(六十)
(六十)
「おはよう」
リビングダイニングに顔を出したのは、まだ少し早い時間だった。
「あれ? 早いね、大丈夫?」お母さんがキッチンカウンターの向こうで顔を上げた。
「無理しなくていいんだぞ」ダイニングのお父さんは朝ごはんを食べ終わってて、仕事に出る格好でコーヒーを飲んでいる。
「うん、もうぜんぜん平気」
ダイニングの自分の席について、目の前のお皿に乗った目玉焼きのうっすら透けて見える黄身を指で突っついた。行儀が悪いようだけど、ふるふるとした感触は触らずにはいられない。絶妙に白身だけが半透明に固まって、中の黄身は熱々のどんろどろだ。
ミニボウルのヨーグルトは甘くないプレーンのやつで、酸っぱくないけどガツンとくる旨みもない。可もなく不可もなくへなちょこな、テレビのコマーシャルでよく見かける人気のヨーグルトだ。人はそうやって身の回りからどんどん刺激をなくしてしまって、刺激はお金を払って体験しに行くものになった。だから幸せな刺激はお金持ちだけが得られるもので、貧乏人は苦しい刺激だけを体験する。
(あれ? 私、朝っぱらからなに考えてんだろ)
そうそう、メシメシ!
きのう、コドモのイエの難しい話をずっと聞かされてたせいだ。まだ朝の六時半だ。代表の仕事はお腹を満たしてからでいい。
冷たい牛乳で溶かすコーンスープは粉末の入ったパックがカップと並べておいてあるセルフサービス。食パンのトーストは、いまお母さんがトースターを占拠しているので順番待ちになってる。食パンは自分の好みで焼くのが我が家の決まりだ。
お母さんがパート勤めを始めてから、食事はこういった簡略化が進行している。
お父さんは「専業主婦は働きすぎだ」と常日頃から言ってたから、お母さんがパートに行くならなおさら家での仕事の量を減らさないといけないんだそうだ。
ワイシャツとかのアイロン掛けはお父さんの分担になった。本当は朝の洗濯機回すのもお父さんがするって言ってたらしいけど、お母さんに「年頃の女の子のパンツをおっさんが触るな!」って叱られて断念した。お父さんは私の使用済みパンツを観賞できないことをものすごく残念がってたらしいけど、私は一安心だ。
お母さんが焼きあがったパンをお皿に乗っけてキッチンからカウンターを回ってきた。お母さんの焼き加減はレベル7でこんがりと美しいきつね色だ。
代わって私がキッチンに立って、トースターにパンを放り込む。タイマーを回してオレンジ色に輝く光の窓を覗き込んだ。私の目標はレベル3だ。
「すっかり元気になったみたいね」
私がトースターに二枚パンを入れたのを、お母さんはしっかり見てたようだ。
「もう、お腹、すっからかんだもん」ホントなら、夕べのハンバーグ定食が私の成長の糧になってたはずだった。
「高森くんに感謝しないとね」お母さんがお父さんの前で彼の名前を出すのは珍しい。
「まあ、命の恩人ってことだからなあ」お父さんはいつも私の男性関係の話題には不機嫌になる。でも、今回は仕方ないってこともあってか印象は悪くないようだ。
「命の恩人は大袈裟だよ」
確かに、昨夜のお父さんの騒ぎようは、私が死に直面したみたいな感じだった。
けど、実際は寝てるうちに吐き戻してベッドで苦しんでただけ――お漏らしの方はお母さんが上手く隠してくれたのでお父さんにはバレていない――なんだけどね。
きっと、お母さんは私とけーくんとの交際を応援するつもりで、わざわざお父さんの前できのうの話をして、彼がいい人なんだというイメージを植え付けようとしてくれたんだと思う。
昨晩、けーくんが真夜中に家電の方にいきなり電話を――たいてい電話っていきなりだけど――掛けてきたらしい。
お父さんもお母さんも、そんな遅い時間に何をしてたのかたまたま起きてて、「何度連絡しても返事がないから様子を見てくれ」という彼の強引な言葉に、呆れながらも念の為にと私の部屋を覗いたら、愛娘がベッドの上でのたうち回ってたってわけだ。
「こんど家に来たらお礼をしないとな」
ということは、けーくんが家に来ることについては歓迎してくれるということなんだろうか。お父さんはそんな感じでいつもの時間に仕事に出ていった。
お父さんを玄関までお見送りに行ってたお母さんがスキップしそうな雰囲気で戻ってきた。
お父さんとお母さんは、私が小さい頃は一緒にお見送りに行くと、必ず〝行ってらっしゃいのチュッ〟をしてたけど、私が小学校に入るぐらいからしなくなってた。
今年になって、私がお見送りに行かなくなってどうやら復活したらしい。お見送りの時間が長くなったからそれがわかる。時々、お母さんの「バカ」とか「こら」とか、甘えた声でお父さんを叱ってる言葉がリビングまで漂ってくることがある。
お二人さんにはきのうの分も併せて今夜はゆっくりさせてあげたいと心から思う。
私は話し込んでていつの間にかレベル13を超えて石炭みたいになってしまったパンにガリガリとマーガリンを塗っていた。
見事なパンを見たお母さんが爆笑している。
お母さんは昨夜の疲れも中途で終わったご不満もなく、至ってご機嫌のようだ。お見送りのときになにかお父さんとお約束をしたのかもしれない。
パンには、一枚にマーガリン、もう一枚はジャムを塗ろうと思う。苦味を感じないぐらいたっぷりと。
マーガリンを厚めに塗ってかじると、歯触りは高級感のあるラスクのようだけど、味は、食べたことないけど石炭。お皿が粉炭で真っ黒になった。
食事の後で、歯磨きに洗面に立って鏡に向かって、ニッ、と歯を見せると、綺麗なお歯黒に染まってる。昔の人は、こういうのを美人って思ったんだよね。大人の女のたしなみだった。
しばらく鏡の前で百面相を楽しんだあと、口に歯ブラシを突っ込んだ。
お母さんと食卓で笑っていると忘れてしまっていたけれど、こんなふうに一人になると、ふと、頭の中にむくむくと甦る記憶と、それにくっ付いていろんな思いが湧き上がってくる。
(私、大人の女になったんだった……)
邪念を振り払うようにがしゃがしゃと乱暴に歯ブラシを動かして、鏡に向かって歯をむきだした。
(よし、乙女の歯に戻ってる)
気になってた歯並びとか黄ばみなんかもなくなってて、美白の完璧な歯だ。
顔を洗って、頬っぺたを両手で叩いて気合を入れると、ダイニングに戻ってお母さんの向かいに座った。
お母さんは洗濯が終わるまで、新聞の今日のチラシをチェックしている。目に付いた特売のシャインマスカットに心が動いたけど、ひとまず我慢する。
小さく咳払いをして、お母さんの注意を引いた。
「お母さん、報告があります」
お母さんは、おや? て顔になったけど、私が胸を張って背筋を伸ばすと、「はい」と返事をして同じように向かいの椅子で居住まいを正した。
あんまり改まりすぎると逆に話しにくい。
「私はきのう、けーくんとキスをしました」なんだかクラスの発表会みたいになってしまった。
お母さんは私をじっと見て、さほど驚いた様子もなく「そう」と頷いた。
「……ということであります」お母さんの予想外なリアクションにこっちが動揺して、軍隊みたいに敬礼しそうになった。
「きのう帰ってきたとき様子が変だったし……」お母さんはふうっと大きく鼻から息を吐いた。
「それに、夜中に高森くんからあんな電話でしょ? 何かあったんだろなって思ってたよ」
お母さんは落ち着いてて、取り乱したり怒ったりしてる様子はない。
「はい、ごめんなさい」私は項垂れるように頭を下げた。はい、ホントはキスどころではないんです。でも、なにかあったときは、なにかを報告するというお母さんとの信頼関係を保ちたかったのです。
「謝らなくていいでしょ? ちゃんと言ってくれてありがと。あなたもちょっとは大人になったかな?」はい、もうすっかり大人です。どんとこいです、どうとでもなれです。私がいまここにいるのも、私の体の中に残っていたけーくんの命の種のおかげでギリギリ彼を動かすことができたからです。そんなことを小学生のくせに、あの状況で思い付くなんて、間違いなく変態です。いま思えばショコラちゃんに貰ったやつを使わなくて本当によかったです。
それで、私は覚悟を決めました。
「うん、私も、タキちゃんみたいにならないように、けーくんには、ちゃんと気持ちを伝えるようにするよ。ここから先は大人になってからって」
お母さんは微妙な顔で頷いた。納得してくれたのかどうかは分からないけど、もし私が内緒でどんどん進んじゃったら困るとも思っただろうから、少なくともいままでみたいにお話できるように仲良くはしてくれそうだ。
それから、二人で男の子とのお付き合いについて、難しくない感じの恋バナふうの話をした。お母さんの初めてのキスの話は、すごく新鮮でお父さんには絶対に知られてはならないロマンティックな物語だった。
ただ、私の方はけーくんとは少し距離を置こうと思っている。余りベタついた関係になって、弥生ママに怪しまれても動きにくくなる。事務的に、これからは高森くんとでも呼ぶことにしよう。
お母さんが洗濯物を干すのを手伝って、私たちは少し早めに出かけることにした。
きょうは、できるだけ保護者と一緒に登校するようにという一斉メールが学校から来ていたからだ。きのう、不審な事件が学校の周辺であったらしい。
「新学期早々物騒で嫌よね」お母さんたち保護者は始業式の後に学校から事件の説明と注意の話があるらしい。
「でも、きっと事件なんて私たちには関係ないよ」私はぜんぜん心配していない。
ランドセルを背負って、準備が整った私にお母さんが驚いた。
「あれっ? それ着ていくの」
「そだよ、私のトレードマークだもん」きょうも白装束を身にまとった。死装束と言ってもいい。夏休みは、変な服着て、カレーを食べて、最後の最後にエッチまでした。これからは、ずっとこの服で学校に行こうと決めたんだ。九月でノースリーブは季節感に多少ズレがあるけど、まだまだ猛暑日もあるぐらいだから問題ないだろう。学校では真冬に半袖の子もいるぐらいだ。もちろん下着もちゃんと付けたけど、この薄い生地でも、絶対に中が透けないように光の反射と散乱をコントロールしてるから透けて見える心配はない。
「けど、その服だと真っ黒なランドセルが映えるね」お母さんの印象はそれほど悪くはない。
「そうでしょ、カッコイイぐらいだよ」ランドセルは天使と悪魔のイメージで漆黒にしてみた。みんなの記憶の中に私の赤いランドセル姿はもういない。
これからは、世界中の子供たちに希望を与える存在になるわけだから、見た目も重視したいと思う。
家を出て、玄関を閉めようとしたとき、お母さんがあっと声を上げた。
「いっけない、鍵忘れてきた」お母さんはちょっと〝そそっかしいところが可愛い〟というのがお父さんの評価のようだけど。だとしたら、お母さんは近ごろ可愛さがすぎる。
「はい、これ」私は手の中からお母さんのキーホルダーを出した。
「あっ、きらる、持ってきてくれてたの?」
「うん」
そう、私はなんでもできる。
きょうから私が『世界さん』なんだ。




