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(百十六)

   (百十六)


 寒い。


 夜遅く、惹き付けられるようにふらふらとたどり着いたその民家の中で、私は休ませてもらうことにした。

 大きな食堂や広間のある、こういった作りの建物はよく地域の集会所なんかになっている。

 だとしたら、夜間は人がいないだろう。


 入ってすぐの廊下にウォークインクローゼットというのだろうか、狭い物置部屋があって中にダンボールが積まれていて、身を隠すにはちょうどいい場所になっていた。

 部屋に入って扉を閉めると、真っ暗になる。

 部屋の明かりを点けて外に光が漏れては厄介なので、ポケットからランタンを取り出して、スイッチを付けた。

 あの〝星降る夜〟の熱で変形してしまって接触が悪くなっているのか直ぐに明かりが点かなくて、二、三度振るとチカチカと瞬いてやっと点灯した。

 積まれたダンボールの隙間の壁際に座って前の床にランタンを置いた。

 歪んだプラスチック窓のせいで辺りは斑模様の明るさの光の部屋になった。

 ここにいると薄暗い穴ぐらの中のようで気持ちが落ち着く。故郷の森の巣穴を思い出した。

 神聖な穴だった。


 寝場所を決めて、横になってコートを布団代わりに体に掛けた。

 今夜はこのまま寝よう。

「おい、きょうはここで休むぞ」

 やはり反応はないか。

 日が沈んでからは、もうすっかりあの子の意識は消えてしまっている。

 手を伸ばしてランタンの明かりを消した。


 私ももう限界だった。





『…………』

 ん、なにか、話し声が聞こえる?

『…………!』

 誰かいるのか?

 まだ、夜中のようだが。私が眠ってから何時間かは経ってるだろう。

 こんな時間に訪問者か? それとも元々家の中に人がいたのか?


 起き出して物置部屋から廊下に出ると、声を追って二階への階段をそっと上がった。

 声は上がってすぐのドアの中からのようだ。

 ドアの前に座り込んで中の様子を探った。

 声の調子から若い男と女であることは間違いなさそうだった。



「ちょっと、もう……、近いって」

「それじゃ、よく見えないだろ……、ほら」

「もう……、はいはい、すごいすごい」


 なんだ、こんな夜中にチチクリあってるのか。


「ねえ、1月4日の夜って何してた?」

「私? 勉強に決まってるでしょ」

「オレ、たまたまその時間、星見てたんだけどなぁ」

「へえ、そう……」


 男の方が積極的なようだが、女は素っ気ない返事だ。



「えっと……、飛騨深宇宙研究機構で1月4日22時38分に観測された超高エネルギー粒子の流れについて、世界各地の共同研究機関の観測データとの解析から、いまからおよそ五億年前に、宇宙規模で何らかの衝撃的な事象が発生したことを示す名残だと思われる……、って、すげえよな」

「それで?」

「こっから先、有料会員って。気になる?」

「いいえ、私は明後日の、あぁ、もう明日か、ん……、の入試の方が気になるけどね」

「いやいや、お前なら試験なんて名前さえ書けば合格でしょ」

「確かにそうかもしれないけどねぇ」


 ほう、受験生って訳か、それにしても大した自信だな。


「けど、男の子とこんなことやってるってバレたら内申で不合格になっちゃうね」


 おいおい、中でどんなことやってるんだ?


「それはオレも一緒だよ」

「きみ、後期で成績落ちたもんねぇ」

 女がけらけらと声高に笑う。

「ここんとこ、さ……、ぜんぜん……、ねぇ……、やる気出なかったから、なぁ」

「もう……、や……、こんなことしちゃ、ダメだよ……」

「……ん……」

「……うぅん、や……、ん……」


 ふん、やる気満々じゃないか。まったく。勉強しろよ。


「あっ、んん……、ちょっと……、や……このまま? だめ……、ね、持ってる?」

「あぁ、うん、待って……、ちゃんと……着けるから……」


 私のような乙女の前で、よろしくないな。

 なんとなく、続きをさせてはいけない気持ちになって、私はわざと廊下を叩いて音を立てた。


「えっ、いまのなに!?」

「うん……、オレ、ちょっと見てくる……」


 男の足音がこちらに近づいて来る。

 私は立ち上がって、待ち構えた。


 ノブがゆっくりと回る。ドアがそおっと内側に開いて、隙間から若い男が顔を覗かせた。

「あ、ええっ!?」

 男は驚いた様子で、私と正面で目が合った。

 中のふたりの行為と試験という言葉から、大学受験と勝手に思っていたが、まだ子供だった。どうやら高校の入試ってことだ。

「どうかしたの?」

 部屋の中で女が声を上げている。

 そっちは姿を見なくても漏れ出してくる匂いでだいたい分かる。

 気の弱い、根暗ないじめられっ子タイプの女だな。

 部屋の空気がジメジメと湿ってカビ臭く感じる。

 一方、目の前の男は、もうすっかりその気になってる雄の匂いだ。

 大人しい女を力づくでものにしようとはち切れんばかりに張り切って盛り上がってるのが目に見えて分かる。

 その女相手にどういう格好をしていたのかおおよそ想像が付くが、私のような乙女の前ではズボンのファスナーはちゃんと閉めたもらいたい。


 男が部屋の奥に振り返った。

「犬、真っ白いの」

「はぁ、犬ぅ? なんで」

 女の声が間抜けに外れてる。

 男が私の前に屈んで、馴れ馴れしく頭をなでてきた。

「へえ、綺麗……、カッコイイなぁ、どっから入って来たんだろ?」

 男が私の体を抱えるようにして本格的になで回してくる。

 この若者は雌体をなでるのが好きなようだがレディーの扱いが下手だ。

「なに、野良犬?」

「ちゃんと首輪してるよ、迷子じゃないかな」

 その首輪はあの子が白犬(みずほ)にもらったやつだ。大事にしているようだが、私のではない。

「ふうん」

 若者よ、女がずいぶんと不機嫌になってるようだが、私なんかに構ってていいのか?

 男を睨んだつもりだが、何を勘違いしたのか、嬉しそうに鼻の頭をこすり合わせてきた。

 乙女が初対面の男とするようなことじゃない。

 私は頭を振って顔を逸らすと、ドアの隙間から部屋の中に小走りに入った。

 この男の食い物にされるお相手の女の顔を拝んでやる。

 部屋は広々としたリビングで、真ん中にソファーとテーブルの応接セットが置いてあった。

 女はそのソファーに座ってこちらに背中を向けている。

 来訪者にはまったく興味がないようだ。

「ほら、真っ白だよ。ホッキョクオオカミみたい」

 男が私を追い掛けてリビングに戻って女に声を掛ける。

「あの、私、犬嫌いだから」

 女は明らかにツンツンとして、私を一瞥もしようとしない。

 ひょっとして、せっかくその気になってた所でお預けを食ったのが気に入らないのか?

 テーブルの上にはさきほど男が〝持ってる〟って言ってたモノがちゃんと一箱も用意されてて出番を待っている。

 私が呆れてため息をつくと、女がこっちを睨んだ。

 私はその視線で脚が止まった。


 気の弱い、根暗ないじめられっ子だと思った女は、匂いも見た目もまったく予想通りなのに、身にまとったオーラは驚くほど自信に満ち満ちている。

 男が己の肉体に欲情し耽溺することを、この女は微塵も疑っていないのだ。

 こんなお粗末な容貌で特段性格が良いという訳でもなさそうな様子なのに、よくこんな二枚目の若者が一緒に課外授業を一箱分も学ぼうなんて思ったものだと不思議に感じたが、この射抜くような鋭い女の眼光で分かった。

 この若い娘は、己の色香でこの男を惑わせているのだ。男に押し倒される格好をしながら、巧みに男を引き倒し情を満たす。

 そんな魔性の臭気が辺りの湿ったカビ臭さを押し退けてこの女の芯からぷんぷん漂ってくる。

 深山の湿地に生えるあのあらゆる生き物のオスを惑わす真っ赤な茸の匂いにそっくりだ。

 匂いに鋭敏な私がもしオスであったなら、いまごろ泡を吹いて倒れていただろう。

 この女、オオカミの身をすくませるほどとは、呪怨とも思える並々ならぬ男への情欲の執念。

 私はこのモンペの似合いそうな女醜(しこめ)にうぶな若者が餌食となって精気を食い尽くされてしまうのではないかと身震いがするほどの戦慄を感じ、リビングから出て行けず、女の視線を避けてソファーの後ろに身を隠すように伏せて腹ばいになった。


 若者はしばらく私のそばにしゃがみこんで白い乙女の手触り肌触りの感想を女に伝えていたが、女のあまりの不機嫌さに諦めて、ソファーに戻って娘の肩に手を回した。

「ちょっと、もぉ、そいつの毛とか付いてないよね!」

 私のことを〝そいつ〟と呼ぶ女の言葉は〝?〟でも〝!?〟でもない〝!〟のくっ付いたきついものだった。

「分かったよ……」

 男はブツブツ言うが、結局は女の言いなりで、体を捻って服に付いた私の体毛を調べていたが、諦めてさっさと服を脱いでしまった。

「これでいいよね」

 情けない男だが、女もそれに何も言わないとは……、まさに女の思う壷ということか。

 呆れてソファーを見上げてみると、女が何も言わないはずだ。男がとっくに口を塞いでしまっている。

 女のなんと満足気な表情よ……。

 ソファーの後ろにいては、男の手がどう動いてるのかは分からないが、しかし、口付けが終わっても女は男の肩に頭を預けたまま、うっとりと目を閉じているところを見ると、男は懸命に女に奉仕しているに違いなかった。或いは女もその手指で男を慰めているのかもしれない。

 じっと耳をそばだてると、ふたりの荒い息遣いに混じって、まるで醤油を垂らした納豆を箸で念入りに捏ね回しているような粘つく音が漏れ聞こえてくる。

 女の匂いに苦味と甘味が増してくる。

 こんな大人の情景に乙女な私は耐えきれず、緊張の余りひとつ小さく咳払いをした。

 すると女は男の肩で薄く目を開けて、口元からは恥じらうような娘の嬌声を出しながら、私の鼻先を鬼の如き形相で射抜くように見据えた。

 私は慌てて目を伏せた。

 おぉ怖っ。

 そこまでやりたいと思っているなら正直に「やろう」と言えば、男も大喜びで飛び乗って来るだろうに、あくまでもこの女は生娘のように振舞って受け身でいたいものなのか。

 ちらちらと上目に様子を伺っていると、女はパッと男から体を離した。

「ごめん、やっぱり明日の試験が気になって……」

 明日(あした)試験(しけん)じゃなくて、(あたし)視線(しせん)が気になって、だろう?

「あ、ううん、僕の方こそこんなときに誘って……」

 男はずいぶん名残惜しそうではある。女の肩からなかなか手が退けられない。

 女は私を向いて、もう一度強烈な顔で睨んだ。

 凄まじい眼力だ。

 よほどの犬嫌いなんだろうか、オオカミだけど。

 女は潔くすっと立ち上がって、手慣れた動きで形の良い乳房を飾りの付いた下着とニットのセーターで隠してスカートの裾を直した。

 なるほど、あの、男の好む最適解のような胸の膨らみがこの女の自信の源か。

「ちょっと、シャワー浴びて上で寝るわ」

「あ、うん……」

 未だに未練がましい男は靴下だけの裸で情けない。

 女は二言三言、男と言葉を交わし、男がもう一度口付けをしたがっているのをさらりと受け流してリビングを出ていった。

 どうやら上階にはきちんと寝床の整った部屋があるらしい。

 だったら最初からそこでやればいいものを、若者の情欲は待ったなしだったようだ。


 壁の時計を見ると夜中の二時。


 何をやってるんだ、この子らは。勉強しろ!



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