(百二十四)
(百二十四)
その客人は、私のことを知っている人で、私に用があるらしい。
男の人が「あなたを知っていますよ」なんて言うと、きっとそういう関係になったんだろうなって分かるんだけど、この人はずっと年上の女の人だからそういうことではないと思う。
お母さんはこの人を「野木先生」と呼んで、どう見ても高そうなカップにソーサーまで付けて、インスタントじゃない粉のコーヒーを淹れた。
私とその人が向かい合って座るリビングのテーブルには外国のちょっと気取ったお茶菓子がコーヒーに添えられて、お母さんはひどく緊張しているようすだった。
その野木先生が最初に、私と二人で話がしたいんだと言ったとき、お母さんは少し戸惑ったようすだったけど、お茶を用意して席を離れるとき、この場にいなくて済むことに安堵のいろを見せていた。
お母さんはリビングを出るときに、職員室に呼ばれたみたいに「失礼します」と言ってぺこりと頭を下げて、普段は開けっ放しにしてる廊下のドアを音も立てずにそっと閉めていった。
その人と二人きりになって、私は少し困った。
私はこんな本物のコーヒーを飲んだことがない。私が飲めるコーヒーと名の付くものはコーヒー牛乳か自販機の甘くてミルクたっぷりのカフェオレぐらいなものだからだ。
慎重に向かいに座る先生の行動を伺った。
テーブルに置かれた小さな籐カゴの中からコーヒー用の小さなミルクをひとつ取って、プチッと開けてカップに注ぐ。そしてそのコーヒーをスプーンでくるりと優雅に混ぜた。
私にだってそれぐらいはできる。
ミルクを取ってプチッと開けて、コーヒーに入れる。開けたときに指に付いたミルクをちゅちゅっと舐めて、スプーンでガシャガシャと掻き回す。
スプーンから垂れたコーヒーがテーブルにひとしずく落ちて、それを優雅に手のひらで擦った。
先生はコーヒーをひとくち飲んで、カップをソーサーに戻すと、ソファーに深く背を預けて高く脚を組んだ。
脚を組むのは、親しさやリラックスなど様々な意味があるようだが、この女は脚を組むことで、心理的余裕を見せ、私よりも絶対的優位な立場にあるということを見せ付けているのだ。
しかもこの女はビシッとしたスーツを身に纏っている。スーツは大人の戦闘服だ。それが脚を組み美しい肢体を誇示することで凄まじい戦闘力をも生み出して私にビシビシとプレッシャーを掛けてくる。
まさに、生きた巨大戦艦という感じだ。
ふん、マフィアの女幹部にでもなったつもりか。
しかし、私も負けてはいない。
コーヒーをずずずとすすって吹き出したくなる苦さに顔をしかめると、カップをがしゃんと置いて、仰向けに寝転がるように背もたれに倒れ込んで、バイシクル・シュートを決められそうなほど、高々と脚を組んだ。
私の迫力に女幹部が動揺して明らかにひるんだのが分かる。
先生がなにか言おうとしたとき、私は慌てて脚を戻してソファーに浅く座り直した。
そうだ、パンツを穿いてなかったんだった。
下着なしのミニスカートは防御力がマイナスになるということをすっかり忘れて、美しい恥体を誇示してしまった。
この服は私の戦闘服だけど、どうやら男の子と一戦交えるのに適した服装という意味だったようだ。
スカートの裾を直して、耳にズキズキ感じる羞恥の熱が引くまで俯いて呼吸を整えた。
よし、落ち着いた。
私は表情を整えて、教室の前で研究発表をする澄ました顔になった。
緊張しててはダメだ。けど、くだけててもいけない、余裕の笑みを浮かべて正面を向いた。
先生と目が合う。
いいだろう、向こうも余裕の微笑みだ。
「あなたは、誰?」
「あなたは誰なの?」
ほぼ同時、でも完全な同時ではなかった。私の方の「あ」が先だった。けど、途中に溜めの「、」を打ったせいで、言い終わりが同時になってしまっていた。
ここで私から名乗るのも癪に障る。
先生は、私のことをじっと見つめながら、ジャケットのポケットから小さな財布のようなものを取り出して、そこから一枚を抜いて私に片手を伸ばして差し出した。
一瞬、〝お年玉!?〟なんて喜ぶ自分を戒めた。
ポケットから取り出したのは名刺入れで目の前に迫るのは名刺だ。
私はそれを右手を伸ばして受け取った。
両手で受けようとしたら立ち上がらなければならなかったからなんだけど、結果としてでかい態度になったことに満足した。
名刺を透かすように眺めると、そこには『衆議院議員 野木翔子』とあった。
なるほど、議員の先生だ。
他には住所も電話番号も、連絡先など何も書かれていない。
これは、天上人が下賎の民に、「余と目通りが叶ったことの印じゃ、有難く受け取るが良い」と渡す記念の名刺だ。神社の御朱印とか道の駅のスタンプと何も変わらない、日付でも書いて手帳に挟むかアルバムに貼るかするしか使い道のない思い出の一コマにしかならないものだ。
もしこの名刺を持った人間がなにか悪いことをしでかして捕まったとしても、「会ったことがあるかもしれないけど関係ない人なので私に連絡などしないで下さい」という粗品の名刺だ。
私はそんな名刺をテーブルに投げ置いた。
「それで、なんの用ですか?」
そんなお偉い先生が、こんな乙女になんの用がある?
私の問いに野木先生は眉をぴくりと動かした。
「子供の家のことだけど……」
それを聞いて思わず声を上げそうになった。
『子供の家』という名前は、私の記憶の中に消えることのない存在としてくっきりと浮かんでいる。
そうか椎ちゃんの『子供の家』か。
この人はあの私にひどいことを言った杉山依椎の福祉の会の支援者なんだな。
「結局、『子供の家』なんて言うけど、実際は『大人の玩具』でしかないんですよね?」
椎ちゃんたち大人に食い物にされた子供たちを思うと胸が詰まる。
「ねえ、あれから何があったのか知らないけど、あなたはそういう言葉を使わないで欲しいな」
この人は、私と知り合いであることを仄めかしている。寂しげな顔で語るけど、いきなり懐に入り込んでくる人には気をつけた方がいい。悪魔は善人の顔でやってくると言うからね。
「『子供の家』の責任者は子供を性の捌け口にしていたんですよ」
知らなかったとは言わせない。
「どうしたの? そんな……、自虐ネタ?」
女幹部が不思議な顔をする。
「親しくなった女の子を部屋に連れてって、イタズラしてた」
「いまさら反省してるの? ねえ、この一ヶ月の間に何かあったんなら話を聞くけど?」
この人はやけに親身な顔をしてる。
逆に、私が何をやってたかを知りたい。
「『子供の家』のことですよ?」
「そう、『子供の家』のことだけど……。やっぱり、あなたは違うのね?」
この人の話はなにか変だ。
「杉山依椎ですよね? あそこはみんなそういうことをやってるって……」
私は慎重にやばい名前を出した。
先生は少し考える格好をして、スマホを取り出すとどこかに電話を掛けた。
「あぁ、遅くにすみません。この間、話をしてました虐待の恐れのある施設……、そうそう、沼田の……。いま被害に遭われたという女の子から匿名で情報がありまして、はい……、そうなんですよ……、ええ、一度調べてもらえませんか?」
先生はいくつかお礼の言葉を言って電話を切った。
「あそこは以前からいろいろ噂があったみたいだから……」
スマホを片付けながらそう言って、私を見た。たぶん私は〝?〟な顔になっていたに違いない。
「いまのは偉い先生」
野木先生はそう答えて肩をすくめた。
「そういうことなんでしょ?」
私はとりあえず頷いたけど、半分はもやもやしたままだった。あの施設の子供たちが守られるなら、文句はないんだけど……、もやもや。
この人の言ってる『子供の家』は椎ちゃんのところとは違うのか?
「さて、それで最初の質問。あなたは誰なの?」
もやってる間に向こうが居住まいを正して、問直してきた。
けど、この人はさんざん私を知ってる感を出しながら、〝誰なの?〟はないと思う。
「秋本……、輝流」
偽りの名前を告げるか、あるいは輝星と名乗るかとか迷ったけれど、結局、いま一番本当の名だと思うものを口にした。
「両親は輝星だと思ってるみたいだけど」
先生は腕組みをして小さくかくかくと頷いた。
なるほど、ということなんだろうか?
それから先生は、脇に置いたバッグからノートパソコンを取り出して、膝の上でなにか操作すると、それをテーブルに置いて画面を私の方に向けた。
画面は薄暗くて、どこかの防犯カメラの映像のようだった。
フラフラと歩いているのはどうやら私のようだ。人物の周りがぼんやりとオーラのように青白く光っている。
「普段は防犯カメラの映像なんか確認しないんだけどね……」
先生は呟きながら動画を静止させて、そこに映る顔をアップにした。
「これは、あなたよね?」
まったく覚えてないんだけど……。
「そうですねぇ、こんなに可愛い女の子が世の中に二人もいるとは思えないですからねぇ」
映像を見ながら、我ながらいい答えだと思った。
先生は呆れもせずまたパソコンを操作して、別の動画を私に見せた。
「こっちはリビングの見守りカメラの映像」
どこかのリビングのドアを開けてるのはあのタカモリケイジという私を辱めた変態だ。あのときの五千円をまだ私はもらっていない。
映像では少しして、ドアからお母さんがリビングに入ってきた。
「昨日の夜、この『子供の家』の施設にいたのは、ケイジとその……友達と、忍び込んだあなたの三人だけ。こんな犬はどこからも入り込んでいないし、どこからも出て行ってない」
そう言って、先生は急いで動画を止めた。その先のリビングの映像が気になる感じだったけど、そこは突っ込まなかった。いきなり友達の女の子の前で服を脱ぎ始めたタカモリケイジはこの先何をするつもりだったんだろう?
「あちこちにカメラを仕掛けて盗撮するなんて、ずいぶんと趣味が悪いですね」
きっと、服を脱いだあとの行為も記録されているんだろう。できればこのままデータの続きを確認させてもらいたい。
「小さい子供も預かるから安全カメラは必要だって言ったのはあなたじゃない。しかも弥生さん対策でネットワークに繋がらない独立型のカムフラージュタイプにするようにって。カメラがないのはお風呂とトイレと三階のエッチ部屋だけ」
「乙女部屋です!」
意味は分からないけど何故かイラッとして声を上げた。
それになんだ、弥生さんって、記憶が曖昧なときに勝手に登場人物を増やさないで欲しい。何しろ丼と布巾の区別もつかないんだから。
先生は小さく咳払いをして先を続ける。
「で、ケイジは、明け方友達が帰ったとき、家の中にはその白い犬しかいなくて、あなたはいなかったって言ってたけど?」
「私が朝、目が覚めたとき、隣で素っ裸で寝てたのはそのタカモリケイジっていう変態ですよ。私の手に粗末なものを自慢げに握らせて! 何があったか想像がつきます」
私は向かいに座る女の顔を怒りを込めて睨みつけた。
「そんなことより、ねえ、この白い犬はなに? あなたは本当に輝流なの?」
「そんなこと……って……」
目が点になるってこういうことかと思った。
相手を責めてるはずなのに、何故か悪いのは自分のような、そんな錯覚が頭の中を埋め尽くそうとしている。
この人は、見知らぬ男に凌辱された無辜の乙女が勇気を奮って被害を訴えているにも関わらず、まるで「モテない女がイケメンに構ってもらえて良かったね」ぐらいにしか思っていないのだ。
残念ながら、優しいお兄さんに構ってもらった楽しいお遊戯の思い出なんてなんにもないんだからね。