(十三)
(十三)
台所で朝ご飯の片付けをしているお母さんの隣にそおっと立って、布巾を手にした。
お母さんが私をちらっと見る。一瞬で私の頭の中を分析するセンサーみたいな視線に何となく決まりが悪くなる。
お母さんが洗って水切りかごに入れたお皿の一枚を取って布巾でみがく。
慣れないことなので落として割らないように、慎重にというよりおっかなびっくりだ。
お母さんが今度は私の手元に目をやる。
私は緊張してお母さんに分からないようにそおっと深呼吸した。
「ねえ、お母さん、今日も家で勉強していい?」
軽く、明るく、あっさりと、普段通りを心掛ける。
「ああ、今日の午後は買い物に出たいのよ」
まるで予め用意してたみたいに、お母さんは即座に答えた。
あれは三年生の夏休みだったかな。友達を家に誘ってゲームで遊んだときだ。めちゃめちゃ楽しくて、次の日も友達を呼んでゲームをした。それで三日目に、お母さんは同じように「今日の午後は買い物に出たいのよ」と言ったんだった。
ダメとは言わないけどダメと言ってる。楽しいことでも何日も続けてやるのはよろしくないということだろう。
「やっぱり、二人だけってダメだよね」お母さんが買い物に行ってる間に家に彼が上がり込むというのは壊滅的にダメだと言うことは承知している。念の為の確認だ。
「そうねぇ、いくら真面目なお付き合いをするって言ってても、それはよくないわね」
「じゃあ、今日は図書館かなあ」
「なあに? 今日も会うの?」
お母さんが最後のお茶碗を洗い終わって蛇口の栓をひねった。
「ダメ?」
私はまだ一枚目のお皿を拭ききれずに布巾を握ったまま、お母さんの顔色を伺う。
「ダメとは言わないけど、ひょっとして毎日会うつもり?」
「用事があったら会わないけど……」
「きらり、ちょっと夢中になり過ぎなんじゃない?」
「だって逢いたいんだもん」ちょっとどころではないほど夢中なんです。
私の手が止まったままなので、お母さんも布巾を掴んで水切りかごの中身に取り掛かりだした。
「彼が逢いたいって言ってくるまで待ったらどう?」
「えーっ、そんなことしてたら他の子に取られちゃうよ」何しろ私の方が略奪しようとしてるぐらいなんだから。
「あら、昨日はドラマみたいなプロポーズしてたじゃない。それに学校にそういう相手はいなさそうだったし」
「そうだけどお……」
お母さんは手際よく拭いた食器の山を作っていく。
私は一枚目をようやく拭き終わって手を止めた。どうやら、お手伝い作戦は失敗のようだ。上手く行きそうにない。
「男の子はちょっとぐらい焦らさないと、毎日会ってたら飽きられちゃうわよ」
そんな恋の駆け引きは、私にはムリだ。忘れられないように毎日でも会わなきゃいけない。
「あのね、うちのクラスのタキちゃんがね、隣のクラスの子に告られて付き合ったんだけど、デートしてもどうしたらいいかわからなくて、それで……。あぁ……、別れちゃったの……」これは親には言わない方が良かったネタだった。
「なに? 何かあったの?」お母さんが食い付いてきてしまった。
「なんでもない」
「なによ、気になるじゃない、ねえ、教えてよ」
お母さんがすごくフレンドリーに肩を撫でてくるから、つい友達感覚になって『いいかな?』なんて思ってしまう。
「うん……、私も噂話で聞いただけなんだけどね。デートしてもどうしていいかわからなくて、三回目のデートのときその子に誘われてキスしちゃったんだって、ホントに軽くだよ、チュッってするぐらいの」
「それで、別れたの?」お母さんが不思議そうな顔で首を傾げる。
「それでね、次のデートのとき、その子から当たり前みたいにキスされて、何回も何回も、なんか、そういうのばっかりって嫌だなって思ってたら、その子が胸とか触ってきて、それで、防犯ブザー鳴らしたんだって。中央公園で。それで別れたの」
「それは……、仕方ないわね。別れてよかったと思うわ」
「でも、私ね、その男の子の気持ちの方が分かる気がするの。だって、仲良くなって一緒にいたらもっと仲良くなりたいって思うのって普通のことだと思うの。勉強だってそうでしょ? 足し算やって、できるようになったら引き算、それから掛け算、割り算、分数の計算って。分数なんか難しくて大変だけど、先に進まなきゃ世界が広がらないと思うの。算数の先には数学だってあるんだよ」
「でも、タキちゃんとその彼氏との付き合い方はよくないでしょ?」
「ううん、違うの、なんていうか、タキちゃんはまだ足し算がきちんとできてないのに彼氏は掛け算を勉強しようとしてたんだよ。でも、ホントは彼氏の方も足し算や引き算をきちんとわかってないのに格好だけ掛け算を解こうとしてたんだよ。だから勉強そのものが嫌になっちゃったんだ。だから、タキちゃんは防犯ブザーを鳴らすんじゃなくて『もっとゆっくり仲良くなろう』って彼氏に言わなきゃいけなかったんだよ。付き合うってそういうことだと思う。相手がしてくれることばっかり気にするんじゃなくて、お互いに愛情を育てていかなきゃいけないんだと思うの。でもそれは大人だけの特別なことじゃないでしょ?」
「でも、それは小学生には難しいことよね」
「私、彼に誘われたらなんだってしちゃうって思ってたの。それがすごくカッコいいことだって思ってた。だって、彼ってホント、すっごい大人で、私みたいな子供が好きでいてもらおうと思ったら、彼の望み通りの女の子になるしかないのかなって。でもね、昨日、彼の言葉を聞いてて思ったの。一緒にいるだけでいいんだって。ムリすることなんかないんだって。彼が何で急に私を好きになってくれたのか全然わからないけど、私、彼を信じてるし、彼も自分を信じてると思う。私はまだ他人に信用されるような人間になってないかもしれないけど、彼が選んでくれたんだから、私、彼のためにも自分を大事にする」
「それは、きらりが自分で考えたの?」
「そうだけど……」やっぱりそういうのは子供の考え方だったのかな?
「お母さんはあなたを信じてる。でも、まだ彼のことはよく分からないの。だって、いくらあなたがきちんと考えてても、力では彼に敵わないでしょう? 彼がそうだとは言わないけど、男の人は女の子を力で思い通りにさせようとすることがあるの。だから、お母さんがあなたを守らないといけないの」
「うん、わかってる。なんでもお母さんに相談するから。だから応援して」
「そうね、応援はするわ、きらりが幸せになれるようにね」
で、応援はともかく、きょう会ってもいいんだろうか?
お母さんにもう一度聞こうと思ったとき、ダイニングのテーブルに置いてたスマホの着信が鳴った。急いで流しの前から回ってスマホを取り上げる。
「あっ、彼からだ」画面の表示は『彼』だった。
「あ、はい」
『きらりちゃん、僕だけど、今日、午後から時間ある?』
「うん、大丈夫」向こうからのお誘いなら好都合だ。
『この間会ったコドモのイエの園長がキミとお話がしたいって言っててね、僕も行くから一緒にいいかな?』
「話し?」
『うん、まあ、僕もよく分からないんだけど……』
なんだろう。でもけーくんと会えるならいいか。
「けーくんが一緒だったらいいよ」
『場所って、覚えてる?』
「あ、うん、わかると思うけど」もちろんけーくんと歩いた道ならどこへだって迷わず行ける。
『なら、二時にコドモのイエで、僕もそれぐらいに行くから』
「えっ!?」
『じゃあ、よろしくね』
「あっ、けーくん……」
切れた。
「どうしたの?」
お母さんが洗い物の片付けを済ませてダイニングに出てきた。
「彼がね、コドモのイエの園長さんが私に話があるから来てって……」
「コドモのイエ?」
「うん、ほら、あの、〝貧しい家の子供を助ける会〟の会長さん」
「そんな人がなんのお話?」
「さあ、この間、彼と散歩の途中で寄ったんだけど、またおいでって言われたからかなぁ。すっごく暇そうだったし」シャワーを浴びたことは置いとこう。
「まあ、市の広報にも載ってたし、変な会じゃないみたいだけど」だけど、お父さんが『あれはお金儲けの宗教みたいな怪しい会だ』なんて言ってたのが気になるんだろう。確かに会長さんは怪しい人かもしれないけど。
「でもね、彼も来るんだけど、なんか素っ気なくて、一人で行ってって、迎えに来てもくれないの」さっそく彼とのことをお母さんに相談したい。
「あら?」
でも、お母さんの表情は、私の悩みを楽しんでる。
彼に会えると思っても、一人で行くとなると、途端にやる気がなくなってきた。
昨日はお嬢さんを僕に下さいぐらいの勢いであんなに熱く語ってたくせに、一晩寝たら冷めちゃうなんてありえない。
きっと彼の部屋の中にはあの女との想い出とかが残ってて、それで情が戻ってしまったんだ。
そうに違いない。
ホントはもう私なんかと会う気もなかったけど、あの会長さんに言われたから仕方なく付き合おうってわけだ。こんな悔しいことはない。
でも、彼が実は子供まで作った相手がいる人だなんて口が裂けてもお母さんには言えない。
これって、不倫ってやつと同じだもんなぁ。
あー、ヤダヤダ。
気合を入れて可愛いパンツなんて穿くもんじゃない。
『彼に見られてもいいように!』なんて思ったりしたけど、こんなに可愛い小花柄も、どうせ私が漏らさない限り見せる機会もないんだから。もう、今日はいつものジーパンにTシャツにしよう。スカートはあんまり持ってないし。唯一の可愛めスカートは一昨日濡らしたこれだけだ。
私はスカートをベッドの上にポイッと投げ捨てた。
彼だってこのスカートみたいにポイしてやろうか。
「あっ」
独り言でぶつぶつ文句を言ってたらスマホの着信が鳴った。
うそ!? 画面を覗くと表示は『彼』からだ。
ひょっとして「やっぱり会うのはナシ」とか、「オレ行かないから一人で行って」とかかも?
「はい」
はやる心を抑えて私はできるだけぶすっと不機嫌な返事をした。
『あっ、きらりちゃん、まだ家?』
彼の声が50メートル走の後みたいに弾んでいる。彼の声は生でも電話でも耳に美味しい。
「そうだけど、なに?」私は可能な限りの野太い声で必死に機嫌レベルを落とす。
『いま、きらりちゃん家の下まで来てるんだよ。ねえ、ちょっと早いけどよかったら一緒に行こうよ』
えーっ、なによそれ!?
私は呆れ果てて不機嫌するのも馬鹿らしくなってしまった。
「うん、すぐ行くから待ってて!」
メールなら「待ってて!」の後にハートマークを三つぐらい並べるほどにトーンが高くなった。
上まで迎えに行こうかという彼を下で待たせて「彼が迎えに来てくれたの!」と叫び散らして家を飛び出した。彼が家まできてお母さんと会ったら話が長くなりそうで何となく嫌だった。
家を出るとき、お母さんが何を言ってたかは記憶にない。