫ぶ。もう、痛みも感じてないぐらい興奮してるようだ。それはβエンドルフィンのおかげではなく、アドレナリンの方なんだろう。
「そのお金、お父さんとお母さんに見つかって盗られたの、それだけは止めてって言ったのに、お酒飲みに行ったんだよ、だから私がこっそり戻しておいたの」
「ウソ、その子はウソつきなんだよ、そんな……」
「ウソじゃない! だって、そのお金は大事なお金だから、夢のお金なの!」凛音が女の言葉を遮った。
「美琴ちゃん、少ないお小遣いをずっと使わないで貯めて、なんのためだったの?」
「これは、パン屋さん…………」
あの二万円を用意するとき、凛音に聞いた話だ。
もっとずっと小さい、記憶にないぐらい前のこと、理由は分からないけど、メロンパンを家族みんなで分け合って食べたことがあった。その頃は両親の虐待もいまみたいに酷くなかった。
そのパンはとても美味しかった。すごく楽しかった。
美琴が大きくなったらパン屋さんになるって言って、凛音が「お姉ちゃんも一緒にやる」って約束した。そのことをずっと覚えていた美琴がお小遣いを貰うようになって、将来のパン屋さんのために貯め始めたのがそのお金だ。
「その二万円、凛音ちゃんがどんな思いでそのお金を得たかわかる? それでも見ないふりができる?」
「お母さん、ウソだったの?」
美琴が女を見る。女は首を振った。
「そうだ、美琴ちゃん、またみんなで仲良く暮らそう、パン屋さんお母さんも応援するから」
「お母さん……」
美琴は母親の洗脳から抜け出せない。それで、この女はただ生き残りたいだけだ。
凛音はどう思う。凛音は女を恨んでいる。この先、女が生きていても、関係を再構築するのは並大抵のことではないだろう。
「私は、パン屋さんになりたいわけじゃない。パン屋さんになる夢をみんなで見ていたかっただけ」
凛音は女を棄てることも赦すこともできない。
凛音の言葉に、美琴が泣き崩れた。
どうする。私なら、獄門にいる男の首を繋ぐこともできる。女を改心させることも容易い。どこにでもある普通の、幸せな親子を築くことなど造作もないことだ。そういう世界にすれば済む。けれど、それでいいのか? この子たちが得るべきものはそういう幸福なのか?
女を見た。相変わらず、その場限りの命乞いをしている。
そのとき、女の前で素早く人影が動いた。
凛音が息を飲んだ。美琴は時が止まったように泣くのをやめて呆然と女を見詰めた。
女の前で、まみこが包丁を握ったまま、こちらを振り返った。
「知ってる? こういうの〝茶番〟って言うんだよ」
誰だ、この子にそういう言葉を教えたのは? それも尊敬するあみこか?




