(五十五)
(五十五)
ゆらゆらと揺れてる。
「……らりちゃん、きらりちゃん、きらりちゃん」
あれ? あれは、けーくんの声だ。
「おーい、きらりぃ、けーくんが呼んでるよぉ」
私はまだ眠い、彼の相手はきらりに任せよう。
「きらりちゃんってば、しっかり!」
「うるさいなぁ……、きらりは底に沈んでますよぉ。いま呼んでるから、ちょっと待っててくださぁい」そう答えながら重たいまぶたを開くと、すぐそこにけーくんの顔があった。
あっ、いっけない、いまは私がきらりだった。
「あ、ごめん、寝てた」急いで起き上がろうとしたけど、思いのほか体が重く言うことを聞かない。目だけ開いて周りの様子を確かめた。
三階の秘密基地。私は座椅子に座ってる。けーくんが私を覗き込むように見てる。
そうだ、きらりがみさとちゃんをどうとかって言って、私に前を任せて、それで、行ってみたらあみちゃんまみちゃんが襲われてた?
あれがなんだったのかは、後できらりに聞くとして、それにしても、なんだろう、この城山公園のトイレみたいな酷い臭いは?
あ、…………おしっこ!?
テーブルの下に突っ込んだちょっと揺らしただけで溢れそうなちゃぷちゃぷの洗面器、最後にお尻を拭いた湿ったタオル。濡れたバスタオルもワンピースもズボンも、部屋の中は臭いの元だらけだった。
結構匂いきついな。昨日の焼肉のせいかな。かなりニンニク効いてたもんなぁ。私、〝前〟で焼肉食べるの初めてだったから、浮かれちゃって、きらりは「やめなさいよ」とか言ってたけど、めっちゃ焼ニンニクとかもばくばく食べてたし、ひょっとして今日の会合って、私、臭ってた?
ショコラちゃんもみさとちゃんもなんにも言わなかったから全然気にしてなかったけど。まあ、他の子に「ニンニク臭いよ」なんてなかなか言えないとは思うけどね。
これからは、お漏らしする前の日は、匂いのキツイ食事は控えるようにしよう。
なんか、けーくんの顔が明らかに紅潮してるように見える。
ちょっとぉ……。けーくんって、きらりのおしっこ、好きだったよね。これ、私のおしっこだけど、きっと同じだよね。だとしたら同じ効果が出ちゃうのかな? けーくんのエッチモード。
しかし、いくらなんでもこの臭い、気にならないのかな? そんなに大きく深呼吸みたいに息をしない方がいいと思うよ。
まさか、私が寝てる間に、味見とかしてないよね? 洗面器の中の量がちょっと減ってないですか?
「フッカ、目が覚めてよかった」けーくんがほっとしたように私の肩に手を置いた。
「きらりです」キッパリと――まあ、ホントはきらるだけど――伝える。男の子がこういう場面で女の子の名前を間違えちゃいけない気がする。
「あ、あぁ、ごめん、きらりちゃん、だ。そうだ、きらりちゃん……、だよね」けーくんはぎゅっと目をつぶって「きらりちゃん、きらりちゃん」とつぶやきながら、邪念を振り払うように頭を振った。
「きょうは、フッカに……、あ、きらりちゃんに話があって、待ってたんだ」
ほら、さっそく、見事に間違えた。けーくんはまるで眠気を覚ますみたいにしきりに手で顔を擦って「待ってた、待ってた」と大宮のおじさんが酔っ払ったときみたいに頷いてる。
彼は明らかに普通じゃない気がする。素っ裸の女の子が寝てるところに平気で入ってきて、普通に話をしようとしてるところが既におかしい。
しかも、裸体の方に興味を示さずきちんと顔を見て話し掛けてくるあたりはまともな男子中学生の反応とは思えない。
この裸体そのものに男子中学生を引き付けるだけの魅力がないのかもしれないけど、それはきらりの体のせいだ。
男の子の前で裸でもまったく恥ずかしくない女の子の方も相当変だけど、その変なのもきらりのせいで私じゃない。私は、できれば恥ずかしくありたいと願う、まともな女子児童だ。
まあ、この状況で体に興味を示さないならその方がいい。どこかのタイミングでパンツを穿いてしまおう。私だったらそれでパンティーテックス踊るのも結構楽しいと思うんだけどね。
【きらり、きらり、けーくんが来てるよ。起きて】バックヤードに向かって声を掛けてもまったく反応がない。
「フ、フ、フらりちゃんは、オレのこと好きだって言ってた、よね」
なんで、この場で確認? しかも微妙だし。荒い息しながらそういうこと言うのは、かなり怖いけど。
「うん、きらりは、けーくんのことが好きだよ」きらるはそれほどでもないけど、嫌いって訳じゃあない。おっぱいあげたときは可愛いって思ったし。けど、おまたは積極的にあげたいとは思わない。
「それで、フッカ……」
「きらりだよ」いよいよ大丈夫かな、この子?
「あぁ、きらりちゃん、そう、きらり……、ん、きらり? あれ? おかしいなぁ……」後頭部をがりがりと掻きむしる。
おかしいのは、どう考えてもあんたの頭の方だ。
「オレ、あれから、ずっと考えてて、それで……」けーくんがおでこに手を当ててじっと考えてる。きらりと文香ちゃんとがこんがらがってるのかもしれない。
「ごめん、き、らりちゃん、オレやっぱりフッカ……、文香のことが好きなんだ」
きらりが振られたことより、けーくんがちゃんと相手の名前を間違わずに言えたことに拍手を送りたくなった。
でも、そうだよな、けーくんがきらりを向いていたのは完全におしっこ効果のおかげだ。冷静になれば文香ちゃんの方が顔もスタイルも性格もいいに決まってる。ただ一点、寝たきりになってるという問題があるだけだ。
男子中学生の旺盛な性欲ってやつを謎のおしっこフェロモンで引き寄せて、「好きな子をいつまでも待つより手近な女の子で満たしちゃいなよ」的に惑わしてただけだもんなぁ。きらりは満たさせてあげなかったけど。
そりゃ私だって代用品扱いじゃ嫌だしね。そんな形で愛されるぐらいなら死んだ方がマシだよ。
「まあ、けーくんの気持ちだからしょうがないよ。好きになってもらえるように、また地道に頑張るしかないよね」できれば直接きらりに言ってやって欲しかったけど仕方ない。起きてきたら私からそれとなく伝えておこう。【やーい、やーい、振られてやんの!】ってね。
「ありがとう、オレのために……」肩に乗せた手にぐっと力が入った。
「ん?」なにか変だ。けーくんが私を見る熱い眼差しの熱量が急激に上昇して、ぎらぎらと燃え盛っている。気のせいではなく、顔の距離が近付いてきてる。
「あのね、念の為に言っとくけど、私、きらりだからね」けーくんの胸に手を当てて、彼を押し戻しながら、ちゃんと確認と念押をした。この子はほっとくと自分に都合よく間違える恐れがある。
「いいんだよ、フッカ。もうあの子のことは気にしなくて!」
「は? だから、その、〝あの子〟って言うのがこの子なんだよ?」私は自分の鼻の頭を人差し指で差し示した。
「そうだよ、ずっと待ってたんだ、フッカ」けーくんが私の肩をぐいっと引き寄せるように顔を近付けてきた。
「……!」えっ!? 違う、きらりだよ、きらりだってば!
言葉にする暇もなかった。
なぜなら、私の口をけーくんの唇がきつく塞いでしまったからだ。
【うっ、うそぉ!?】
私は明らかな接触感を唇に感じながらも、この状況をすぐには受け入れられなかった。
嘘だ、嘘だ。何かの間違いだ。これは、これが私の初めてのキスなの?
いきなり、けーくんと!?
【きらり、きらり、起きて、ねえ、きらりっ!】せめて、きらりにこのことを知らせないと。
強い、顔を離せない。これが中学生の男の子の力なのか、それともけーくんの思いの強さなのか。
ぐんぐんと、座椅子の背もたれに押し付けられて身動きができない。必死で唇を結ぼうとしているのに、大人のキスが強引に入り込んでくる。
「ちょっ……、んー…………」ちょっと待ってと言おうとして唇を緩めた途端、一気に彼が攻め込んできた。
どうすることもできない。きらりの好きな人だと思うと、噛み付いたり引っ掻いたり、傷付けるような行為ができない。この身体のどこかに、きらりの気持ちが残ってて、この状況を歓迎してる自分がどこかにいるのかもしれないということを否定できない。
お願い、これぐらいにして、ねえ、これぐらいにしよう。けーくんがもし私のことを好きなら、優しくしてくれたら、私だってけーくんを好きになれるかもしれないよ。
そう願ったとき、けーくんの力がふわっと緩まって、唇と唇が触れ合うぐらいになった。
「フッカ、好きだ、愛してる」
「違っ……!」違う、違う。私は文香じゃない。なんで!?
けーくんは私を文香だと思ってる。長い眠りから目覚めて、いま目の前に現れたと信じてるんだ。
彼は私をきらりと思っていない。きらりは初めてのキスを知らない。いま、ここでキスをしているのはここだけの出来事。けーくんが我に返り、きらりが目覚めたとき、このキスはなかったことになる。
必死になって、唇を閉じようとした。口の中から彼を追い出そうと苦しい抵抗を試みた。
彼はぱっと顔を離すと、私に向かって叫んだ。
「フッカ、前みたいにオレに応えてくれよ!」
前なんか知らない、そんなの知らない!
私はありったけの力で体を捻って座椅子の背もたれから逃れ、ふたつ並んだ座椅子の座面の上に仰向けに転がった。
けーくんとの間に間合いができて、気持ちを集中させることができた。
けーくんには、ここで眠ってもらうしかない。
「きらりきらきらおほしさま!」
彼のおでこを目掛けて渾身のおまじないを撃ち放った。
けーくんがばさっと覆いかぶさってきたのは、眠りに入ったからじゃない。再び唇を求めてだった。
ダメか、やっぱり私じゃおまじないを使えないのかな。
【きらり、きらりってば!】せめて、このキスを、けーくんとの初めてのキスをきらりに……。いや、ダメだ、夢みてたファーストキスが恋のライバルと間違われて奪われたものだったなんて、悲惨すぎて、きらりに伝えられない。
けーくん、せめて私をわかってキスして!
なんとか状況を変えられないものかと、彼を落ち着かせる言葉を探していると、ふいに、スマホの着信音が鳴りだした。私のスマホだ。
けーくんも、ぱっと顔を上げた。
「けーくん、電話、電話」電話に出れば話してる間にけーくんが少しは落ち着くだろう。私がきらりだということに気付くかもしれない。
スマホはテーブルの上に置いていた。私はテーブルの上に手を伸ばして、スマホのありかを探った。
「あんなやつの電話なんか、出るな!」
けーくんが声を上げてテーブルの上を手で払った。スマホがどこか壁にでも当たったのだろう、カシャンという音が部屋に響いた。
あんなやつって、文香ちゃんの赤ちゃんの相手だろうか?
けーくんが痛いほど私を強く抱き締め、息が詰まるようなキスをしてきた。
スマホの着信音が遠くで鳴って、しばらくして止んでしまった。
私への電話はけーくんの感情をただ刺激しただけだった。
「フッカ、フッカ……」
「違うっ……」
けーくんは息継ぎをするみたいに唇を離しては名前を呼んだ。私ではないその人の名前を。そして短い愛の言葉をつぶやくと、また唇を貪った。彼は何度も何度もそれを繰り返した。
けーくんは、その人をずっと愛しているんだろう。そして、間違いなく、お互いを求め合っていた頃があったに違いない。
私ではない、きらりでもない、その人のことを。
私はどうすればいいんだ。
けーくん、キスをとめて! とめられないならせめて私を好きでいて!
きらりを愛してあげて!




