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(百二十二)

   (百二十二)


 お母さんが洗い物を終えるタイミングで、むにゃむにゃとお父さんが動き出した。

 まるで私の夢でも見ていたみたいに、まだ寝ぼけて「きら……、きら……」言ってるお父さんのところにお母さんは駆け寄って声を掛けている。


 私は恋人たちの邪魔をしないように、二人の様子を横目でちらちら覗き見しながら空っぽになったマグカップを握ってなにかを飲んでる格好をしていた。

 お母さんは前後もつかないお父さんを振りだけ呆れて優しく叱る。


 うそ、やってるじゃん、キス!


 あんなにお酒のせいで口が排水口臭いのに、お母さんがすごいのか、愛の力がすごいのか、お父さんが強引なのか、私には羨まし過ぎてさっぱり分からない。

 でも、子供の前でおっぱいはやめて欲しい。

 お母さんがたしなめながらお互いの耳元でなにかを囁きあってる。

 こんな様子なら私がこの場にいなければすぐにでも()()()が始まってしまいそうだ。


 気になって耳に力を込めて精一杯ウサギの聴力になったりするけど落ち着かない。

 でも、聞こえてくる内容はそういった夜のお約束じゃなくて、私が〝きらり〟なのか〝きらる〟なのかを相談しているようだった。

 そんなことをそんなところでそんなことをしながらそんな感じに相談して決めないで欲しい。

 私は、たぶん自分の記憶が間違いじゃなければ『きらる』なんだと思うから。


 お母さんが「だめだめ、後でね」って、お父さんの手をニットの中から引っ張り出して起こそうとしている。

「ほら、きらりが待ってるよ」

 どうやら私は『きらり』ってことに決まったらしい。

 もしここで私が文句を言っても、2対1の多数決で私が負ける。

 そもそも子供はどうあっても親の従属的な存在でしかなく、親権者の所有物、ペットの犬と変わらないのだ。

 この親たちの機嫌を損ねないようにして、私が『きらり』に決まった経緯を確かめることにしよう。


「ああ、きらりか……」

 ふらふらしながらも、お母さんと運動会の二人三脚みたいにもつれ合ってダイニングの方にやってきた。

「もう、お父さんも早く席に着いて!」

 子供の見るもんじゃない夫婦の営みに、私はちょっと照れくさくてお父さんを急かした。

 どうやらお母さんはこの愛する廃人のために腐った胃袋に流し込む薬膳のような雑炊を作るつもりのようだ。


 お母さんがキッチンへ行って、支えのなくなったお父さんはテーブルの横で私に抱きついた。

「きらり、帰ってきてくれたんだぁ」

 お父さんは嬉しそうに異臭を放ちながら、頭のてっぺんにキスをしてくる。

 やっぱり、この臭気に耐えるお母さんは偉大だ。きっとシュールストレミングだって平気で食べられる。

「ちょっと立花さん、旦那さんが浮気してますよ!」

 私が文句を言っても、お母さんは一人用の土鍋を持ってへらへらしている。

 あれがきっと妻の余裕ってやつに違いない、〝こんな小娘に負けるわけがない〟っていう態度だ。

 お父さんの口が頭から首筋に降りてきて、片方の手がお腹の辺りからするする上に昇ってきた。

「お父さん……」おっぱいはダメだよっていう言おうとしたとき、お父さんの手は私の平らな胸を素通りしていた。


「あ? なんだぁ、これは?」


 恐ろしいほどの音を立てて、お父さんが吹き飛んだ。

 お母さんは土鍋を落としてハリドリに乗ったときみたいな悲鳴をあげる。

 私はお父さんを振り返り見た。


 リビングのAVボードにぶつかって、乗っていたテレビと一緒に床に転がっている。

 床に倒れたお父さんはすぐに顔を上げて私を見上げた。

 その顔は神に出会った信者のような喜びと恐怖とに歪んでいる。

 立ち上がろうとするお父さんの体をお母さんが飛びかかって抱きつき押さえた。

「きらり、やめて!」

 私は何もやっていないし、何もやらない。

 お父さんは何も言わず、お母さんを振りほどいて立ち上がった。お母さんも必死になってお父さんにすがりつく。

「お願い、お父さんなのよ! 大事な人なの!」

 お母さんは泣き叫んでいるけど、どうしようもない。こればっかりは仕方ないじゃないか。

 お父さんはお母さんを引き摺るように絶対的な意思と力でベランダに向かった。

 リビングの掃き出しの窓を開けて、外に出ようとしている。

 お母さんはお父さんを押したり叩いたりしているけれど、止められない。

 人間ごときが止められるわけがない。

「やめて、きらり、やめて! お母さんが悪いの、お父さんに首輪に触っちゃダメってちゃんと言ってなかったから!」

 知らないからと言って、犯した罪から逃れることはできない。

「私は、なんでもできるけどなんにもしない」

 私はお母さんを見据えて自分の立場を伝えた。

「お願い! きょう病院で六人も死んでるのよ! もうやめて!」

 お母さんがいくら止めても、お父さんのその行動は自発的なもので、止まるものではない。

「お父さんが自分でそうしたくてそこから飛び降りるだけだよ」

 病院でもそうだ。私のコートをゴミのように扱った看護師と職員は、一人は窓から、もう一人は非常階段から飛んだ。首輪を外そうとした医者は自らハサミで首を切った。看護師は自分の腕に薬品を注射した。私を臭いとバカにして騒いだ患者はボールペンで両眼を突いた。

 あと一人……、あぁ、あの部屋にいた女の看護師だ。あれは、どんな風に死んだっけ?

 まあ、どれも自業自得だ。死んだだけで済んで幸せだった。椎ちゃんみたいになったって、文句を言える立場じゃないんだ。


「お願いします! 助けて下さい、この人は大事な人なんです。お願いします!」

「私よりも大事な人間なんていないでしょう?」

 どうしたんだ、あんなに穏やかで聡明な様子だったお母さんが狂ってしまったのか?

「でも、この人は、お父さんはあなたのことを心から愛してたんです! ずっと心配で、心を病んでしまってたんです! お願いします、なんでも言うことを聞きますから! 助けて、助けて下さい!」

 お母さんは必死に叫びながらお父さんにしがみついたまま、一緒にベランダの手摺りを越えそうになっている。


「そうか、お母さんはお父さんとセックスがしたかったんだった。あんなに楽しみにしていたぐらいだもんね」


 私が帰ってきて、お父さんの体からお酒が抜けたら、きっとまた男の方も立派に役に勃つようになる。

 薄汚い私なんかより、久しぶりのお楽しみの方が大事に決まってる。夫婦なんだから、そりゃそうだ。そうに違いない。

 私のせいでお父さんがあんなふうになって、大好きなセックスができなくなったんだから、お母さんが私を恨むことだってあって当然なんだ。何しろ子供が見てる前でキスをしておっぱいだって喜んで差し出す程なんだから。


 私は『世界を統べる力』を超えるお母さんの性欲のあまりの強大さ貪欲さに呆れてしまい、人間の薄汚い手で大切な首輪に触られたことなど、もうどうでもよくなってしまった。


「もう、お母さん、恥ずかしいからそんなとこでしないでよね!」


 私はダイニングの自分の席にどすんと座って、ベランダで息も絶え絶えに抱き合って転がっているふたりに向かって大声で命じた。



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