(五十六)
(五十六)
けーくんは荒々しかった。
獲物を仕留めるために、全力で挑みかかる野獣のように私の唇を求めた。
「フッカ、オレに応えて、オレだけを見て!」
求めるなら私を、きらりを求めなさいよ! きらりはあんたのことがずっと好きだったんだよ!
グイグイと衰えることのない力でこの子が求めているのはなんなんだ。いまあんたが唇を合わせてるのは白井文香じゃないんだよ。あきもときらりなんだよ。いや、きらりですらないんだよ。どこにもいない幻、あきもときらるなんだよ。
ひょっとしたら、私が彼の求めに応えたら、私のことを分かって貰えるのかもしれない。
この状況を変えられなら、試してみよう。どうせもうキスはされてしまったんだ。
こんな、なんて言ったっけ……、そう、こういうのを受け入れてしまうのはきらりに叱られそうだけど、それでも、何もしないよりかはマシだ。
私は、きらりが弥生ママとの交わりで覚えた大人のキスをほんの少しだけ、けーくんに返してみた。
その瞬間、ドンと頭が叩きつけられるような衝撃に私は思わず目を見開いた。
私の反応に、けーくんが勢い付いたのだ。
彼の驚くほどの圧倒的な力に、私はビッグマックにかぶりつくみたいに口を開かされ、このまま顎が外れてしまいそうだ。これはもう私が知識で知ってるキスではない。まるで命のやり取りだ。バカな子供が大人の真似をしたって痛い目に遭うのがオチでしかなかった。けーくんはそれほどまでに大人になっていた。
違う、私は本当はこんなキスなんかしたくなかった。いまはただ逃げたいだけだったのに。
小鳥がくちばしを触れ合うような、幼い口付けに、はにかみ頬を染める、そんな初めてのキスを夢見ていた。
私はけーくんの胸を押した。肩を、腕を、押し戻して体を離そうとした。けれど、巨大な岩盤のように私にのしかかるけーくんはビクとも動かなかった。
彼は左手だけで私を抱きすくめると、自由になった右手を思う存分動かした。野獣が肉を喰らうような荒々しい彼の口顎とは正反対に、その右手の動きは柔らかで繊細で、おそらく優しかった。
でも、それを受け入れる余裕も、寛容も、精神も、気持ちも気分も雰囲気もそれらしい気配すらも私は全く持ち合わせていなかった。
きらりがおまたをいじったり、ママと交わったりするときに感じるという、世界を支配しているような圧倒的な全能者の快感を伴う悦びの感覚というのを少しも感じない。あるのはスリラーハウスを進むようなザワザワとした皮膚が粟立つような不安だけだ。
きらりに助けを求めようと、あみちゃんまみちゃんのときのように深く精神の海淵の最深部に潜航して探してみても、きらりの痕跡すら見つけられなかった。
【きらり、起きて、私に気が付いて!】
こうなったら、やはり自分でこの運命に抗うしかない。
両手で彼の頬を捻るように押し上げて、何とか唇に隙間を作った。
「きらりきらきらおほしさま! 倒れろ! そして眠れ!」
私に残る全ての気持ちを込めて、空っぽになっておまじないを放った。
しかし、けーくんは倒れることなく、勢いよく立ち上がったんだった。
でも、いいんだ。倒れなくても、私の上からいなくなってくれればいい。
重圧から解放されて、ほっとした私はほんのわずかな時間、目を閉じて大きくお腹を波立たせながら息を整えた。けれど、それは間違っていた。
私は息など整えずに、死に物狂いですぐさまこの部屋から逃げなければならなかったんだ。もっとも、そんな力はもう私には残されていなかったんだけど。
薄く目を開けると、けーくんが優しく私を見下ろしていた。
そして、私に戻ってきた。そして、キスをした。
それは、さっきまでの荒々しさが嘘のように消えた、慈しむような穏やかなキスだった。ただ、その慈愛は白井文香に対するもので、私に向けてのものではない。
バカだな、私って。こんなときにこんなことを思い出すなんて。
体育のときとかプールの授業とかで、男子はなんであんなに着替えが早いんだろうって、いっつも思ってた。みんなスピードを競うように、一番で着替えるのが栄誉なことのように素早く脱いで着て。男子ってバカだな、お子ちゃまだよなって思ってたけど、あれはこういうときのためだったのかな。脱いでる間に相手の子に逃げる隙を与えないように。
私に体を合わせたけーくんの素肌は燃えるように熱かった。
そうだ、クラスの中で吉森くんは特に着替えが遅かった。とろとろとした動作で、ボタンを留めたり外したりも下手な手先の不器用なフィジカル0の子だ。
あれは去年の夏休みのプール開放の日のことだったっけ。男子の何人かが更衣室を使わずにプールサイドで着替えてた。
監視の先生は軽く注意をするだけで、事故さえなければ自由にしろって感じだった。
最初に着替えた子達が、のんびり着替えてる吉森くんの巻タオルをパッと奪って、ふざけてドンと体を押した。吉森くんはふらふらと転びそうになって、たまたま近くにいた私にぶつかった。なんにも身に付けてない男の子が私の視界に飛び込んできた。
男子たちが「秋本が見てたぞ!」って騒いで冷やかして、きらりは無視してたんだけど、あのとき、私、吉森くんのおちんちん見たんだよなぁ。結構、ガン見。
ギラギラした凶暴な感じのじゃなくて、日焼けのない白くてちょこんととんがって、小さいくせに威張ったように上を向いて、意外と可愛かった。ちょっと触ってみたくもあった。
吉森くんって、トロイところがあるけど、いじめられっ子じゃないし、みんなと普通に友達なのに、なんであのときあんなことになったんだろうって思ったけど、ひょっとしたらみんなは吉森くんが私のことを好きなのを知ってて、わざとやったのかもしれない。ううん、もしかしたら、吉森くんもみんなとグルになってて、私におちんちんを見せようと思ったのかもしれない。そうだよ、そういえば、あんなときにぴんって上を向いてたって、なんか変だよね。あれは、私へのアピールだったのかな?
今年の春に吉森くんからラブレターもらって、きらりはなんだかんだ理由を付けて断っちゃってたけど、私だったら、交換日記ぐらいしてあげてもよかったかなあ。
きらりはわかりやすいイケメンが好みなんだけど、私はお坊ちゃん系が結構安心できていいんだよね。亮平くんみたいな感じの子とかさ。案外気になったてのかもしれないなあ、見ちゃってから、吉森くんのこと。
そうだ、今年は一回もプールに行かなかったな。
ずっと変な服着て、カレー食べて……、か。夏休み中、乱れた生活ばっかりだったもんなぁ。吉森くんなんて、休みの日でも規則正しく六時に起きるタイプだ。毎日学校に来るのは彼が一番だったみたいだから。
もし私に自分の体があって普通の女の子だったら、手紙もらって、オーケーして、そしたら今年の夏休みなんか、二人でプールデートとかして、こっそり見せっこするぐらいのハプニングがあったかもしれない。
あの子のなら、そんなに怖くないかもしれないし。
いま、私を抱きしめてるのが吉森くんだったらどうだろう。少しは幸せな気分になるだろうか。
いや、吉森くんにこんな動きをされたら、余計に変な気持ちになりそうだ。
けーくんの動きは全てが穏やかで残虐だった。
全力で仕留めた獲物を、ゆっくりと心ゆくまで味わうことができるのだから焦りもない。
効果のないおまじないでも、私の体力や気力を空っぽにさせてしまっていた。
哀れな草食動物が肉食獣に食べられるとき、苦痛を感じないように脳内に麻薬のようなものが溢れてくるらしい。いまの私は、そういう状況なのだろう。とても安らかな気持ちがする。
いま、彼の一番熱いところが、私の乙女の入口を懸命に探してる。
どうせ、このことをきらりは知らない。けーくんも私のことなんか覚えていない。全く意味のない行為。
でも、けーくんが満足したらそれはそれで意味はあるのかな。朝起きたら男の子のパンツがベトベトになってるよりかは彼にとって充実した達成感があるのかも。
〝穴さえあればいい〟とか〝動くオナホ〟とか、酷い言葉だけど、それはそれなりに意味はあって、存在そのものが〝無〟でしかない私よりもマシなのかもしれない。
けど、こういうこと、けーくんはあんまりしたことないのかな?
入口まで来てるのに気付かず通り過ぎたり、いきなり入ろうとして鴨居に頭をぶつけたり。
文香ちゃんとは何年も付き合ってて、お泊まりもして、旅行にまで行った。何度もこういうことがあったんだと思うんだけど。だって〝前みたいに応えてくれ〟って言うぐらいなんだから。
私とは上手くいかないみたいでなんだか戸惑ってる感じだけど、でもきっとそれも時間の問題。
どうせ、私だって何年か先にはそうなることを望んでたんだから、それがいまになったからって構わないよね。
そうだ、けーくんが私じゃなくて白井文香と思ってたとしても、相手が私だという事実は事実だ。なにか証拠を残しといて、後で「責任取って!」って迫ってもいい。
あっ、そうだ、〝既成事実〟だ。そういうのを〝既成事実〟って言うんだった。
それが〝良いか〟〝悪いか〟じゃなくて、〝実際にあった出来事〟なんだから、受け入れるってこと。
私は、キスもそうだけど、そういうのは正しくないって思ってたんだ。起きた〝事実〟じゃない、心を含めた〝真実〟が大事なんだとずっと思ってた。
だから、心の奥で白井文香を排除しようと願った、あのバーベキューの日のことをけーくんに打ち明けたんだった。
これから起きるこの人との逃れられない事実を正しいこととして受け入れますか?
『はい』or『いいえ』?
私は、選べない。
好きも嫌いも良いも悪いも、頭の中で整理されないままにぐちゃぐちゃになって渦巻いてて、たった二つに一つの選択なのに、ただただ難問すぎて、もう考えるのが面倒にさえなる。
これは小学五年生の夏休み明けの理解度テストの問題じゃない。高校の入試問題だ。大人になるためのテストだ。
きっとけーくんなら解けるんだろうなぁ。
それなら、後で彼に「どうだった?」て聞けばいいのかな?
でも、もし許されるのなら、一つだけ選択肢を増やしてくれたら、それを選ぶんだけどな。
『はい』or『いいえ』or『待って』
私がこの問題を解けるだけの大人になるまで、少しだけ、ほんの少しでいいから、時間をください。
でも、もう待ちきれないよね。分かってる、けーくんはちゃんとした男子中学生だもんね。
はい、どうぞって私から、ショコラちゃんにもらったやつをひとつを渡すのも変だし、もう、いっそのこと全部忘れて寝たふりしてしまおうか。
「だめだよ、秋本さん。気持ちが落ち込むときはね、だらだら寝てないで早起きしてお日様の光をいっぱい浴びなきゃ」
そうだ、きらりが文香ちゃんを呪い殺したって思い込んで、気持ちが沈んでた時期があった。毎晩なかなか眠れなくて明け方になってウトウトしてしまって学校に遅刻ギリギリで行ってたときに、吉森くんがそう言ってた。
お日様の光を浴びて、どうとかって……、そうそう、セロトニン……、セロトニンだ!
思い出した。
身体全体の情報をコントロールして生活のリズムを作る、全ての基本になる幸福物質セロトニン。
おまたのドーパミン、おっぱいのオキシトシン、そして、あとひとつは、光のセロトニン!
私のおまじないが効かないのは、必要な物質が足りないからだ。
きらりはおまたをいじって、おっぱいをあげて、光を感じて、そうやって力を溜め込んでいたんだ。おまじないで体力が消耗するのも、きっとそういう物質を消費してしまうからに違いない。
私はおまたは嗜まないけど、おっぱいはあげた。セロトニンなら、光なら集められる。
もう日が暮れかけて、外は暗くなってきてるけど、頭の中に光を感じてみよう。この世界には光が溢れてる。
ずっと星を観てきたんだ。微弱な星の光を強く感じてきた。天体望遠鏡のように、私の心に光を集めよう。
何億光年も先の無数の星々の光を。
私は、目を閉じて、星空を思い浮かべた。幼い頃に清里で見た、圧倒的な星空を。
心の中で、全ての星々が私に降り注いでくる。天球が輝き出して、やがて光り輝く空間の真ん中に私はいた。その圧倒的な光を頭の中に溜め込むと、温かで穏やかな気持ちになっていく。
私は、星になる、光になるんだ。
そっと目を開いても部屋の中には光が満ちていた。真っ白な煌めきの中で、けーくんだけが黒いシルエットになってそこだけが空間に穴が空いたように浮かび上がっている。
いける、光を感じる。お願い、きらり、『世界さん』私にも力を貸して!
ようやくけーくんが私をしっかりと捉えて、準備が整ったことを知らせるように、ほっと息を吐いた。
私がけーくんの頬を撫でると、彼はそっと顔を離して私を見つめた。それは私に絶望を与えるような、どんな悪魔よりも優しい微笑みだった。
でも、負けない。悪魔なんかに負けるもんか!
「きらりきらきらおほしさま」
私がそっと囁くと彼は不思議そうに首を傾げた。
「きらり……、きらきら?」
「そうだよ、きらりきらきらおほしさま」
私はもう何も怖くはなかった。ただ、優しい気持ちだけが形になってそこに存在していた。
「きらりきらきらおほしさま」
けーくんがきちんと私と同じ言葉を唱えた。
「そう、けーくん、上手だよ」
私は彼のおまじないを誘うように頷いた。
「フッカ、オレ、上手にできるかな」
けーくんは、もうおまじないさえ言ってくれればいい。
「大丈夫。さ、一緒に言って」
私はこの世界に救いを求めた。
「うん、一緒に行こう」
彼は私に文香を求めた。
私たちは互いに合図するように頷きあった。
絶望を希望に変えるときが来た!
お願い! きらり、光、世界!
「「きらりきらきらおほしさま!」!」
二人の声が重なって、けーくんが激しくぶつかってきた。
……あぁ、どこかで遠雷が鳴っている。
夏休みが終わった。




