(百十七)
(百十七)
「参ったな……」
いや、参っているのは私の方だ。
完全に引き揚げるタイミングを逃した。
男が服を着る間にリビングを抜け出ようと思っていたからだ。
若者は裸のまま、すぐ前の床にぺたりと座り込んで私の頭の後ろから首を丁寧になで付けている。
ひとり放り出された侘しい男が私をなでたくなる気持ちは分からないでもないが、女の匂いがぷんぷんするべとついた手で触られるのは気分が悪いし、目の前で下着を付けていない男のものが項垂れている様子は乙女に対してあまりにも失敬ではないだろうか。
かといって、注意喚起のためにそれを引っ掻くのも気の毒だし、そこに噛み付いたりしたらかえって喜びそうだ。
男は私の腋に腕を突っ込んで、赤ん坊に話しかけるような言葉で巧みに容姿を褒めながら、抱えるように胡座をかいた脚の上に引き上げた。
それで、私を仰向けに抱いて胸やら腹やらをファーコートの品定めをするみたいにふかふか具合を確かめている。
小犬相手ならそれでいいかもしれないが、この男がさっき言ってた通り、私はオオカミなのであまりに扱いが馴れ馴れしく気に障るようならば食う。それだけだ。
男は女が出ていった泣き言をつらつらと女々しく私にぼやく。
そして、男は私に鼻をこすり付け口の周りを舐めまわしてくる。
どちらかひとつでも鬱陶しいのに、両方同時なのでもうこいつは始末するしかない。
が、別の部屋には女もいて、食後誰かに残飯を見咎められる恐れを考えれば、いっそのこと無視して退散した方がいいようだ。
私は男の鼻面を噛んで、怯んだ隙にリビングを抜け出して物置小屋に戻った。
まさか、パンツも穿かずに追いかけてくることもあるまいし、ここなら隠れていられるだろう。
日の出の時刻まであと五時間近くある。とりあえず寝よう。
そもそも私は身体を休めるためにここに忍び込んだんだから。
ランタンの明かりで寝床を整え、暖かなコートの下に潜り込んで体を伸ばした。
「……あ、こんなとこにいたんだ」
ん、なんだ?
声に顔を上げると入口が開いて、さっきの男がこちらを覗いていた。
消し忘れたランタンの明かりで男の姿に斑な濃淡の陰影を描いてる。
残る眠気の量から、まだ夜明け前のはずだが? この神聖な光の穴ぐらに何しに来た?
「あの子がさぁ、始発で帰って家で寝るって。まだ五時前だぜ」
男が私の前に来て溜息をつく。どうやら完全に女に逃げられたらしい。
「なんか、怒っちゃったみたいでさ、女の子って分かんないよね」
****それはきっと、お前が女の寝床に夜這って行かなかったからだ****
男は私に寄り添うように座り込んで、掛けたコートの中に手を突っ込んで背中から腰と尻をなでてくる。その積極性は私にではなくあの娘にすべきだった。
「部屋、行っても良かったのかな?」
****そうだな、女はシャワーまで浴びて準備万端整えて気合を入れて待ってたんだろうからな****
「迷ったんだけどなあ、けど、あの子真面目な子だからさぁ」
男はもう一度、大きな溜息を吐いた。
****あの乳房を覆う見事な下着を見たであろう。あの女であれは〝勝負下着〟というものだ****
「そんな、分かんないよ」
おそらくこの男は中身の乳房に夢中で下着まで気が回らんかったんだろう。
あの女は絶対に生娘ではないぞ、という私見は黙っておこう。
****まったく、うぶな男よ。とりあえず、私が一緒にいてやるから、夜が開けるまでそこで寝ろ****
「あーぁ…………」
まるで私と会話が成り立っているみたいに、男はシェイクスピアの悲劇のように、私の身体の上に倒れ込んだ。
「……けど……、これって、やっぱ誰かいるのかな?」
男は私のコートから顔を上げて、ようやく気がついたみたいに床に置いたランタンに手を伸した。
手の中の歪んだランタンを不思議そうに眺める。
「ひょっとしてお前、捨て犬か?」
私の首輪を回して迷子札や名前がないかを確かめる。
それからコートを持ち上げて、鑑識課員のように慎重に、なにかの手掛かりを探しているようだ。
たぶん、飼い主がこの家に私を捨ててコートとランタンを置いて行った、などと考えているのだろう。
「しかし、よく見るとボロボロだな、ひどい服、子供服か……、いや、orange feelって結構高級ブランドじゃん……、あ、臭っ、ホームレスとかかな、やべぇ、臭い……」
****おいおい〝臭っ〟は失礼だぞ。私だからいいが、もし持ち主の前でそんなことを言ったら、干からびるまで精を抜かれてしまうぞ****
男はコートに名前などが書いてないかじっくりと顔を近づけて調べている。
****調べるのはいいが、それはゴミの中にあった服だ。もし名前があってもそれは元の持ち主のものだからな。ま、お前に言っても聞こえんか……****
熱心に調査を続ける若者の体温が急激に高まってきた。
不思議に思い様子を見ると、男はコートの裾の方を何やら気にしているようだった。
****そこはあまり顔を近づけない方がいい、あの子の小便臭いからな****
これを着てる女の子は股の締まりの悪い子で、何度も裾に小便を引っ掛けてた。
「フッカ……?」
****ん、フッカ? なんだ?****
「フッカ、どうして!?」
男はいきなり私の身体を抱きしめて、首筋に唇を這わせた。
****きゃっ、ちょっと!****
何万年ぶりだろう、こんな乙女な声を上げたのは。
オオカミとして森を駆けていた青き時代を思い出してしまった。
「フッカ……、あぁフッカ、会いたかったんだよ」
男の唇がだんだん首を上がって、アゴを甘く食んで、そして私の口に届いた。
****こらっ、一緒にいるって言ったけど、そういう意味じゃないから! 落ち込んでたから元気づけてやろうって思っただけだから!****
ちょっと気を許すと男ってやつは女の厚意を好意と受け取ってすぐに勘違いして行為に走る。
男は私の牙も恐れず、稚仔に食餌を与えるように、私の口の中に舌を差し入れ、牙も歯茎も舌までもを舐め尽くして、私の口腔に肉を食む以上の至福の時を与えている。
男の唾液が熱く甘い。なんだこいつは。
私は前にこれと似たようなものを感じたことがある。
あのとき、みずほの体を通じて感じた、光市の口付けだ。
だがいまは、私の体に直接男の情が伝わってくる。なんという心を揺さぶる悦び。
男はあらゆる動きで私を満たそうとしている。
私で満たされようとしている。
それは、ヒトのオスの動きだ。そしてヒトのメスに対する動きだ。リビングのソファーで女を恍惚とさせていた巧みな動きだ。
この男は、私を人間の女として、情を吐き出そうとしている。
さっきの女が待ち望んでいた、リビングでの芽吹いた情交のその先に、いま荒々しい動きで私を導いている。
私は慌てて自分の腕を見て脚を動かし尾を振った。
人間……、じゃないよね? オオカミだよね?
すべての生命が持つ共通の根源的思念をこの内に宿していても、私のいまの体は間違いなくどこをどう見てもオオカミだ。
なのになぜだ、なぜこの男はぁ……、あっ、ん、ちょっと、ダメってば……。
私が光市に惹かれたのは、あの男の誠実さ、優しさに心を奪われたからだった。それがいま、こやつの力強さに惹かれている。この男はいま力で私の体を奪おうとしている……、うっ、奪っている……、あぁ、奪ってしまった!
なんということだ、私の中の野生が優しさよりも猛々しさを求めていたのか。
くそっ、私ともあろうものが完全に主導権までも奪われてる。
すぐにでもお前を食い殺すことができるんだぞ!
いまアゴを閉じればこの者の顔半分は私の胃袋に納まる。
しかし、こやつを喰らうよりも、もっともっとこの悦びを感じていたい。
他者の身体を通して間接的に感じるものではない、擬似ではない生の経験。いまこの私がこれからいったいどうなるのか、それを知りたい!
「フッカ、フッカ!」
男が名を呼んでいる。
****違う! 私は『天地』、私の名はあめつちだ!
私を欲しくば、名を呼べ、讃えよ! 私はこの地を統べる者、あぁっ、めっ……、つっんんーっ…………****
「あ、ああっ、あめっち、あめっちぃーっ!」
一知女道。
私は古の青き梟のように、角刺如く道を知った。
「……ん? えっ、あめっち?」
男が腕の中で白く濡れた私を確かめた。
****そう、あめっち。可愛い名前でしょ?****
私の心まで奪おうとする男の顔をいたずらっぽくなでた。
「なんだよ、フッカ、あめっちごっこか?」
****ごっこ?****
「この間はぴょんぴょんダンスだったもんな」
なんだこの男は、私をどうしてもその〝フッカ〟という者と思いたいらしい。
その娘と素敵なプレイを楽しんでいるつもりなのか。
いったいそいつはどんな女なんだ? そんなに私に似ているというのか? ひょっとして家で飼ってた雌犬か?
「フッカ、どうしてあんまり夢に出てきてくれなくなったんだよ」
その〝フッカ〟というのはこの男の想い人なのだろうか?
その割にはさっきの女にずいぶんとご執心だったのではないか。
まさか、大人しそうな子供のくせに、二股掛けってやつか? 私を入れたら三股になってしまうぞ、ポセイドン小僧。
****ね、あの子、誰?****
「あ…………」
****ほら、さっきのあの子、誰?****
「う…………」
私はそれを五回繰り返した。
あの女はこの男の小学校からの友達で、いまも同じ中学に通う同級生なのだそうだ。
元々この男にはその〝フッカ〟という恋人がいたのだが、去年の春にその娘が病気で倒れた辺りから、女が急速に近づいてきたらしい。
おそらく恋のライバルがいなくなって、動きやすくなったと思ったんだろう。
男はそれでもフッカとやらに操を立てて女とは友達以上には進まなかったのだが、夏休み頃から女と受験勉強という名目でデートのように二人きりで会うようになって、そしてあの先日の〝星降る夜〟の翌日、ついに女の誘惑に負け、口付けをしてしまったらしい。
そこからは夢でも見ているような心地で自ら女の尻を追いかけるようになった。
二人の関係も先を急ぐように男の思うままに進展して、今宵の泊まりがけの勉強会も、自分から誘ったのだと白状した。
あの持っていた一箱は、母親から〝男の責任として持つように〟と言われてもらったものらしい。
ただ、女とは本当に最後までは、いってないんだと弁明する。
まあ、あれほど残念がっていたこの男の姿を見れば、あの女とちっちできなかったというのは確かなんだろうが、逆に言えば、目的地周辺までは既に到達していたと言ってるようなもんだ。
「フッカ、ホントにごめん、オレ、どうかしてたんだ」
それはそうだろう。やりたい盛りのこの年齢の若者が女に罠を仕掛けられて穴に落ちずに過ごせるわけがない。
****生きる道は険しいものだ。若者が過ちを犯すのも仕方がないこと。だが、二度目はないぞ****
「フッカ、オレ、お前だけだ、愛してる!」
男が私の寛容さに感動して両腕で絞るようにぎゅうっと体を抱き締める。
この私を息苦しくさせるほどの膂力とは、ひとの力とも思えぬ。〝これが愛の力なのね、ナンチャッテ!〟ってやつか?
私も負けずに腹に力を込めて、少し懲らしめてやる気持ちで、千切れんばかりに男をきつく締め上げた。
しかし男は悲鳴もあげず、私の首筋でうっとりとした溜息をついた。
「フッカ、キスしていい?」
男が私の耳に囁く。
私は若者の求めに応じ、首を後ろに捻った。
そこには優しく切ない、私を欲する男の顔があった。
その若者はまるでオアシスを見つけた砂漠の遭難者のように、夢中になって私の口を貪った。
男の目にも映ったであろう、若者を欲する恋染めし乙女の顔が。
私は口付けしながら体の向きを変えようと試みる男に両脚を踏ん張って体勢を保った。
この男の目に私の姿がどう映っているのか知らないが、人間と違ってオオカミにはこの男女の体勢が一番しっくりと落ち着く。
「ねぇフッカ、きょうはどうしてずっと後ろ向きなの?」
なんだその赤ずきんちゃんみたいな問い掛けは?
〝それはね、私がオオカミだからなんだよ〟なんておばあさんみたいな台詞はさすがに言い難い。
不本意ながら、コートを床に敷いて背中を預け、仰向けになって男に腹を見せた。
人間は生き物を気軽に仰向けに転がそうとするが、我らにとって腹を見せるのは親愛だけでなく敗北や服従の意味もあるのだ。
途端に自分が弱く頼りない存在になったような気がして不安になる。
早く腹を隠したくて、男に「来て」と手招きをした。
私の顔から視線をゆっくりと下げて胸、腹と眺めていた男の目が、ひと所で止まって、そこに顔を寄せてきた。
私はいったいなにをやってるんだろう?
へとへとに疲れてこの家に忍び込んだんじゃないのか?
夜明けまで眠るはずじゃなかったのか?
これでは余計に疲れてしまうのではないのか?
あぁ、うぅ……、まあ……、んん……。
いや、長旅の中ではこういう癒しのひとときがあっても悪くはない。
故郷の近く、谷川岳辺りの一泊何万円もするリゾートホテルでも疲れを癒すエステが女に大人気だそうではないか。
ときどき頭に浮かんでくる様々な疑問は、とりあえず、もうどうでも良くなってしまった。