(十二)
(十二)
「ほんとにいいのかな?」
心配する彼をなだめながら、私は玄関チャイムを鳴らした。鍵は持ってるけど、帰ってきたことをお母さんに知らせないと、掃除が終わってなかったら大変だ。
ドアホンの前で返事を待ってたら、いきなり玄関の鍵がカチャって鳴ってドアが開いた。
ドアの隙間からぬっと顔を出したお母さんと目が合った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
お母さんは私の顔から横に視線をずらして、それからぐぐっと顔を上げた。
「こんにちは」
爽やかな彼の挨拶にお母さんは固まってしまった。
彼はお母さんよりもちょびっとだけ背が高い。
名前を告げるだけの軽い紹介をして、彼を私の部屋に案内したあと、お母さんに「飲み物を取りにいらっしゃい」と台所に連行された。
「あのひと、いくつ?」
いきなり厳しい口調だ。
「えっと、中三」十四歳って言った方がよかったのかな?
「お友達って言うから、クラスの子かと思ってたわ」
ため息交じりに吐くようにいう。呆れ返ってるのがよくわかる。
「ほらあ、高森さんだよ。集団登校の先輩の。私が二年のときにバレンタインのチョコレートあげたの覚えてるでしょ? お母さん作るの手伝ってくれたじゃん」
私がバレンタインデーを本気になったのは後にも先にも彼が小学校最後の年のあのときだけだ。
「ああ、あの子なの」
なんとなくは覚えててくれてたみたいだ。
「やっとね、やっと本当にお友達になれたの」
「ひょっとして、あの子がけーくん?」
「えっ、あ、うん……」
すごい、昨日叫んだのをやっぱり聞いてたんだ。
「ひょっとして、昨日も会ってたの?」
「うん……」
「もう、帰ってきたときなんか様子がおかしいと思ったのよ。なにかあったのね?」
「なにかって?」出来れば聞かないで欲しい。
「それは、子供らしくないお付き合いのこと……」
好きな男の子と内緒で遊んだ娘が真っ赤になって帰ってきてその子の名前を叫んでいたら、何かあったって思うのも不思議ではない。おまけに熱に浮かされたみたいにぼうっとしたままカーペットを濡らしてしまったんだから怪しさの極致だろう。
でも実際は、子供らしくないどころか、お外でお漏らししてしまってパンツを洗ってもらったという幼児レベルのできごとで、お母さんの想像とは似て非なるものだった。
「そんなのない! なんにもないの! 悪いこともイケないこともなんにもないの! ホントなの! お母さん信じて! お母さん、内緒のお友達は嫌なの! 隠れてこっそり会うのは嫌なの! ねえ、ずっとずっと好きだったの! お母さん、知ってるでしょう! チョコレート、一緒に作って頑張ってねって言ってくれたじゃん! ホワイトデーに、ほら、彼からこのヘアピン貰ったとき、よかったねって言ってくれたじゃん! ねえ、認めて欲しいの! ダメなことはしないから、絶対、高森さんもわかってるから! ねえねえ、お母さん!」
私は必死だった。
お母さんの腕を掴んで両足で床を踏み鳴らしながら、人生でこれほど必死だったことはないぐらい喋った。
「もう、なにもダメなんて言ってないでしょう」
私はもう泣きそう。
「ほら、ジュース持って、お母さんはお菓子持ってくから」
彼は私の部屋とは思えないほど綺麗に片付けられた部屋の中で神妙な顔で正座していた。
彼の座っているあの位置は、昨夜のあの場所で、カーペットの上には夏物のインド綿のラグが敷いてある。お母さんが目隠しに敷いてくれたらしい。
カーペットはアイロンのスチームを掛けて、消臭スプレーも振りまいて、すっかり乾いて分からないはずなのに、気付かれたらどうしようって心配だったんだけど、これなら大丈夫だ。
部屋の真ん中にはリビングの背の低いガラステーブルがいつもここにあるんだよって感じですました顔で置かれている。
なかなかセンスがいいと思う。お母さん、お洒落なこともやればできるんだ。
私は手にしていたトレーをテーブルに置いて、ジュースのグラスを並べると、迷わず彼の隣に座った。
お母さんは向かい側でお菓子の乗ったお皿を置いて私が置きっぱなしにしたトレーを片付けた。
その仕草がすごく優雅で上品で、お母さんを見直した。
お母さんはなんて言うんだろう?
彼はなんて答えるんだろう?
私は黙ってた方がいいんだろうか?
ほんの数秒の沈黙が窒息してしまいそうなぐらい永く息苦しい。
緊張してるのか、彼の頬っぺたが少し赤い。微かにだけど、隣から温かな体温すら感じる。
お母さんが向かい側で居住まいを正した。
こんな状況なのに、不謹慎にも私は頭の中で『カーン』と開幕のゴングを鳴らしてしまってた。
「せっかく来てくれたのに、気の利いたおもてなしができなくてごめんなさいね」
「いえ、突然お邪魔してすみません」
「なにか、この子が無理を言ったみたいで」
はい、無理を言いました。
「最初、お誘いいただいたときはいきなりお訪ねするのもどうかと思ったんですけど、友達と言ってもきらりさんと僕とでは随分違いますから、きちんとご挨拶しておいた方がいいのかなと思いまして」
随分違う。確かにそうだ。
「そうねぇ、きらりと並んでるとあなたは随分大人に見えるものね」
「やっぱりそうですよね、兄妹ぐらいにしか見えませんかね?」
「クラスで仲の良いお友達とかはいないの?」
お母さん、そっちを聞く?
「学校が高崎の方なので、外で会う友達はあまりいません。それに受験勉強もありますから」
「もう、高校受験なのね。あなたも、この子の相手なんかしてて大丈夫なの?」
「なので、一緒に勉強しようと思ってます。きらりさんも宿題はまだのようなので」
「宿題を見てくれるのは嬉しいんですけど、はっきり言って、どうして家の娘なんかと友達になろうと思うのか不思議なのよ」
はっきり言ってお母さんは明らかに不快感を顕にしている。声のトーンが半音上がった。言葉にもかなり刺がある。まるで彼をいかのおすしの人みたいに思ってるんだ。実際それに近い人なのかもしれないけど、これはゴングを鳴らして正解だった。
「どうしてきらりさんと友達になりたいのか……、うぅん、僕にもよく分かりません。ただ、一緒にいると……、いや、違うな……、一緒にいたいんです。きらりさんのそばにいたい。お母さんの心配は分かります。でも、きらりさんを傷付けるようなことは絶対にしません。本当に一緒にいたいんです」
えっ? そうなの?
「あのう……、それは、お友達と言うより、なにか、きらりとお付き合いしたいって、そう、言ってるみたいに、聞こえるん、だ、けど?」
お母さんは恐る恐る聞いている。
「はい、そうですね」
えっ、うそっ!? 言い切った。
「それは、きらりでないとダメなの?」
当事者の私がびっくりしてるぐらいだから、お母さんが押されて当然だ。
「僕はまだ子供で、大人の力がないと何もできません。お小遣いも少ないのできらりさんを楽しい場所やオシャレなお店とか、美味しいレストランとかにも連れて行ってあげることはできません。でも、こうして一緒にお喋りしたり、勉強したり、散歩して綺麗な花や景色を見たりして、そうやって二人で同じ時間を過ごすことが僕にとってとても幸せなことなんです。だから僕はきらりさんとこれからもずっと一緒に生きていきたい」
「きらりは?」
えっ!? 私!?
お母さん、困ったからって私に振らないで! 一緒に生きていきたいなんていきなり言われたら……。
「えっ、うん、そう、私も……」
何か言わなきゃと思っても言葉が浮かんでこないで口ばっかりパクパクさせて、これじゃあまるで掃除をサボった水槽の金魚だ。
「私も……、私も。けーくんのお嫁さんになる!!」
その途端、真剣な顔で私を見つめていたお母さんが思い切り吹き出した。
「ご、ごめんなさい……、じゃあ、しっかり、勉強、教えて、もらう、のよ……」
お母さんは笑いを必死にこらえながらあたふたと部屋を出ていった。
どうやら私は頭に浮かんだいくつかの言葉の中でいちばん変なやつを選んでしまったみたいだ。
台所の方から「あーはは」という笑い声が響いてくる。アニメ以外で人間が、『あーはは』と笑うのを初めて聞いた。お母さんが涙を浮かべながらお腹を抱えて台所でしゃがみ込んでいる姿が目に浮かぶようだ。
「じゃあ、しっかり勉強しようか」
けーくんの言葉は優しいけど、表情はちょっと呆れた色合いも含んでた。
でも、延々と続きそうなお母さんの尋問を一撃で終わらせたんだから、私の攻撃力の高さを褒めて欲しいぐらいだ。
ふーっと鼻でため息をついたら、彼が頭をポンポンしてくれた。
いきなりのスキンシップに、私は身体中が熱くなって蕩けて、危うくまたカーペットを濡らしてしまいそうになった。
この二人だけの世界。きょうは大いに期待できそうだ。
まとめの問題を解き終わったのと、彼がペンを置いたのは全く同時だった。
「結構、頑張ったね」
彼が笑いかけてくる。
「うん」
壁の時計はもう六時過ぎだ。四時間以上も勉強してたんだ。
彼はお母さんに「遅くまですみませんでした」と言って、バタバタと帰っていった。
私の部屋にグラスを回収に来たお母さんに、結果報告をした。
「ねえ、夏休みのワーク、いきなり全部終わったんだよ」
完成したワークブックを両手で突き出す。
「うそ、あの子がやったの?」
ワークを受け取ってパラパラ広げてる。
「もお、ちゃん自分でやったんだよ」
「あら、ほんと……、すごいわね……」
ページに書かれた私の字を確認して感嘆の声を上げた。夏休みのワークブックを一日にして終わらせるなんて、明日はきっと雨や雪どころではない。とてつもないことが起こる。
「彼も勉強がはかどったって!」
思わず鼻息が荒くなる。
「あんまり静かだから、何してるのかと思ったけど、覗いたら勉強してるんだもんねぇ」
お母さんは時々飲み物やおやつを持ってくるフリをして様子を見に来てた。たぶん、ベッドの上で仲良くご休憩してないかなんて確認しに来てたんだろうけど、そんな雰囲気微塵もなくて、その度に彼はお母さんと勉強の進み具合や受験する学校のこととか、ちょっとした世間話なんかをしていた。それは私も知らなかった彼情報なので、隣でふんふん聞いていた。
あっ、四時間の間、けーくんの声を聞いたのはお母さんとの会話がほとんどだ。
お母さん、ズルい! けーくんの勉強の息抜きがお母さんとのお喋りになってた。
「私、お喋りだって全然してないんだよ」
「ずっと勉強してたの?」
さすがにお母さんも呆れた様子になってる。
「手も握ってくれないの……」
私もお母さんに合わせて、言わなくてもいいようなことをぶつぶつ言って呆れた様子になった。
「あら、未来のお嫁さんなのにねぇ」
お母さんがくくくって鼻で笑う。
新婚さんじゃないんだから、お嫁さんになるからって、ずっとくっついてるわけじゃないんだよ。
私は頬っぺたが破裂しそうなぐらい膨れっ面になった。
でも、ずっと隣にいてくれたおかげなのか、普段は解けないような問題がスラスラできた。まるで私の脳細胞と彼の脳細胞が一体になってしまったような感じだ。とすると、けーくんの頭脳はパワーダウンだったのかもしれないけど、彼も問題集をやり切っていた。
きっと、同じ場所にいて同じ空気を吸っていたから二人のパワーが合わさったんだろう。
心がシンクロしたってやつだ。
私の吐いた空気をけーくんが吸って、けーくんが吐いた空気を私が吸って。
きっとけーくんの吐いた息の中にはいろんなけーくんの成分が含まれてて、それを私が美味しくいただく。
それで、けーくんは私の成分を美味しく堪能したんだ。
つまり、それはほぼ口移しと同じ、マウス・ツウ・マウスだ。
私たちは四時間もマウス・ツウ・マウスをしていた。もう、あらかた私はけーくんに飲み込まれてしまった。だから二人は黙っていても触れ合わなくても愛を確かめ合うことができた。これこそが崇高な愛のカタチなんだ。
ああ、私はいったい何を言ってるんだろう。
あ、マンションの下まで、ちょっとそこまで見送りに出たらよかった。いまなら真っ赤になった私たちを誰かに見られても構わないのに。