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(三十一)

   (三十一)


「さあ、部屋でゆっくり休もうか?」

 テーブルから引き起こされて、男に抱きかかえられる私はぐったりと力なくまるで人形のようだ。

「あ、おっ、と…………。はっ、こういうのもお楽しみのうちかな……」

 男の言葉……。なんだろう、ああ、そうか。これは、本当に怖くてお漏らししてしまったようだ。

 私は床に転がされて、男は親切に濡れた着衣のケアまでしようとしている。

 このお父さんは本当に親切な人のようだ。とても嬉しそうに世話を焼いてくれる。

 身体は動かないのに、ちゃんと涙だけは溢れて頬に流れる。

 私の右手がゆっくりと上がって、濡れて張り付いたジーンズを一生懸命脱がそうとしているお父さんのこめかみにそっと触れた。

 お父さんがおやっという顔で私の方を見た。


『きらりきらきらおほしさま』


 男がものすごい勢いで崩れ落ちた。頭をフローリングに打付けるゴツンという鈍い音が響く。私は既に横に立ってその様子を眺めていた。

 男の懸命の努力で開かれたジーンズのファスナーを上げようとして、気持ち悪さに脱ぎ捨てた。


『くそっ、風呂を借りよう、洗濯機もだ』



 男が入るつもりだったのか、それとも私を洗おうとしてたのか、既に風呂には湯が張られていた。

 濡れた服と男が触れて穢れた服も併せて洗濯機のドラムに放り込んで、湯に身体を沈めた。実体を持って湯に入るのは初めてだ。悪くはない。


――――「助けてくれてありがとう」

『〝きらりきらきらおほしさま〟って『世界』の力を発現させるにはいいおまじないじゃない』

――――「あれは、あのとき思いついただけで」

『あのときいちかと理解し合えたのはその言葉を言ったからよね』

――――「さっきは、それで助かったんだ」

『あくまでも、あなたが使ったって形なんだけどね。私が直接やってたらあの男は跡形もなくなっていた』

――――「…………ホントに、怖かった」

『みさとって子が、子供のために力を尽くそうっていう根っこには、子供の頃のそういう経験があるのよ』

――――「えっ、それっ!?」

『さあ、もう出ましょう。お風呂は十分。穴の中にお湯が入ったら大変だもの。洗濯物が乾くまで、けーくんの部屋でも探検しましょう』



 リビングダイニングに戻ると、お父さんは床に倒れたままだった。

 私がお父さんをひょいと肩に担いでリビングのソファーに座らせた。テーブルにマグカップもあって、仕事中に居眠りしたみたいになっている。

 私が廊下に出て階段を上がった右側の部屋の襖戸を開ける。私はなんでも知っているみたいだ。入口で腰に手を当てて中をぐるっと見渡した。


『ねえ、どう思う。愛する彼の部屋』

――――「どうって…………、微妙?」


 散らかった部屋、万年床って感じの敷きっぱなしの布団、匂いに敏感な割にはなんとも言えない臭い。


『男の子臭ってやつね。これ』


 私が部屋の隅のゴミ箱に視線を投げる。

 心の中で首を振った。


――――「まさか臭いの元に何が入ってるか確認しに行かないよね?」

『あなた、ものすごく感が良くなったわね。さっきのクソ親父との会話でも思考力は大人並みに近付いてると感じたから。ただ、やっぱり経験不足だったわね』


 私は部屋の中を進んで窓際に立った。カーテンを開くと向かい側に窓が見えた。


『なるほど、あれが白井文香の部屋の窓ね』

――――「この間は向こう側にいたんだ」

『けーくんはこの場所で窓の向こうを思いながら、ゴミ箱に重たいティッシュの塊を投げ込んでいたわけね』

――――「わざわざ言わなくていいよ!」

『乙女な小学生には似合わない?』

――――「『世界さん』はエッチな話ばっかり!」

『あのね、生命体の基本行動は全て生殖に繋がってるの。いままで私の居場所になった子はみんな最終的に望んだのは交接・交尾。性行為の話題に嫌悪する生物なんかあなたが初めてだからね』

――――「私だって、最終的には望んでるんだからいいでしょ?」

『やっぱり望んではいるのね』

――――「やっぱりって何よ。いいじゃない、女の子なんだから、初めてのときぐらい夢とか憧れがあったって!」

『そうね、好きな相手と優しく結ばれたいと思うのはどんな生き物だって同じですもんね』

――――「そうよ、だから無理やり力で征服しようとするのは生命の(ことわり)に反する行為なんだ」

『あなた、いい子ね。少なくとも前よりはずっといい子になったわ』

 私が私に微笑みかけてくれた。そんな私とハグしたい気持ちになった。



『さて、じゃあ家捜ししましょう』私はそう言って部屋の隅の座卓にまっしぐらに進んで行った。

 絶対この子は全部知っている。私の代わりにこの子がやった方が上手くいくに違いない。

 座卓の前の壁にはあの子の写真が引き伸ばしされてポスターみたい貼られている。この位置って、間違いなく写真にキスとかしてるよね。


*キス〝とか〟って、キスとゴミ箱のティッシュのこととか?

――――「もう、私の思考に入ってこないで!」

*なんで? いまは私がメインなんだから、大人しく後ろで見てなさいよ。私がやった方が上手くいくんでしょ。

――――「あぁん、もうややこしい!」


 明らかに知ってる感じで座卓の横の箱を開けると中にいろんなものが詰め込まれていた。

『この中に例の婚姻届の原本があるんだけど…………』

 中を探ろうとする、私の手が止まった。

『ねえ、下であなたのスマホが鳴ってるけど、どうする?』

――――「えっ、なんにも聞こえないけど?」

『私だって聞こえないわよ、耳はあなたなんだから。ただ鳴ってるって事実を言ってるだけ』

――――「えーっ、こんなときに誰からだろう」

『ママから』

――――「あっ、急いで!」


 恐ろしいほどの運動能力で階段を四段飛ばしで駆け下りると、微かな着信音が聞こえてきた。ダイニングテーブルの私が座った隣の椅子に置いたバッグが鳴ってバイブでぶるってた。


『あ、ママ、助けて!』


 私のスマホなんだから、私に話をさせて欲しかった。私たち一人は急遽、隣の家に行くことになった。



「ここから先は、元通り私がメインで行くからね!」

 リビングでどっちが表になるか少し揉めたけど、体と心を私から取り戻して、バッグを掴んで高森家の玄関を出た。外は日が沈んだせいか思いのほか風が涼しい。

「鍵、掛けなくても大丈夫かな?」

――――『大丈夫よ、もうすぐミントが訪ねて来ることになってるから』

「えっ? なんでミントが?」

――――『なんでって、大人の男女が家で二人っきりって、オセロでもすると思う? 妻も子供も留守でいないんだから、やり放題じゃない』

「だって、そんな…………」

――――『ずっと前からそういう関係なの、あの二人は。どろどろ』

「あの人、私に変なことしようとしたんだよ、そんなことしたらミントに見つかっちゃうじゃん」

――――『あの男にあなたを襲うようにそそのかしたのはミントなんだから。あのオバサンよっぽどあなたの契約の件が気に入らなかったのね。ストレス発散。二人でおもちゃにするつもりだったんじゃない?』

「知ってて言わないあなたも酷くない?」

――――『ちゃんと助けたでしょ』

「でも、そんなことしてもすぐバレちゃうのに馬鹿だよね」

――――『それは中に私がいるから言えることでしょ。あなたの弱みを握って、一生言いなりにさせようってことよ』

「私、絶対許せない!」

――――『じゃあ、ケリを付けましょう、私たちで』

「私たち? 私じゃなくて? 力になってくれるの」

――――『さあ、どうかしら』

「素直じゃないのね」

――――『それよりきらりは、大丈夫なの?』

「うん、ずいぶん文句言っちゃったけど『世界さん』にはすっごい感謝してる。何となく力の使い方も見えてきたし」

――――『そう、もう少し実体で動いてみたかったなぁ』

「あの感じって、何となく不安なのよ」

――――『ねえ、もう少し私にやらせてくれるなら、すっごくいいこと教えてあげるよ』

「なに? 内容によってはちょっとぐらい代わってあげてもいいよ」

――――『こんな道端で言うことじゃないかもしれないけど。洗濯機で乾燥中だった服、着て来た方がいいと思うよ』

「えっ!」


 うそ、私、裸じゃん!



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