(六十八)
(六十八)
神社の本殿裏にある秘密の――という訳でもない――古いベンチの前で、私たちは抱き合っていた。
思い切り泣いて、涙がおさまって、私は彼の胸におでこと頬と鼻の頭と唇と顎と、ついでに耳まで擦り付けて甘えていた。大泣きしたことへの多少の照れくささもあって、なかなか顔をあげられなかった。
「いきなりごめんね」ぐじゅぐじゅと鼻をすすりながら、彼のシャツの胸ポケットに話しかける。制服のネクタイが鼻水で濡れててらてらしてるのは見なかったことにした。
「何かあった?」優しく頭をよしよしされて、私は「ふん」と彼の胸にも鼻水を吹いた。
「親とけんか」本当のけんかだったらどんなにいいだろう。
「叱られたの?」
「晩メシ抜きだって」言われた訳ではないけど、結果的にはそうなった。
「酷いね」言いながらけーくんはククッと笑った。
私は背中に回してた右手で拳を握って、彼のお腹にグーパンチした。
親とけんかして晩メシ抜きだなんて、いかにも小学生ネタで、他の人の話なら私だって笑うだろう。でも、今回の原因はほとんどあんたのせいだって言ってやりたい。
「いいよ、自業自得だし」
彼は私の右手を手のひらで包むと拳を解してきゅっと手を繋いでくれた。
「高森くんは、どこか行くとこだったの?」けんかの中身にはあまり触れられたくないので話題を逸らす。ここは駅から家への帰り道じゃない。
「あぁ、うん、まぁ……」歯切れの悪さですぐに分かった。
「コドモのイエ?」
「うん、まあ……」
彼がこんな日にコドモのイエに行く用事などない。
「なんか、忘れ物?」
「まあ、そんなとこかな」ううん、違うよね?
「夢の続きを見に行くんでしょ?」
「えっ!?」けーくんは驚いて私の肩に手を置いて胸を離した。
「あそこに行くと、いい夢が見れるんでしょ?」
「どうしてそれを……」図星って顔で目を丸くして私を見詰めるから、なんだか問い詰めるのが可哀想になる。
「だって、高森くんあそこで寝てばかりじゃん」
私が言うと、彼は「ああ」と、なるほどといった顔で頷いた。そうだよ、けーくんは私のあそこで寝てばっかりだ。
「確かにそうだね、なんでだろ」
「受験勉強で疲れてるんだよ、きっと」手を伸ばしてけーくんの頭をヨシヨシとなでると、くすぐったそうに肩を揺らした。
「夢の続き、私が相手してあげようか?」彼の顔を覗き込んで、問いかけてみた。
「えっ、どう言うこと!?」
「だって、デートの夢なんでしょ?」それ以外にないでしょって目で彼をじっと見上げた。
「いや、いいよ、夢なんだし」デートであることを否定しなかったのは可愛いところかもしれない。
「ふうん」彼が目をそらすのは、口に出せないデートの内容を思い浮かべているからだろうか。
「あぁ、エッチなデートなんだ……」独り言って感じで、彼に聞き取れる大きさの声でつぶやいた。
「夢だってば」けーくんの小さなため息が聞こえた。私の子供じみたわがままに呆れているんだろう。でも〝エッチな〟という言葉も否定しない。
「ABCとかしてるんだ」
「古いね」結構真面目に言ったつもりなのに、彼にクスッと笑われてしまって、余計にわがままをしたくなった。
でも、私が彼にすがっているのはわがままなんだろうか。
「ねえ」私は彼を見上げた。
「キスして」冗談みたいに思い切り唇をすぼめて、踵を浮かせて目を閉じた。
彼は私の尖らせた唇を指で摘んで左右に振った。
「ダメだよ、大事にしなきゃ、ね」
優しい口調の彼の言葉に、私はイライラして頬を膨らませた。
なにが「ね」だ。
私は子供?
私を大事にしてくれた?
好きな女の代わりに欲望のはけ口にしている相手を子供扱いするっていうの?
腹が立つ。腹が立って許せない。彼にそうさせているのが私だということが一番に許せない。
「だから、オレは〝けーくん〟から〝高森くん〟になったんでしょ?」
私は彼の腕の中で力なく頷いた。
私が望んでそうしたわけじゃない。私よりも白井文香がいいと言ったのはけーくんじゃないか。私に諦めるようにさせたのはけーくんじゃないか。それなのに、私を満たして私で満たされてるのもけーくんじゃないか!
だからといって、私はけーくんとしたいわけじゃない。甘えたいだけだ。何も考えず、ただただ優しくして欲しい。もう、そんなふうに甘えられるのは私にはけーくんだけしかいない。
けど、彼に全てを忘れて甘えるためには、私は白井文香にならなければならない。私が白井文香のふりさえすれば、彼は彼の全てで私の全てを受け止めてくれる。結局、彼とすることになるんだけど。彼の記憶の中の相手が私ではなく白井文香だというただひとつのことが悔しくて仕方ない。
きょうはまた、このままコドモのイエに行って、秘密基地で彼は私に白井文香を求めるのだろうか。
私は彼を見上げた。
優しい微笑みのすぐ横に、キラキラと輝く星があった。
あれは、ベガだ。見ると、けーくんの顔を囲むように、暗くなった空に、夏の大三角が光り始めていた。
おほしさま。
もう、お父さんお母さんと星を見に行くことはかなわない夢になった。
全ての子供が希望を持って生きられる世界に私の希望はあるんだろうか。
「高森くん、私は我慢してる」
「ん?」私の言葉にけーくんが首を傾げた。
「高森くんを好きなのに我慢して、恋人になりたいのに我慢して、キスして欲しいのに我慢して! ABCだって小文字のbぐらいだったら許してあげてもよかったのに我慢して、全部全部我慢して、我慢してばっかり!」
30センチ上まで私の唾が飛びそうなほど訴えたのに、彼は少し困った顔で微笑むだけだった。
「ずっと、さっきからずっと我慢してて、もう限界だから!」
私は彼にしっかりと抱きついて、彼の体の凹凸も私の体の凹凸も全部がわかるぐらい体をピッタリとくっつけた。
私を抑えていたものが、一瞬、ふっと弛緩して、そして全てが溢れ出して私たちの間を熱く流れ落ちるのを感じた。
「えっ、我慢って、ちょっ、ちょっ、きらるちゃん!」叫ぶようなけーくんの悲鳴。
もう、我慢も限界だ。御手洗場の横のトイレまでも持たない。
『世界さん』に関係のないお漏らしもいいもんだと思う。私はけーくんの困った顔にひどくスッキリとしていた。
彼が自分のズボンや靴よりも、私のケアを優先してくれるのは、優しさ半分、趣味半分だと信じたい。でも、きっと本当は丸ごと全部彼の趣味なんだろう。
彼が掛けてくれる言葉も、濡れた服を脱がしてくれる動きも、とても優しいものだけど、瞳の輝きは〝ともにいちゃん〟だ。
前に彼に初めてお漏らしのケアしてもらったときは、靴下を脱ぐことに恥じらいを感じてたのに、いま彼は私のパンツをオシボリのように絞っている。見ていないとそれで額の汗を拭いそうだ。
彼は私の体を拭うためにバッグから真っ白なタオルを取り出した。それがとてもふわふわに見えて、私のべとつく肌がそれで拭われることを欲していた。
私はワンピースの裾をおへそのところまで持ち上げて、彼の前に肌を晒すと、彼の作業を見ないように上を向いた。
星々が輝きを増して夏の大三角が瞬いている。
彼は私の乙女に真っ先にタオルをあてた。私は彼の作業の一助となるように肩幅にスペースを広げてあげた。
少し東の方角にはペガサスの四角形も浮かんできている。淡いアンドロメダはまだ見えない。
彼は私を宝物のようにとても丁寧に拭いている。
秋の星座は明るい星が少なくて少し寂しいけれど、まだまだ夏の明るい星々が夜空を飾ってくれている。
彼は細かな隅々まで、まるでプラモデルに色を塗る人みたいに私を拭いてくれる。
星空が、えっと、星は……、もう、彼の指の動きが気になって星空観望に集中できない。私が濡らしたのはその一点だけじゃないのに。
恐る恐る、下を向いてみた。
彼は一心不乱に私の一部に集中していた。
きっと、もう彼は目の前にある乙女の肌が、誰のものなのか分からなくなっているのだろう。
彼の頭に手をやると、インフルエンザを疑うほどに熱を帯びていた。
仕方なく、私は彼に声を掛けた。
「お兄ちゃん、アップルサイダーはどう?」
彼は目の前の私を味見した。
「フッカ……」
彼のつぶやくグルメレポートは、もうどうでもよかった。
美しい星空の下、私たちは満ちて、満たされ、満たして、満ちた。溢れ出した二人の想いが互いの肌を濡らして、火照った体をひんやりと冷ました。
けーくんの腕の中でゆらゆらと揺れながら、夜空を見上げて彼が語る神話に彩られた星々の話に、尽きることのない悦びを感じた。彼は何度も何度も私を眩い星の世界へ導いてくれて、その神秘な世界へ二人で一緒に辿り着いた。
東の空にオリオンが輝き始めた頃、彼は疲れて、私の中で仔犬のように小さく丸まって、そして眠りについた。
気分のいいときは心に余裕が生まれるものだ。
私は朝一番で三年一組の教室にやってきた。
教室から飛び出してきた女の子を捕まえて、知り合いを訪ねてきたふうに声を掛けた。
「霧山花恋ちゃん、いる?」
その子は不思議そうな顔をしてふるふると首を振って「そんな子いないよ」とトイレの方向に走って行ってしまった。
私は「ヨシ」と心の中でぐいっと頷いた。
一晩中彼に幸せ成分を注入してもらったお陰で、爽やかな乙女に戻った私は、きのう激情に駆られて始末したことを反省して、やらかしてない方の世界に戻したのだった。そのためにおおよそけーくん一回分の〝力〟を使ってしまったけれど、まだまだ沢山あるから大丈夫だ。
彼らはそれぞれが想定していた運命をたどって堕ちてもらうことになる。
ただ、花恋だけはあみこたちの心の傷を考えて、遠くの街で暮らす人になってもらった。
もともとそんな子はこの学校にいなかったという世界で、これまでの全ての記憶も記録も関連する根っこからなにもかもなかったものにした。
さっきの子の反応を見れば、それは上手くいったみたいだった。
黒板の横に貼ってある座席表も、教室の後ろに並んだ春の遠足の絵も、どれにも霧山花恋の名前はなかった。
「あみこちゃんたち、まだ来てないのかな?」
私は自分の完璧な仕事の成果に、ちょっと偉そうに威張って、腕を組んで頷きながら教室をぐるりと回って廊下に出た。
「きのこーっ」
たぶん、私を呼んでいるんだろう聞き覚えのある声に廊下の先を見た。
あみこが手を振ってニコニコとこちらに歩いてくる。その隣でまみこがクルクル回りながらミュージカルでも始まりそうなステップを踏んでいる。
「けど、きのこって……」小学生はいろんな呼び名を考えるもんだ。ほとんど私の名前の面影がない。あみこはもうすっかり私の姉の雰囲気を醸し出していて、威風堂々といった感じだ。
それにしても、二人ともいい顔をしてる。二人にとっていじめのない新学期はどんなに晴れ晴れとしたものだろう。
もちろん、花恋という中心人物がいなくなったからといって、二人の境遇を考えれば、いじめようと思う子はいくらでも出てくるだろう。
けど、きっとみんなあみこたちをいじめることに心を痛めるに違いない。
あのいじめの輪にいた全員の心臓の〝洞結節〟という組織に、二人をいじめたら動きを停止するような刻印を押しておいたからだ。心の痛みは危険のシグナルだと思って欲しい。
この教室で、心停止で亡くなる子が出ないことを祈るしかない。
「おはよう」私たちは挨拶を交わして、手のひらをパチンと合わせた。
まみこはサッと教室に飛び込んでぐるりと中を見渡してる。
「わあ、ほんとだぁ!」
あみこはまみこに教室を見せるために一年の教室まで呼びに行ってたらしい。何を見せてるんだろう?
「ほんとにいないでしょ!」あみこは教室の中のまみこに向かって、どうだと言わんばかりに声を掛ける。まみこはそれにぐいっと親指を立ててしっかりと頷いた。
「きるこ、ありがとね」私に見せたあみちゃんの笑顔は本当にほっとした幸せそうな安心感に包まれていて、私はそれで、〝あれっ?〟と感じた。
「もう、やり直しなんかしないでザクってやっちゃえばよかったんだよ」まみちゃんが教室から戻ってきてあみちゃんにぺったりくっ付いて、私を見上げながら刃物で突き刺すような物騒な格好をした。
「ダメだよ、まみこ。きるこは私らのためにうまくやってくれたんだからね」あみちゃんがまみちゃんの頭をぽんぽんと叩く。まみちゃんは、Vサインで〝にやぁ〟って私に笑顔を見せた。
「ありがと、きのこ姉ちゃん!」
この二人は、知るはずのない既になくなった世界の出来事をなぜか全部知っている!?




