(六十五)
(六十五)
電話を切って、ほっと息を吐いた。
「よかった。上手く行きそうだ」
後は、もう少し光を集めておこう。家に帰って、ママのサプリを飲んでおまたでもして幸せを感じよう。
ショコラちゃんの様子にも特に変わったところはなかった。この部屋を片付けたのはショコラちゃんじゃないのか。だったら、やっぱりけーくんなのか。
それならそれで、気持ちは少し楽だ。
ここは、息苦しい。用事も済んだことだし、もう帰ろうか。
窓を開けて換気をすればよかったと思いながら、立ち上がろうとしたとき、かちゃりとドアが開いた。
「あれっ、きらるちゃん、いたの?」
「あっ、高森くん」
振り向くと、けーくんだった。ただ、姿を見ただけなのに、心臓が絞られるほど胸が痛い。笑顔を作ろうとしてあごが震えてしまい唇を噛んだ。
「うん、さっきまであみちゃんたちがいたんけどね」
けーくんは部屋の中をぐるりと見回して、当たり前のように隣の座椅子にすとんと腰を下ろした。座ってから、もう一度部屋の中をぐるっと何かを探すように眺めた。
「どうかしたの?」何しに来たんだろう。微妙な痕跡に気付かないか不安になる。もう少し掃除した方がよかったのかもしれない。
「いや、なんとなく……」
なんとなく、なんなんだろう。何かこの部屋の記憶が残っているんだろうか? 怖くて聞けないけど。
「……この部屋って、きらるちゃんの匂いがするね」
けーくんが、ボソボソとそう言って息を吸いんだ。彼の顔が少し赤らんでいる。これは、きっとあのよからぬ兆候だ。
けど、この不快な臭気が私の臭い?
「ねえ、私の臭いって、どんな臭い?」
「えっ、どんなって?」けーくんがきょとんとした顔で私をみて「ああ、自分じゃ分からないのか」と独り頷いた。
「桃だよ桃、桃食べたあとのベタベタした手の匂い」
香りは良さげなのに表現が汚い。けど、どんなに嗅いでも薄めた公園のトイレ臭にしか感じないこの部屋の臭いを桃と表現するなんて、この子の鼻はおかしいのでは。
「私って、ベタベタしてる?」
「そういう意味じゃないよ、ほのかな香りってこと」
けーくんが私に顔を寄せて、ひくひくと鼻を動かす。私は身を引いて距離を保った。くっ付くと危険だからだ。
「ね、だったらコドモのイエでメロンの匂いの子って知ってる?」試しに聞いてみよう。
「メロン……、あぁ、あの子だ。あみちゃんだっけ? きらるちゃんと同い年ぐらいの、綺麗な子だよね」
私にはあの子は夏場に汗をかいたのに三日もお風呂に入ってない女の子の臭いしか感じないけど、けーくんはあの子の血液のメロンを嗅ぎ取ってたのだろうか。間違いなく、けーくんは女の子をクンクンしてる変態野郎だ。そこまで女の子を観察できるなら三年生と五年生の違いぐらい嗅ぎわけて欲しい。
「じゃあさ、文香ちゃんはどんな匂いなの?」
私の質問に、けーくんはハッとした。文香という名前にハッとしたのかもしれないけど。
でもけーくんはすぐに平気な顔を作った。
「あいつは、最近は消毒薬の匂いかな、体の中まで消毒液が詰まってるみたいな感じだよな」
「ほんとの匂いは違ってたんでしょ?」私は意地悪になった。
〝ほんとの匂い〟に、けーくんは考え込むように目線を落として唇を噛んで苦しそうな表情になった。それで、上目でちらっと私を見て、言っていいのかどうか悩んでる様子を見せた。私は促すように小さく頷いた。
「あの日からずっと、フッカをアップルサイダーの匂いに感じてた……」
「あの日?」なんだろう、いつのことだろう。
「一番、最悪の日が、最高の日になって……、あいつのアップルサイダーに記念のカードを落っことして、慌てて拾い上げた指先に付いた甘い味と香り……」
なにか特別な日に特別なことがあった。それはきっと二人が結ばれた日だ。そのときに文香ちゃんはアップルサイダーを飲んでいた。それが思い出の香りになって記憶の中に残っているに違いない。
けーくんはふうっと息を吐いて、顔を上げて私を見て優しく微笑んだ。それで、首を傾げた。
「でも、夢で見たフッカは、ちょっと桃っぽかったな」
それは、夢ではなく、きのうの私だ。この人はあのとき私を感じていたんだ。私は一瞬で全身がカッと熱くなった。
「きのうのアップルサイダーが、ほんの少し桃っぽかったんだよなぁ……」
もう、〝きのう〟つっちゃってるし!
「あのさ、オレ、きのう来たよね?」いきなり聞かれて動揺した。
「何しに?」少しキツめに言葉を返した。反応が見たかった。
「何って……」彼ははっきりとしない。
きのう、朝早くからここで私のことを待っていたのはコドモのイエの打ち合わせのためじゃない。
「フッカのことが好きだからオレと別れてくれ、お前とはちょっと遊びで付き合っただけだ。ってことだったでしょ!」多少アレンジしたのは私の悔しさのせいだ。
「あ……、うん、ちゃんと言ったんだね」けーくんが力なく項垂れた。微妙な違いを訂正して欲しかったけど、ほんとに遊びだったの?
私は、呆れてしまった。
「高森くん、ずっと寝てるんだもんなぁ」ずっと寝てたくせに、そのことだけはちゃんと私に伝えたのだ。余程強い気持ちがあったんだろう。
「ごめんね」
もう、ありとあらゆることに謝って欲しい。
「いいよ、高森くんなんかと一緒にいて、乙女を穢されなくてよかった。別れて正解」
「そんな……」
困った顔をする。困れ。せめて困れ。子供の憧れなんかままごとみたいなものだってふうに、平気な顔してヘラヘラ笑うんじゃない。
あんただって、必死に追いかけた日があったはずだろ! 中学なったら忘れるのかよ! 悔いろ!
「これからは、私が代表で高森くんはボランティアナンバーHだからね」
「なんだ、Aじゃないの?」
話題が変わって安心したのか、平然とした彼が余計に腹立たしい。
「Aはみさとちゃん、Hはただのスケベってこと!」
「ひどいなぁ」けーくんが私の肩に手を置いた。
馴れ馴れしいし、顔が近い。そして、危険なほどに手のひらが熱い。
「高森くんが居眠りしてる間に、みんないろいろ意見とかアイデアとか出してたよ。コスプレやろうとかさ」肩に乗ったけーくんの手を払ッた。
「コスプレ? 子ども食堂で!?」
けーくんの笑い声が私のあらゆるものを無神経に逆撫でして苛立たせる。
私は座椅子を蹴るように立ち上がった。きのうみたいな目をしたけーくんが怖い。怒鳴りたくなる自分が怖い。泣き叫びたくなる自分が怖い。〝栓〟を抜いてこの世界を真っ白にリセットしてしまいたい自分が怖い。
「ちょっと、飲み物取ってくる」
彼の顔を見ず、返事も聞かずに部屋を飛び出した。
バカだ。バカ。私は何をやってるんだ。やめた方がいい。やめるべきだ。頭が変なのか?
でも、もう注いでしまった。
キッチンにあった大きなビアグラスにたっぷりと注がれた淡黄色の透き通った液体はきらきらと泡立っている。
そうだ、まるでアップルサイダーみたいじゃないか。
これを出せば嫌われる。二度と顔を見たくないと思わせることができる。そうなるなら、頭から掛けてやってもいい。
三階に戻ってドアを開けると、けーくんがこちらを見上げた。
手が震える。バカだ。いまさらもう遅い。
私は心の迷いを振り払った。
「はい、お待ちどおさま」彼の前にビアグラスを置いて、私は座椅子に座って自分の手にした缶のプルタブを引いた。
「なんだ、結局それかよ」けーくんが私の缶を見て呆れてる。
私は冷蔵庫に入ってた梅酒のソーダにした。酒でも飲まなきゃやってられない。
「ほんと、おまえそれ好きだね」そう言いながら、けーくんは自分の目の前のグラスに手を伸ばした。
「何、これ。まさかビール?」生ぬるいビアグラスを変だと思っただろう。私は彼の反応が怖くて手にした缶をあおった。光の粒子が枯れた私はアルコールを消滅させられず、ヒリヒリとした刺激をむりやり喉の奥に押し込んだ。
「まさか。ほら、アップルサイダーだよ」けーくんを横目で見ながら缶を傾ける。こういうのもヤケ酒というのだろうか。
「アップル、サイダー……」けーくんが恐る恐るといった感じで、そっとグラスを顔に近付けて、匂いを嗅いだ。
「私の、搾りたて、生だよ」多分、私はもう酔ってる。饒舌と言うやつだ。どうとでもなれ。
けーくんはそっと目を閉じると、グラスに口を付けた。
「えっ」
けーくんは私のアップルサイダーを一気に飲み干したんだった。
「これだよ、この味と香り……」
唖然として言葉のない私を置いて、彼はひとり話し始めた。
「……あんな寒い中、オレの足元でお尻出してさ、オレの靴、ずぶ濡れにして、ティッシュがないからって代わりにオレのハンカチで拭いて、そのくせさんざんドジとか役立たずとか文句言って……」
あ、アップルサイダーっていうのは本当にあの子の!?
「オレ、バカだった。あれで全部、オレのものになったって思っちまった。もう大丈夫、オレたちもう離れられないって! バカだ」
なんのこと? けーくんは何を言ってるの?
「あれから、おまえのこと、全然大事にしてやらなかったよね。もっと、もっといっぱいカードを送ればよかった。もっといろんなところに連れてってやればよかった」
あの二人に何があったんだ? 知りたい、私の知らない二人を。
「なあ、フッカ、オレ悪かったから、ごめん、謝るから、もっと大事にするから、だから、こんな夢ん中じゃなくて、ちゃんと起きて会ってくれよ!」
だめだ、酔ってる。梅酒のソーダは紛れもなくお酒だった。心臓がドキドキして、顔が熱い、目の前がぼんやりと霞む。
こんな、私のアップルサイダーを飲み干した唇を、優しいなんて思っちゃだめだ。深く知りたいなんて思っちゃだめだ。自分から求めちゃだめだ。
「フッカ……、会いたい……」
そう、苦しんでるんだね。その苦しみを、私に…………、いや、もう、どうでもいい、そんなこと。飲みすぎちゃった。考えるのも面倒になった。
「寝ててごめんね、せめて夢の中だけでも優しくして」私は、夢のフッカでいい。もうそれで。
「いや、いい、いいんだ、こうして会えるだけでも!」
けーくんが私を抱いて涙を流しながら、鼻水を頬っぺたに刷り込んでくる。ベタベタとした粘液の感触が、きのうの私の記憶を甦らせた。
私は酔ってしまったことを言い訳にして、けーくんの優しさが力強く逞しくなるように彼を手のひらで包み、指先でなでた。
「お兄ちゃん、泣かないで。ほら、きのうみたいに。ね、しよ……」
彼の指先が優しく私をなぞった。




