(百二十)
(百二十)
晩御飯のあと、私はちょっと眠くなったけど、起きてお母さんを待っていた。
お母さんを待っていたのは、お母さんが来てくれるよって、あの部屋にいた女の人が言ってたからだ。
いままで何人か女の人が部屋にやってきたけど、どの人もお母さんのようで、でも頭に浮かぶお母さんの姿と違うような気もして、よく分からなかった。
お母さんの特徴は分かっている。人間の女の人で、もう大人の人だ。私のことをよく知ってて、綺麗でとっても優しい。
でも、みんなに「お母さん」って言ってみても、みんなにこにこしてくれるから全然分からなかった。
それで、一人になると心細くて不安になって、でも、目をつぶって真っ暗になると、すぐにまた誰かが中に入ってきて体を揺らすからずっと起きていた。
しばらくベッドに寝転がってぼんやりしてると、なんだか外の廊下がざわざわし始めた。
また、クラスの男子がお見舞いに来てくれたんだろうか?
だったら、私はベッドに寝てた方がいいのかな?
服はどうしよう? 着てていいのか、脱いどくのか。
でも、きょうの分は終わって、さっき廊下で「またあした」って言ってたし、どうなんだろう?
知らない人が入ってくるより知ってるクラスの子の方がずっといいんだけど。
またあの部屋の女の人が来てくれるだろうから、そしたら言う通りにすればいいんだ。
私はそんなふうに自分で考えて、ちょっとほっとした。
でも、ドアが開いて入ってきたのは違う人だった。
この人は知っている。立花さん。私がこの後入る〝施設〟の人で、救急車で運ばれてくるときから、ずっと付き添いをしてお世話をしてくれている――んだと思う。
何かと思ったら、退院することになったから、準備をしてってことだった。
検査で異常もなく、元気だから退院なんだそうだ。
まだ一日も入院していないのに退院というのはとても奇妙なことだと思った。けれども、その人は「もう、そう決まったから安心しなさい」という。
最初に、病院の人から何日間か入院して、検査で問題がないか様子を見るって言われていたし、こんな時間に急に退院するのは変だと思ったけど、立花さんは私の荷物を手早く片付けて、バッグに詰めてしまった。
「お母さんに言わないと」
黙って退院なんかしちゃいけないと思っても、立花さんの言ってることが沢山あって理解できなくて私は全然付いていけない。
結局、病院の人になんのご挨拶もしないままで、立花さんは逃げるみたいに私の手を引いて、病院を抜け出した。
病院の周りはなぜか救急車やパトカー、それにテレビ局なんかの車もたくさん集まってきててざわざわしている様子だった。
外に出ると、人目を避けるように足早に駐車場に止まっている薄桃色のころんとした車に乗せられた。
私は立花さんの隣で、見覚えのない、でもたぶん、きっと住み慣れてたはずの街に向かって走り出した。
駐車場を出て表の通りに入ると病院前の広場が目に入った。
「あっ」あれは、見覚えがある。
あの、広場にぽつんと置かれているベンチは、大雨の日に仲良しだった友達と一緒に座った思い出がある。
私は遠ざかる病院を後ろの窓から振り返った。
ひょっとして、きょうの入院が中止になったのは、ここが私が飛び降りた病院だったから先生に追い出されたのかな?
私は隣で運転する女の人をちらっと見た。迷惑を掛けたかなって思ったからだ。
けど、立花さんはとても楽しそうにハンドルを握っていた。
立花さんに連れられてやってきた〝施設〟はマンション五階の端部屋だった。
玄関ドアの横に掛かった、プレートには『秋本』の文字がある。
立花さんがバッグから鍵を出してる間、振り向いて共用廊下から外を見た。そこはなんとなく見覚えのあるようなないような景色だった。
下を覗くとちょうど私が飛び降りたぐらいの高さにくらっとめまいを感じる。
「ここは……、私の家のような気がする……」
「ほら、きらり、入りなさい」
玄関を振り返るとドアが開いて、立花さんが中に向かって「ただいま」と大声で叫んでいる。
相手は家の中のずっと奥のもっとその先の外のベランダにでもいるだろうか。
「立花さん」
呼び掛けながらドアの中に入ると、立花さんは焦って脱いだ靴をひっくり返したまま、玄関の二センチほどの段差に躓いてその先の廊下につんのめった。
「お父さん、ほら、きらりよ!」
立花さんは声を上げながら、体勢を整えて小走りに奥に走っていく。
途中で振り返って、私に「はやくはやく」と手招きをする。
私は後ろを向いて、いつものように? 玄関の鍵を閉めた。
なんなんだあの人は?
「お母さん……」
ざわざわとした不安に胸の奥で本当のお母さんの姿を思い浮かべた。
玄関を上がって廊下を立花さんの後を追った。
落ち着いた穏やかで優しい女の人だと思ってた立花さんは、さっき退院するって言ったときからまるで人が変わったようだ。
妙に怖がったり興奮したり怒ったようになったり緊張したり緩んだり、何かあったのか、壊れちゃったんだろうか?
この家が私の家だとしたら、私のお母さんはどうしてしまったんだろう。
この廊下の右側にある閉まった扉の中が、私の散らかった部屋なんだろうか。
すぐにでも扉の中を確かめたいけど、でもいまは、たった五メートル先で私がたどり着くのをまるで親鳥を待つペンギンの雛のように両手をぱたぱたさせながら、いまかいまかと見つめている、あの人の元に行かねばならない。
あの人の目が魔性に魅入られたみたいで怖すぎる。
立花さんは私が近付いてくることを、リビングの中から顔だけ廊下に突き出して、そこにいる〝お父さん〟と呼ぶ存在に、まるで日本に上陸したゴジラを実況するみたいに、迫り来る様子を訴え続けている。
「ああ、来た、来た……」
リビングの入口にたどり着いた私のコートの袖を立花さんは神の裁きを待つ罪人のように絶望と歓喜の入り交じった眼差しでぎゅっと掴んだ。
「あぁ、きらりが来た……」
私は立花さんの腰に抱きついて胸に頬を当てた。
そうしないと、このアイドルの出待ちみたいに興奮してる人が失神して倒れてしまいそうな気がしたからだ。
立花さんを支えながらリビングを覗く。
そこには、いるはずのお父さんの姿はなく、薄汚れた酔っ払いのおじさんがひとりソファーに転がって虚ろな目でこちらを見ているだけだった。
その男の人は私の顔を認めて、目を大きく開いてあわあわとわななくように口をぱくぱくさせている。
「きらるか?」
立ち上がろうとしたけど酔いが酷いのか、みっともなくソファーにどんとお尻を戻した。
「お父さん、ほら、きらりよ、きらり」
立花さんに引っ張られてソファーの前まで連れていかれた。
おじさんは私を見上げて、信じられないといった顔で、小さく首を振りながら、震える手で私の袖を掴んだ。
「あぁ、きらり……」
唸るような声を上げて、私にすがって立ち上がろうとする。
私は脚がすくんだ。
これはお酒の匂いなんかじゃない。これはお酒を飲んだ人間の胃袋の中から湧き出してくる腐った細胞の臭いだ。
私はこの悪臭に、自分の臭いがすっかりと消し飛んでしまった。
私が顔を背けると、おじさんはバランスを崩してソファーに倒れ込んだ。
おじさんに腕とコートを掴まれたまま、柔道の寝技みたいにもつれるように一緒にソファーに転がっておじさんの腕に強く抱かれた。
私は酔っ払いに抱かれたことなんて一度もない。この男は、私のコートよりもひどい臭いで私の体を不躾になで回してくる。私の髪に頬擦りをしてくる。髭がちくちくと刺さって剣山みたいに痛い。
その人は私を抱いてまるで奇跡にでも遭ったように歓喜に打ち震えている。
私は立花さんに助けを求めようと、ちらりと目を上げた。
笑っている。立花さんはとても嬉しそうに目を細めて 笑っている。
私は飼い主がペットに生餌を与えてその食べる様子を眺めて満足している姿を想像した。
それで、もう一度、立花さんの顔を確認した。
私はたぶん、戸惑った顔をしていたと思う。
立花さんの目の色を見て、私は諦めて体の力を抜いた。
立花さんは〝この男が満足するまで好きなようにやらせなさい〟という表情だった。
結局、私はどこにいても、そういう人とそういうことをする相手になるのだ。それはきっと、力のない子供の私が安心・安全を得る対価として支払わなければならない、養育者を満足させるための小さな〝お手伝い〟なのだ。
おじさんは私の首筋に顔を埋め、これからいただくご馳走の匂いを楽しんでいる。
私は仕方ないと思った。
どんなにいい人でもそういうことをする。
それに、この人は立花さんに操られているのかのようだ。
頭の隅にふっと『エリクサー』という名前がふっと浮かぶ。それって、なんだったっけ?
私に夢中になってるおじさんの額にかなづちで殴られた傷があった。それは、記憶がある。覚えている。
私はその傷跡をなでた。
なんだ、この人はほんとうに私のお父さんなんだ。
けど、お父さんだからって、しないわけじゃない。
レクサスのおじさんも〝お父さん〟だったんだから。
生き物は捕食者に捕まって食べられるとき、その苦痛をなくすための〝脳内ホルモン〟が溢れ出るという。死の間際に〝幸せ〟を感じるのだそうだ。
「ああぁ……、きらり……」
私はきらるなんだけど、もう、どうでもいい。
酔っ払いで腐ってて無遠慮で父親で、しかも他の人に見守られて。
きっといままでで一番、最低最悪な行為になるんだろうな。
こんなじゃ絶対〝幸せ〟なんか手に入らない。
お父さんの手が、下着を付けていない私のお尻をなでて、私は目を閉じた。