(二十)
(二十)
「お昼寝って感じでもないし、ここでおしゃべりでもしてようか」
そう言いながら、向こう側に置いたリュックを開けて中を探り始めたけーくん。
「なんか、お菓子でも持ってくりゃ良かったなあ。あ、飴があったかな? フルーツの……。二人でいるのにスマホゲームなんて詰まんないもんね」
背中越しなんで、ほとんど独り言のように聞こえる。こう見ると、背中が大きい。スリムなのにがっしりしてる。男の人の背中だ。そこからあのうさぎのようなけーくんの匂いが流れてくる。
私はそおっと手を伸ばして、彼の背中に掌を当ててみた。
熱い!
慌てて引っ込めてけーくんの後頭部を見上げた。ものすごい体温。熱でもあるんじゃない?
「きらりちゃん」背を向けたまま低い声で名前を呼んできた。
「え?」
「きらりちゃんって、オレのお嫁さんになる?」
ひえっ、なになに? いきなりなにをいってるの?
「えっ!? でも、ヒモは嫌だなあ」
「ちゃんと働くよ、貧乏かもしれないけど」
「ならいいよ、お嫁さんになってあげる」
本来ならお嫁さんにしてくださいと土下座して頼まなきゃいけないぐらいなのに、下手に出られるとついつい態度がでかくなる。
「きらりちゃん……」
振り返った彼は酔っ払ったみたいに真っ赤な顔をしてる。
やっぱ、熱ある?
いきなりけーくんがぶつかるように抱きついてきた。勢いで座椅子からはみ出して畳の上に仰向けに転がってしまった。
「きらりちゃん……」
けーくんのおでこがガツンと鎖骨に激突する。結構痛くて体を捩ったら、彼の顔が左の腋にはさまった。
「きらりちゃ……」
「ひゃあ!」
いきなり痺れるぐらいくすぐったくて全身がぞわっとくる。
こらっ、腋は舐めないの!
あまりの衝撃とお腹にかかるけーくんの重さでまた小さじ二分の一だ。だからさっき出し切っとけば良かったんだ。
「きらりちゃ……」
お願いだから腋でおしゃべりしないで欲しいって、だから舐めない!
やめてと叫びたいけど頭の中までジンジン痺れてしまって、はひはひいう荒い息にしかならない。
下着にじわじわ滲む感じがして、このままじゃ小さじどころじゃすまなくなりそうだ。
くすぐったさに体をよじる勢いでけーくんの頭を腋から押しのけたら、思いのほか簡単にけーくんの頭がころんと動いて、腋への攻撃から開放された。
「きゃっ!」
(あーっ、おい、ちょっと待って、やめろばか!)という頭に浮かんだ言葉は「きゃっ!」という小さな悲鳴にしかならなかった。
けーくんの口は私の左の腋から右横にほんの数センチ移動しただけだった。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいっ!
広々とした袖ぐりから強引に顔を突っ込んでくる。やっぱ、おっぱいシール貼っとけばよかった。
「ひゃっ!」
(こらっ、赤ちゃんでもないのに吸うな変態!)も「ひゃっ!」にしかならない。
油断すると一気に漏れそう。もう既に下着は大変なことになってるはずだ。私が抵抗できなくなることを狙って冷たいペットボトルを用意したのなら恐ろしい男だ。
ついさっきまでサラサラの爽やかだったのに、どこでスイッチ入っちゃったんだよ、コラッ!
もう、痛いっ、吸っても出ないってば!
「ほら、やめて!」
「きらりちゃん、きらりちゃん……」
くすぐった……、痛いっ!
けーくんがしゃべると歯が当たって痛い。
吸うかしゃべるかどっちかにして欲しい。いや、吸わないで欲しい。
いいから、いいから落ち着けって!
なんとかなだめようと頭をポンポンしたら、何を勘違いしたのか余計に勢い付いてきた。
片方の腕を私の背中に回してしがみついて、空いた手でワンピースの袖ぐりを引っ張って広げてくる。
おい、OKならヨシヨシだろ、ポンポンはやめてって合図なんだよ!
くすぐったいのか痛いのか、私はさっきから「ちょちょちょっ」しか声を出せていない。
けーくんに余裕ができたのか、落ち着いた様子で荒っぽさがなくなって、痛くはなくなってきた。
思わずほっとしてしまう。
でも、これじゃ完全に授乳タイムだ。バランスを考えたら、右も吸わせた方がいいのかな?
どうしたらいいんだっけ?
縦抱っこで背中をトントンしてゲップさせるのは最後だよね、確か。そっと口元に手を添えて、「はいはい、こんどはこっちだよぉ」とか優しく声を掛けながら右の乳房を含ませるといいんだよね。
――――『いいお母さんになれそうね』
こいつはいいお父さんになれそうにもないけど。
――――『いい赤ちゃんにはなれそうよ』
なんにも出ないのにこんなに夢中になれるもんなの?
――――『男の子のおっぱいへの思いは出るとか出ないとか関係ないのよ』
ほとんど平らでも?
――――『あら、とりあえず吸口があれば十分よ。今度、彼にファーストブラ買ってもらったら?』
吸口って!? もう、冗談はやめてよ、案外痛いんだから。世の中のお母さんは偉いよ。
――――『でも、目を閉じて深呼吸してご覧なさい、とても落ち着くはずよ』
ああ…………、ホントだ。そう、なんだろう、このふわっとした感じ。
――――『授乳中はね、オキシトシンって言うホルモンが分泌されて、お母さんは幸福感を感じるのよ』
でも、これって幸福って言うには微妙だよ。
――――でも彼は幸せみたいよ。
そりゃこの子はそれで、あっ、痛っ、なんかヒリヒリしてきた、ちょっとけーくん、吸いすぎだって!
けーくんの肩を思いっきり押さえてずり上がる。
「ねえ、ホント、もうやめよう!」
胸が解放されて、ようやくまともに声が出せた。海女さんがギリギリで海面に出たときの気持ちがわかる。
ヒリヒリしてた濡れた吸口にエアコンの風が当たってスースー気持ちいい。
「ほら、ここでやめたら、プロレスごっこでした、で許してあげるから!」
最大限の譲歩だ。こんなプロレスごっこ、もし教室でやってたら先生が気を失うだろう。
「もう、これ以上やったらけーくんといえども好きでいられる限界に来ちゃうよ」
たしなめるように言いながら、自由になった両手で彼の頭や肩を叩いたり押さえたりを続けた。
最初は腹ペコの仔犬みたいに胸に戻ろうともがいていたけーくんも私の抵抗で諦めたのか、目標を変えたのかこんどは頭の位置が下がり始めた。
「あ、こら、ちょっと、ねえ、もうやめて! こらっ!」
慌てて今度は彼の両脇に手を突っ込んで引っ張り上げなければならなくなった。
「やだ! そっちはだめだってば!」
彼が新たな目標を確認するように手を伸ばしてきた。
ぞわぞわと背筋がざわついて彼を押さてる手が思わず緩んでしまった。
けーくんの頭が一気に私のおへその上を通り過ぎる。脚を閉じたいけど彼の体が挟まっててどうしようもない。
「もう、怖い、怖い、怖いぃ、お願いだから止めて、許して、なんでも言うこと聞くから、わがまま言わないから、ねえ、けーくん、ねえってばあ」
下着の汚れを知られてもいい。我慢できずにお漏らししちゃっててもいい。子供だから、私はまだ子供だから、恥ずかしくてもいい。
だから、ねえ、大人のことはやめよう。
そうしないと、けーくんが嫌いになる。
誰かが来てくれるまであと二時間も、泣いて、怒って、暴れて、お願いしても、きっとけーくんの力には敵わない。お母さんの言った通りだった。
このままじゃ、一番忘れられない相手が一番嫌いな人になってしまう。
けーくんが脚の付け根に辿り着いた。吐く息の熱気を感じて体の力が抜けてく。
ふと目に入った窓の外に真っ青な空と眩しい太陽があった。