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(六)

   (六)


 ここまで来れば大丈夫だろう。


 何が大丈夫なのか? そうだ、少なくとも近くに彼はいない。

 人通りのない道端で、立ち止まって電柱にもたれた。濡れた靴がぐじゅぐじゅいってこれ以上歩きたくない。特に右の靴が酷い。

 スカートは見たところほとんど濡れていないようだ。これがズボンだったら悲惨だったろうな、と思いながら手を後ろに回してお尻を触ったら結構濡れていてガックリした。


 彼にバレただろうか。

 きっとバレたに違いない。


 いや、あれで分からないようじゃ、彼はとんでもないマヌケだ。

 あんなところで漏らしちゃうなんて。

 これじゃあ、恥ずかしくてもう彼に会うことなんかできない。靴も、靴下も、下着も、何もかもが気持ち悪い。特に下着はヤバい状態だ。できるものなら脱いで絞りたい。公園でも行って水道で洗おうか。


 あの時と(おんな)じだ。


 バーベキューのとき。私は騒ぎの中、濡れた靴を引きずるようにして、こっそりと家に帰った。

 こども園の頃は毎日のようにお漏らししてたけど、小学校に入る前にぱったりと止まった。お母さんは〝漢方〟が効いたって喜んでいたっけ。もうすっかり治ったと思ってたのに。

 バーベキューのときは人が倒れるという凄いショックな出来事があったからあんなふうになったんだと思ってた。

 さっきは緊張しすぎたのか、それとも何かの病気なんだろうか。

「あー、サイアク」

 思わず声に出したら、サイアクさがさらに増して超サイアクになって、私は空を仰いだ。

 白い雲がゆっくりと流れている。


 私の恋は終わった……。


 たいして始まってもいなかったのに、もう終わってしまった。

 もっと彼と仲良くしたかった……。

 神社に行って、これから教会に行って、お寺にも行って、神様巡りして。年寄り臭いけど『シッコクサイ』よりずっとよかったのに。


 彼が欲しかった。

 雲の切れ間から太陽が覗く。

 眩しくて…………、


――――『きらり……』


…………目を見開いた。


 空に開いた光の穴。

 あれは、あのときに感じたのと同じだ。


――――『世界』


 えっ、あ、あ、あぁ…………。


 お腹の中に残っていたのが流れ出してまた下着を濡らす。

 ああ、なに? なんだろう。一瞬だけ、ものすごく気持ちが良かった。目眩がしそうなほどの、突き抜けるような感覚。

 でも、脚を伝って靴の中にぐじゅぐじゅと溜まると不快さがそれを上回った。

 やっぱり右の靴の方だ。まだこんなに残ってたなんて。

 靴の周りのアスファルトが濡れていくのを見てると泣きたくなってきた。

「きらりちゃん」

 彼の声がして、驚いて顔を上げた。道の向こうに彼の姿が見える。

 どうして彼がいるんだろう。帰り道とは全然違う方向のはずなのに。

 追いかけて来てくれたの?

 彼はゆっくりとこちらに歩いてきてる。私は彼の方に真っ直ぐ体を向けた。本当は背中を向けたいんだけど、濡れたお尻を見られたくない。

 でも、なんて言っていいのか分からなくて、彼の顔を見れずに俯いた。心臓のドキドキが耳の奥まで響いてこめかみが痛くなる。

「大丈夫?」

 これが大丈夫なわけないんだけど、必死で自分の中に残る極微量の大丈夫な成分を探し出して小さく頷いた。

「家まで送っていくよ」

 ダメだ。この格好で帰りたくない。

 私はクラクラするぐらい激しく首を横に振った。

 きっとお母さんにいろいろ言われる。バーベキューのときはお父さんにまで話をされて、病院に連れていかれそうになった。五年生にもなってお漏らしで病院に行きたくない。バイパス沿いの久坂内科・小児科の待合室のイスには常に知ってる子が座ってる。

 彼とは一緒にいたいけど、このままだといたくない。神様は意地悪をしないで欲しい。

「じゃあ、近くに子供の家があるからそこでシャワーでも浴びて着替えるといいよ」

「子供の家?」



 子供の家は『コドモのイエ』と書く。ここからは歩いて十分ぐらいの所にあるらしい。あのなんとかっていう会の施設だそうだ。

 彼が私の足を大きなタオルハンカチで拭いてくれたから歩きやすくなった。靴に溜まったのもそのタオルで押えてくれたし、靴下は絞ってくれた。

 そのあいだ、ずっと優しく語り掛けてくれて、緊張していた気持ちも柔らかくなった。

 というか、ここまでされると、もう恥ずかしいという気持ちも吹っ切れてしまって、どうにでもなれと開き直りになる。でも、さすがに下着も絞ってください、は言えない。靴下を脱いだとき、「下着は大丈夫?」って聞かれたけど、ちゃんと「大丈夫です」って答えた。

 もちろん、私が「大丈夫じゃない」なんて言っても彼が困るだけだろうけど。あんなのを彼には見せられない。

 けど、この重たく冷たい下着を脱いでサラサラのタオルで彼に優しく拭いてもらったらどんなに気持ちいいだろうと思う。

 けどもし「ここも拭いて」なんてお願いして、喜び勇んで拭いてくれるような人だったら幻滅だ。


 濡れたスカートは、「そんなに目立たないよ」と言ってくれたけど、彼は人が来たら後ろを隠すように歩いてくれた。

 並んで手を繋ぎたいけど、彼の手が私のおしっこを絞ったんだと思うと、いまはパス。

 こうやって前後に並んで歩くと彼との集団登校を思い出す。あの女は邪魔だったけど、彼は集団登校でも気を使ってて、私の様子をよく見てくれていた。危ないときとか、声をかけてくれたり、躓いたらサッと支えてくれたり。荷物を持ってくれたこともある。

 そう考えると、あの頃から彼は本当は私のことが気になって気になって堪らなかったのかもしれない。

 卒業して私と会えなくなったから、仕方なく隣ん家(となりんち)の手近な女で我慢してしまったんだ。

 それとも、あの女がいろいろ誘惑したのかもしれないし。

 昔聞いた話では、あの女は元々世田谷で生まれ育ったらしい。都会の女は目を付けた男を手当たり次第に摘み食いするって言うし、こんな田舎の純情な男の子を色仕掛けでたぶらかすことなんてきっとあの女にとって赤子の手を捻るより容易いことだったに違いない。

 何しろ彼は真面目で爽やかなくせして、女の子の胸が大好きだからだ。

 私は知っている。集団登校の班長をしてた発育のいい女の子とは顔を見ないで胸に向かって話をしてた。

 そういうところだけはしっかりオスだ。女の子の服の胸元や袖ぐりに隙間があると、必ずそこに視線がある。そのせいで私は夏になると大きめの緩い服を着なくちゃならなかった。

 あの女にそれをネタに何か弱みを握られてむりやり付き合わされてた可能性もある。

「もう、すぐそこだよ」

 不意に彼が隣に並んで少し先を指差す。

 すぐそこと言われて彼の指の先を覗いてもなんの特徴もない住宅街しかない。

 彼がその手で鼻の横を掻くとひやひやする。その手がさっき私の靴下をギュッて握って雑巾を絞ったみたいにたっぷりのおしっこで道端を濡らしたんだ。

 あれから時間が経ってるから彼の手はきっとすごく臭くなってるに違いない。臭いを嗅いだりしてないだような。

 彼が手を下ろしたとき、彼の手が私の肘に当たった。

 そう、この手だ、この手!

 思わず横で揺れてる手の甲を人差し指で突っついたら、彼がパッと手を握ってきた。

 心臓が止まるほど驚いた。

 心なしか彼の手がべたついてるように感じる。私の手がべたついているのは手汗のせいだ。

 嬉しいのに何となく居心地が悪い。私の手のひらをくすぐるいたずらな彼の親指を握って掴まえると、彼の手のひらは私の手を大きく包み込んだ。

 彼が繋いだその手をキュッと握ってくる。

 ああ、神様、私はいま彼と手を繋いで歩いています。素直に感謝申し上げます。さっきはいないなんて言ってごめんなさい! 今度からちゃんと百円入れます!

 おしっこなんか後で洗えばいい。

 いや、もうこの手は洗いたくない。彼にももう手を洗って欲しくない。

 洗うなら私のおしっこで洗うといいんだ。

 いくらでも掛けてあげる。

 ずっと私のおしっこでずぶ濡れになって、私の匂いが染みついた手で勉強したりご飯を食べたりして一生を過ごすの。

 彼が私の()なる泉に手を差し伸べて、()なる水を受け止める! なんて!

 ああ、もお、バカ! 私はなんてロマンチックな(恐ろしい)ことを考えてるんだろう。

 きっと、彼と手を繋げて頭がおかしくなっちゃったんだ。

 彼の顔を見たいけど、顔をあげられない。彼はいまどんな顔をしてるんだろう。

 繋がった私の中で彼が優しく動いてる。

 焼けるほどに熱くなった頭の奥で、ズキズキと心臓の音が響いている。

「ここだよ」

 彼が立ち止まった。

 いやだ、せっかく手を繋いだんだ、もっと一緒に歩きたい。スカートと下着が乾ききるまで陽だまりの中を散歩したい。

 訴えようと顔を上げたら目の前で彼の微笑みがキラキラしてて何にも言えなくなってしまった。




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