(十一)
(十一)
さすがに二日続けて図書館に行くのは抵抗がある。
いくら彼が私を欲しているとわかってても、私の方から行くのはなんとなくガッツいてるみたいだからだ。でも、昨日みたいに「明日の午後も図書館で待ってるからさ、きらりちゃん、絶対に会いに来てよ」って、口では言ってないけどなにかそういう雰囲気でお願いされたみたいな感じだったら仕方ないんじゃない?
ゆうべ、あの後のお母さんとお父さんの対応は、悪夢よりも酷いものだった。
もう、思い出すのも辛い出来事だ。
こっそりひとりで片付けられるような生易しい状況ではなかったからだ。
私が泣きながらお風呂に入って「こんなふうに彼も洗ったのかなぁ」なんてパンツを手洗いしてる間に、お母さんがカーペットに出来た水溜まりを掃除してくれた。
「あんたが小さい頃にリビングのソファーを濡らした量の十倍はあった」という表現は、私の成長を祝福してくれたものと解釈しよう。
「明日、病院に行こう」というお父さんの声は無視無視!
「きょうはたまたま体調が悪かっただけ!」
湿り気の残るカーペットにはバスタオルと重しを乗せた。
「オヤスミナサイ!」
私は強制的に部屋の扉と意識を遮断したんだった。
今朝、カーペットの湿り具合を気にしながらお出掛けの準備をしていたら、
「昨日あんなことがあったんだからきょうは家で休んでなさい」なんてお母さんに言われたけど、約束があるからって振り切った。もちろん病院の件は無視無視。
私は昨日にも増して可愛く、可愛く、可愛い格好で図書館のホールに入った。
閲覧室に入る前に思い立ってトイレに向かう。昨日みたいなことになったら大変だ。できるだけ事前に絞り出しておけば安心だろう。
ついでに鏡の前で服装をチェック。
夏の旅行用にと、この前お父さんのボーナスで買ってもらったひまわりのサンドレスはちょっと大人可愛くていい感じ。肩や胸元や背中が大胆に開いてて大人の隙間だらけで、もしこれに合わせて買った大人っぽいキャミソールを着てなかったらきっと大変なことになりそうだ。
髪も艶があってオッケー!
念入りにお手入れした甲斐があった。彼にもらった星のヘアピンも一番お気に入りで、何年たっても私に合わせて可愛いまんまだ。
クラスにはお化粧をしてる子もいるけど、私はこのままでいい。だって彼は子供の化粧が好きじゃない。それは私が小学校に入学してしばらくして知った。通学途中で彼があの女に化粧の害悪を話していたからだ。私は大人になるまで絶対に化粧はしないと心のメモリーに刻み込んだ。
そんな彼もリップクリームは公認だ。なにしろあの女に、唇が荒れてるからとリップクリームを買い与えていたんだから。彼はプルプル、ツヤツヤの少し厚めの唇が好きなようだ。その辺はクラスのエロい男子とたいして変わらない。だから私も奴と同じリップクリームを買ってもらった。もちろんお母さんにだけど……。
うん、今日の唇もバッチリだ。これならいつキスされたって大丈夫。
夕べ、いろいろ考えた。それで、やっぱりキスまでならギリギリオッケーという結論に達した。
手も繋いだし、ハグもされた……。後ろからだけど、あれってすごいドキドキだけど守られてるような安心感もあった。これからも彼と一緒にいたいなら、あとひとつぐらい何かご褒美を用意しとかないといけない。
お母さん、彼と仲良くするためならキスぐらい構わないでしょ? 私、もう、そんなに極端に子供じゃないんだし。ときどきお漏らしするけど。
でも、でもだよ。
それは……。
私は図書館のトイレの鏡に向かってキスの真似をしてみた。アヒルみたいな口になるのはキスしたことがないから仕方ない。
けど、キスをするならあの女とは別れてもらう。愛を誓うってそういうことだと思うから。いつまでも曖昧な関係をズルズルと引き摺っているのは彼にとっても良くないことなんだ。
「けーくんを救ってあげよう」
鏡の中の私に「うん」と頷いてみせる。
あれ?
「私ってこんな顔だったっけ?」
よく見ると、気のせいかもしれないけど、私がキレイになってるような気がする。
顔立ち、肌の透明感、睫毛の長さ、瞳の輝き、髪の艶、濡れた唇。
そうか、きっとこれが恋する乙女の顔なんだ。
恋して私は輝いてる。自信を持とう。彼も私を好きになる。
「よし!」
両手で頬っぺたをパチンと叩く。
気合を入れて閲覧室に向かった。
中に入ると直ぐに彼を見つけることが出来た。
昨日と同じ席に座っていたからだ。手前の机にあちら向きに勉強している。同じ席に座っているのは、私に直ぐに見つけて欲しいからだ。それで、あちら向きに座っているのは、入ってきた私と目が合わないようにだ。
待ち合わせのとき、遠くにいるのに気が付くと、辿り着くまでの間、妙に落ち着かない。気が付いて、「おーい!」と満面の笑顔で手を振って、でも、辿り着くまでの間、この手はどうすればいいんだろう。
歓迎と喜びであげた手を、目の前に来るまでに下ろしてしまっていいんだろうか? かといって、振り続けるのははしゃぎ過ぎだ。上げた手をそれとなくあごの辺りや頬っぺたにやったりして、騒々しくない程度に歓迎の意を表すのだけど、目の前に来るまでに笑顔は引きつってしまう。
けど、そうはいっても、こっちを向いてるのに気が付いてくれないと、それはそれでガックリするし、イライラもする。
その点、彼のポジションは実にいい。直ぐに居場所が分かるのに近くに行くまで気が付かないし、後ろ向きで勉強中だからこちらに気付いてくれなくてもイライラしなくて済む。
何もかもが、私の理想とする状況にある。
私は余裕を持って彼の背後に迫ることが出来た。
さあ、きょうはどんなふうに声を掛けようか。
背中をポンと叩く?
耳元で「けーくん」って囁いてみる?
後ろから目を塞いで、「だーれだ?」って言うのは図書館じゃちょっと調子に乗りすぎよね?
よし、私語禁止の図書館だから背中ポンにしよう。
半歩彼の背中に迫ってポンの右手を振り上げたら、彼がいきなり顔を上げてぐるっと後ろを振り返った。
「ああ、やっぱりきらりちゃん」
彼の爽やかな微笑みに私は引きつった笑顔で上げた右手を可愛く左右に振った。
なぜわかる? なにがやっぱり?
彼の右隣りに腰掛けて、彼の勉強が終わるまで待つことになった。区切りのいいところまで「待ってて」と言うことなのだ。
きょうも彼は算数と戦っている。いや、中学では算数じゃなくて数学って言うんだ。彼は私のまだ知らない記号や式が並んだひとつ上の世界にいる。いい目をしてる。真面目で、真剣で、私の好きな〝高森さん〟の顔だ。服の隙間を覗いたり胸とお話してるときの目付きはあんまり好きじゃない。
彼の横顔を見詰めながらいい子にしていよう。私はいい子にするのは苦手だけど、いい子に見せるのは得意だ。だから学校でも私はいい子で通ってる。別に褒められたいわけじゃない。いい子にしてないと面倒くさいからだ。なので、1時間でも2時間でもお人形さんのようにしてられる。
でも、いまは彼を見てると退屈もしない。
隣にいると息を吸ったり吐いたりするのまでよくわかるからだ。きっと彼にも私の息遣いが届いてるはずだ。
私は彼の呼吸に合わせて、同じように息を吸ったり吐いたりしてみた。最初は難しいけどコツを掴めばできるようになる。なんだか彼とひとつになったような気持ちになる。
しばらく彼と心をひとつにして、それから、今度はゆっくりと私のタイミングで呼吸するようにしていく。そうすると、不思議なことに彼が私のタイミングに合わせて息を吸ったり吐いたりするようになってきた。
すごい、なんだか彼を操ってるみたいだ。
(けーくん、好き)
彼の頭に電波を送ってみた。
彼の肩がピクってして、チラってこちらをみる。
電波を受信したんだ!?
なんだか、面白くなって口では言えないようなことをどんどん電波にして彼に投げ掛けた。すると、彼の耳が私の電波に反応するみたいに段々と赤く染まってきた。
(ねぇ、けーくん、きょうは私と何して遊ぶぅ?)強烈に甘えた猫なで電波を発信してみた。
「……ックス……」
えっ!? えぇーっ!?
「x=3だ!」
それはきっと解いてる問題の答えだ。
一瞬「エ」が「セ」に聞こえた私が急速に赤くなってる気がして恥ずかしい。
彼はそこでペンを置いて深く息を吐いた。
「どこか、二人だけでおしゃべりできるところに行こうか?」
彼の顔が私とおなじぐらい、赤い。
「ねえ、私、勉強の邪魔してる?」
きのうと同じ公園のベンチに腰掛けて、私はできるだけタメ口になるように頑張った。
『です・ます』を捨てて、『馴れ馴れしく』を心掛けた。そうすることで彼と特別な関係になれると考えたからだ。
「そんなことないよ、来てくれて嬉しいし」
「ならいいんだけど……」
「きらりちゃんは、夏休みの宿題とか、ちゃんと始めてるの?」
「ううん、ぜんぜん」
まだ夏休みも二日目だし、そもそも夏休みに宿題があったことすら頭の中から追い出していた。
「じゃあ、一緒に勉強しようよ」
ああ、一緒に!
勉強を教えてもらうのはイヤ。それはお兄ちゃんのすることで、恋人のすることじゃない。
でも、一緒に勉強なら、それはデートだ。彼は、優しいお兄ちゃんじゃない。私たちは恋人同士なんだ。
「じゃあ、私の家でしよう」
勢いで誘ってみて、これはいいアイデアだと思う。
家なら冷房の効いた部屋でおしゃべりし放題だし、お菓子もあるし、種類は少ないけど冷蔵庫というドリンクバーだってある。
それに、彼だって親に挨拶したらいい加減なお付き合いは出来なくなる。
ベッドもあるけど、もちろんお母さんがいるときは使わなくてもいい。
「きらりちゃん家で?」
ためらう彼を無視して、即行でバッグからスマホを取り出しお母さんに電話して、家でお友達と勉強してもいいか聞いた。
『いいけど、あんな散らかった部屋で?』
ああ、そうだった。
きのう私が派手に濡らした場所を拭くのにいろんなものを部屋の隅に追いやったままだったし、きょうの服を選ぶのに出したクローゼットの中身をベッドの上に広げっぱなしだった。
私は彼に背中を向けて、スマホを手で包むようにして小さく叫んだ。
「お母さん、お願い! お部屋、掃除しといて!」
『何? 男の子?』
スルドイ! 図星だ。
私が返事に詰まると、三秒後に電話の向こうからため息が聞こえてきた。
『しょうがないわね。今度から自分でやるのよ』
優しいお母さんに感謝しながら通話を切って、振り返って彼にニッコリ親指と人差し指で丸を作って見せた。