(五十)
(五十)
「へぇー、なんにもないと案外広く感じるんだね」
赤ちゃんをソファーに寝かし付けて、一階の物置だった部屋に移ると、ショコラちゃんは中をぐるりと見渡した。以前は所狭しと物が置いてあって足の踏み場もないほどだったけど、いまはがらんとしている。残ってたいくつかのダンボールもじいさんが持ち帰ったみたいだ。
「ひんやりしてて気持ちいいね」隣室との換気でエアコンも効いてる。建物の一階の真ん中の部屋なので、日に当たらないのも涼しさの原因だ。
暖かみのある控えめな光量のダウンライトとウォークインクローゼットという適度な狭さが内緒話にはもってこいだと、この間のおじいさんとの長話で感じていた。
窓がないのでドアを閉めて鍵を掛ければ、中で何をやってても分からないような密室にもなる。ただ、この部屋はなんにもなさすぎる。
私とショコラちゃんは、床にぺたんとお尻を付けて、自分のバッグを脇に置いた。床はきのうピカピカになるまで私ときらるの一人で綺麗に磨き上げている。もちろん匂いも気にならない。
二階のリビングにはけーくんだけを寝かし付けて、私たちの痕跡を残さないようにしたから、あの子が目が覚めても一人でソファーに寝ていたと思うだろう。おっぱいの甘ったるいげっぷは出るかもしれないけど。
私たちは二人っきりになったことを確認するようにお互いを見て頷いて微笑み合っだ。
「とりあえず、乾杯しましょ」ショコラちゃんが手にしてたビールの缶を顔の高さにあげた。
「はい」私もショコラとお揃いの金ピカのプレミアムをあげた。
パシュッ、プシュッと二人の缶を開く音が鳴り響く。ショコラちゃんの方がいい音だったのは、プルタブを引き上げる勢いの差なんだと思う。それはその缶の中身に対する期待の大きさを表しているのだろう。
「カンパーイ!」
私たちは声を合わせて、互いの缶をぶつけ合った。ガラスのコップだとできないぐらい、思い切りがつんと衝突した缶は飲み口からビールが飛び出して、二人の手と床をたっぷりと濡らした。
ショコラちゃんはそれを拭うこともせず、「ひゃあ」と奇声をあげて笑いながら缶を口に運んでごくごくと一気に飲みきるほどの勢いで缶のお尻を私に向けた。
私も、ずぶ濡れの右手を左に持ち替えて、右手を振って滴を飛ばしながら、豪快に缶を傾けた。
きのうと同じように、ガツンとくる衝撃と刺激に吹き出しそうな口の中を押さえ付けて、ショコラちゃんと同じぐらいに缶のお尻が上を向くまで飲み続けた。ショコラちゃんと一緒に同じだけのビールを飲むことが、私たちの友情の証のような、そんな青春ドラマみたいな気持ちになっていた。
「あーっ、美味しい!」幸せな声。ショコラちゃんの心の発露ってやつだ。
「うん、サイコ、ひっく……」私の心の発露はしゃっくりに阻まれて、ショコラちゃんの爆笑を誘った。
「やだ、きらりん、ホントは酔っ払ってんじゃないの?」ビールの効果は速い。ショコラちゃんはまだ酔う前から高校生のお姉さんみたいに陽気で可愛い。高校生が酔ってちゃダメだけど。
「これは炭酸のせいですぅ」私も小学生みたいに唇を尖らせた。もちろん小学生も酔っちゃダメだ。
リビングで冷蔵庫を覗き込んで飲み物を選んでいるとき、ショコラちゃんと同じ缶を取った私を彼女が注意したんだった。
「ダメよ、きらりん、赤ちゃんにおっぱいあげてる時期にお酒なんか飲んじゃ」微妙に指摘する項目がズレてるところが可笑しい。
「おっぱいあげたご褒美にいいでしょ? あの子、片っぽだけで絶対1リットル以上は飲んでるよ。お母ちゃんは干からびちゃうよ。それにさ、私って…………」私はショコラちゃんに体内でアルコールを光の粒子に変えてしまう方法を教えた。私が酔うことも赤ちゃんに影響が残ることも全くないから安心してと。
「それでね、いまはその力を鍛えて、もっと効果的なものにしたいんだ。ほら、どんな毒薬を飲まされても死なないとか、目の前で核兵器が爆発しても放射能なんか平気みたいな」ビールを飲んでそんな力を得られるならお得だと思う。
「なんか、壮大ね。ビールでそんな力が鍛えられるならお得よね」
ショコラちゃんはそう言いながら、もう一缶ビールを掴んで私ににやりと笑った。
「そんな大事な使命があるなら一本じゃ足りないよね!」
ショコラちゃんは私の分ももう一缶取ってくれて、冷蔵庫のドアを後ろ向きに左足の踵で蹴って閉めた。
【ショコラちゃんって、ほんとにきらりの言うこと信じてるのかな?】
(この子はただビールが飲みたいだけよ!)
だってきらるですら、私の言うことの半分も信じちゃいないじゃない。
乾杯が済んで、私がハンカチでこぼれたビールを拭ってる間に、ショコラちゃんがポテトチップスの袋を裂いて二人の前に広げた。コドモのイエの悪の大幹部が打ち合わせのために冷蔵庫の野菜室の奥に隠してたお菓子だ。知ってたらきのう食べたんだけど。ポテチはピザ味のやつで、「これ、ビールに合うんだよね」とショコラちゃんがさっそく口に運んでいる。
「うん、いけるね」
ビール、ポテチ、ビール、ポテチ、ビール…………。無限に続く他愛のないおしゃべり。こんな楽しい時間は、夏休みの最初にアイカと会って以来だ。ママとみたいなぴんと張り詰めたものがない。けーくんとみたいにひりひりとした性の意識もない。何の役にも立たない大事な時間。
子供の私には、こういう時間がかけがえのないものなんだろう。でも、私はもう後戻りできないし、できたとしても戻らない。
「でもさ、きらりんって、ほんと裸族だよね」
ショコラちゃんが二本目を開けて、話題を変えてきた。リビングから移動してきても、ずっとトップレスのまんまだったのに、いま気が付いたみたいな口ぶりだ。
「さっきも言ったけど、私ね、服着てるかどうか、なんかよく分かんなくなるんだよね。なんて言うかさ、自分の体と周りとの区別があいまいでさぁ。あれっ、いま私、服着てるのかなって」これは説明が難しい。
「あ、それ知ってる。ネットで見たことあるよ。〝パンティーテックス〟ってやつでしょ」
「私、それ踊らないから!」思わず私も二缶目をプシュッといわせた。多分、ショコラちゃんは酔いが回ってる。
「でも、気が付いたら裸だった、なんてなったら恥ずかしいでしょ」
パンティーテックス踊るのもかなり恥ずかしいと思う。
「うーん、私ね、いま人前で裸になるの、全然恥ずかしくないの。そっちの方が問題」
ショコラちゃんの目が点になってしまった。
「ソレって、見せたがり屋さんって言うやつ?」
それじゃあ通学路に出没する変態オジサンだ。残念ながら私は遭遇したことがないけど。
私はぶんぶん首を振って否定した。普通の人からしたら、私はどこから見ても変態なのだろう。
「私、変態じゃありません!」言ってて自分でもわかる。説得力がない。
「まあ、家の中で裸でいる分には自由よね、楽でいいし」
ショコラちゃんには家の外を裸でうろついたことは黙っていよう。
「そうだよ、服なんかで体を締め付けるのは健康によくないんだよ。特にブラなんて最悪でしょ。一番体を締め付けてるやつなんだから」私は裸でいることの正当性を訴えた。ちゃんとしたブラは持ってないけど、夏休み前に試しに着けたジュニアブラでも、お姉さんになったようで嬉しかった反面、ずっと付けるとなると息苦しさを感じた。そのときは結局〝まだ必要ない〟という結論だったけど。
「でもさ、アラフォーでブラが窮屈とか言って外してたら、絶対将来体型崩れちゃうじゃない」
なるほど、けど、その年代の悩みはまだ分からない。
「でも、ショコラちゃんなら大丈夫だって!」
「それって、垂れるほどないって言いたいんでしょ!?」
ショコラちゃんが口をへの字にして睨んでくる。確かにショコラちゃんのは弥生ママのみたいに重力に逆らって上を向いてるって感じはしない。
「ショコラちゃんは、スタイルいいから心配いらないってことだって!」
私の言い訳にぷいと天井を向いて、はっと息を吐いた。胸の話題には触れてはいけなかったのだろう。
「あーぁ、私も脱いじゃえ!」
いきなりショコラちゃんかわざとらしい声を上げた。それで、サマーニットとインナーの白いTシャツを大胆に脱ぐと、レースの飾りが控えめな白のブラが現れた。背中に手を回してそれのホックを外し、脱いだブラを私に「えいっ」と投げつけてきた。
顔の前で受け止めた大人のブラはほんのりと温かい。
こちらを向いたショコラちゃんの胸は、白く形が良くて上品な薄紅色のトップがふるふると揺れていた。この子は案外、見せたがり屋さんなのかもしれない。
ショコラちゃんはそのままごろんと床に大の字に転がった。さっきの形の良い膨らみが柔らかなわらびもちのように体の上でゆるゆるとなだらかに広がって両方の腋から溶け落ちそうになっている。ショコラちゃんの年齢から来る心配もあながち杞憂とは言えないのだろう。
「気持ちいい!」
冷房の効いたフローリングの床に寝転がったら、それはひんやりとしてクールダウン間違いない。
手の中の大人のブラは豊かな曲面で、ここに包まれているということは、ショコラちゃんの胸が目の前にある通り、服の上から見た感じほど控えめな大きさではないことを示してる。やっぱりお母さんになった大人の女の人はすごいと思う。それで、年を取ってもその形を保ち続けるのは大変な努力が必要なんだろう。
「そのブラね、可愛くないでしょ」
仰向けに寝転がったままのショコラちゃんの言葉に、彼女のブラをもう一度見た。それまでそういう気持ちで見てなかったからだ。
「それに、色気もないし」
そう言われると、そうなのかもしれないけど、スッキリとしててアウターにも響かないからいいんじゃないかな。
「でも、スッキリしてていいと思うけどなぁ、アウターにも響かないし、ショコラちゃんらしいんじゃない?」
ブラ未経験の小学生の私が言える精一杯のコメントだ。
「ね、私らしいでしょ? 可愛くない、色気もない、実用的。そのブラって、ほんと……、私そのもの……」
言いながら、ショコラちゃんは鼻をすすりだした。
「ショコラちゃん、どうしたの?」驚いた。私がさっき言った言葉がなにかこの子を傷付けたのかともう一度思い返した。
「私だって、お店に並んだ下着に可愛いなって思うことも、素敵だなって感じることもあるのよ。でも買うのはいつもそんなのばっかり、違うのを買う勇気もないし、買ってもどうせ似合わないって、それが私なんだって思ってたから!」
ショコラちゃんが腕で目を押さえた。まるで涙があふれるのを圧迫して止めるみたいに。
「でもね、そんなつまらない下着なのにさ、あの人はいいって、ショコラのがいいって、頭に被ったり匂いを嗅いだり変なところに巻き付けたりして、変態みたいにこと、わざとやってさ。私、いっつもやめなさいって、バカなことしないでって、言ってたんだよ。それがさ、三年前からしなくなったの……、なんでか分かる?」
三年前って、多分、ちょうどその頃だ。
私は、ただ、荒い息を繰り返すだけで、言葉も思考もフリーズしてしまった。
ショコラちゃんは顔を覆っていた腕を広げて、両手で床を叩いた。バーンという大きな音が響いて、それで、駄々をこねる子供みたいに、ばたばたと床を叩き続けた。
「私、ちっとも嫌じゃなかった、彼のすること全部。私、本当は嬉しかったの、彼がしてくれること全部が! なのに、私、バカだから、下着にイタズラするのはまともな人間のすることじゃないって、私の堅苦しい良識で、自分だけじゃなくて彼まで押さえ込んでたの! そのつまらないブラで胸を締め付けるみたいに!」
ショコラちゃんはたまたま手に当たったTシャツとニットを掴んで、声を上げて部屋の隅に投げつけた。
「彼は、毎日毎日、ご飯と味噌汁みたいな素っ気ない私に飽きたのよ、たまたま出会ったイタリアンのお店でオシャレで美味しいランチを食べて、世の中にこんな美味しいものがあるんだって気付いて! なのに、私、自分のが正しいって、なんの工夫もしなかった、正しいことをやっていれば必ず戻ってくるって信じて。バカだよ私、ご飯にふりかけも掛けてあげないの、海苔の佃煮とか明太子とか添えてあげれば、ちょっと工夫するだけで毎日が楽しくなるのに。そりゃつまらないよね、二十年もおんなじものばっかり、味変もなしで食べ続けたんだから、彼を褒めてあげたいぐらい! 私だってミントみたいにゴージャスな下着を穿けばよかったんだよ! そうでしょ!?」
私は……。答えられない。ショコラちゃんは間違っていないと思いたい。でも、そのままでいることは、進んだり戻ったりするよりはるかに難しいときもあるんだ。




