(百三)
(百三)
そういうときは、いつも動きが早くなった。
ふたりの調和の取れたステップよりも、少し外れた意外な刺激が突き刺すようなアクセントになって、より一層、脳内のドーパミンの放出を増大させるのだった。
外し過ぎない絶妙なバランスで不協和音が挟まれたペアダンスは、同じリズムを刻み続けるよりも難しい。
けーくんはいつも必死になって私にリズムを合わせようとしてくれていたけれど、こうちゃんは狂った私を上手くフォローして、さらに高みへ導いてくれている。
こうちゃんが私に送っている〝情念〟で体の奥が熱い。
確実に私も昂まりつつあった。
こうちゃんの〝情念〟とは〝力〟のことだろうか。
それに、この頭の中で話し掛けてくる『山の精』は『世界さん』に似ている。
なにか、なにかが……。〝未来の子供たちの希望〟、〝子供の家〟、〝一兆匹〟、〝情念〟、〝山の精〟、〝常世神〟…………。
あぁ……、あぁ、あぁっ、……くっ……くるっ!
「みずほぉぉぉぉっっ!」
こうちゃんの瑞穂さんを呼び覚ます叫びが小屋の空気を揺らした。
その瞬間、私の深淵で激しい爆発が起こった。
こうちゃんが解放した無限とも思える膨大なエネルギーの奔流。
私の中でいまビッグバンが、新しい宇宙が開闢する。
いままで経験したことのない凄まじい悦び。意識の全てが光となって真っ白に輝き、その波動が全宇宙の隅々にまで達して、そして、ふっと霧のように四散した。
あぁ、あぁ、あっ、あぁっ……。
こうちゃん、私は五十年の時を超えて、いま甦りました。
こうちゃんの熱い思いが私の中心で泡立ち渦巻き〝力〟となって私を呼び覚ましたのです。
冷たく凍えた体にあなたと同じ三十七度の温もりを与え、様々な酵素が働き出して、細胞は命を吹き返しました。
無数の赤血球が酸素を求めて肺を目指して、脳が私の記憶の鍵を開き、意識を電気信号に変換して、体の全てをコントロールし始めました。
それで、私はいまゆっくりと大きく深呼吸します。
この世界の瑞々しい空気を私に!
息を……、ぐっ、息が……、い、き…………。
瑞穂さんのほんの僅かな苦しみが、四散した私の思念を呼び覚ました。
私はこうちゃんが撃ち込んだありったけの〝力〟を使って宇宙の全てを震わせた。
「きらりきらきらおほしさま!」
ぬるぬるとした大量の粘液でべとべとになったベッドの底板に、足を取られぬように側板に手を掛けて立ち上がった。
こうちゃんは私から分離した瑞穂さんを粘液まみれになって抱きしめていた。
瑞穂さんは、元通り、眠るように死んでいる。
こうちゃんは、まだ生きていた。
「こうちゃん」
足元でこうちゃんが私を見上げている。
「ちくしょう、あともう少しだったのに。あれだけぶち込んだのに平気な顔しやがって、クソビッチめ……」
私を睨んで歯を剥き出しにする。
私はにっこりと笑って頷いてあげた。
「くそぉ……、でも、いいよ。ただでこんなロリっ子とヤレたんだからな。おまえが気を失ってたときは、白犬がキャンキャン喜んで相手してくれてたんだぜ、それにもう一度、瑞穂ともヤレたぁ……」
こうちゃんが私に唾を吐き掛けようとしたけど、力なく鼻の頭をペトリと濡らしただけだった。
「一晩で、幼女と獣と屍体と女だ、フルコースだぜ……。あーぁ、気持ちいかったぁ、最高だったよ、まったくね!」
こうちゃんが苦しそうに顔を歪める。それで、大きく息を吐いた。
私は分かってるよって頷く。
こうちゃんはしばらく私を睨みつけていたけど、仕方なく、情けない顔になった。
「……だから、きみはなんにも気にすることはないんだ。きみは悪い大人に騙されただけなんだからね。……ありがとう、きらりさん」
まったく、だから〝いいひとだけが取り柄〟なんて言われるんだよ。悪人を演じ切ることもできないんだから。
「犬のみずほが私を助けてくれたんだよ」
私は首輪に手輪をやった。瑞穂さんの首周りのサイズに合わないこの小さな首輪が、瑞穂さんの完全な復活にほんのわずかな障りを与えた。
「そうだろう、あの子は、本当にいい子だった。これは当然の報いだ」
私は頷いてみせた。でも、それでもこうちゃんがやろうとしたその哀しみは理解できる。
「なにか、私にできることがあれば言って」
「いいや、もういいんだ。もう……。そうなんだろう?」
そう、もう終わる。いまはこうちゃんの〝力〟の余韻で命を保っているけれど、それもあとわずかな時間でしかない。
「私の〝力〟を使えば、ふたりを助けることもできるけど、この〝力〟は子供たちの未来のためにしか使わない」
私はキッパリとそう伝えた。
「子供のためか……。瑞穂がいつも言っていたなぁ。この子の未来も護りたかったぁ……」
こうちゃんが瑞穂さんのお腹に手を当てた。
「冷たい言い方だけど、死んだ子に未来はない」
こうちゃんはぎゅっと目を閉じてなにかを考えてる様子だった。
私は滑って転ばないように慎重にベッドから降りた。
ベッドを覗くと、こうちゃんと瑞穂さんは、本当に棺の中にいるように見えた。そして、瑞穂さんを抱き寄せるこうちゃんは、まるで眠っているようだった。
私はラグの上に脱ぎ捨てられていたワンピースを頭から被って身頃を整えると、支度をして家を出た。
うっすらと空が白んで、夜空を飾っていた星々が遠く宇宙に帰っていく。
静かなクリスマスの朝だった。
こうちゃんのおかげで、私は一晩中、ヴァチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井壁画〝天地創造〟を何度も何度も何度も鑑賞することができた。
そして、最期は礼拝堂の祭壇の壁画〝最後の審判〟を観ることになったということか。
林道に出て家を振り返ると、私はあの二人が世間からせめて心無い詮索を受けないようにと心から願った。
「きらりきらきらおほしさま」
家の中の全てを整え、ドアに鍵を掛けた。
どうか、ふたりの人生が幸せであったことを祈ろう……。
森の中の林道を進んで、あの祠に出た。
祠に手を合わせてから、広げた紙ナプキンにフライドチキンとピザとパンを並べて、紙コップにコーラを注いだ。もちろん、きちんとカットしたデコレーションケーキも用意して、お供えだ。
そして、そのお供え物で、クリスマスパーティーの続きを始めた。
どれもすっかり冷めて固くなってたけど、パンだけは元々固かったから変わりはなかった。
「みずほも、あめっちも食べなよ」
私は祠を背もたれにして、お腹を満たした。五時間もすればお腹は空くもんだ。
****生きていたのですね****
「白犬のおかげでね」
私は首輪に触れてみせた。それで分かるだろう。
「何度も天国に昇ったけど」
****あなたは、常世神を宿しているのですか?****
「常世神っていうのはなに?」
****常世神は様々な生き物に憑いてその生き物に神の力を与えます。千四百年ほど前にはアオムシに宿ったことがこの国の古い書物に記されています。そのアオムシの住まう木に成った実は非時香菓と呼ばれ不老不死を与えると言われたそうです。
オオカミだった私も七万年ほど前に常世神が宿り力をもらいました。私の願いはこの山の森と共に生きることだったので、死んだ後も残留思念としてこの森を護っているのです****
なるほど、おそらく『常世神』は過去の『世界さん』なのだろう。
アオムシ、オオカミ、きらり、他にも生き物を渡り歩いた痕跡がどこかにあるのかもしれない。
「確かに、私の中にいる『特別な存在』はあなたの言う『常世神』なのでしょうね。理由があっていまはその方の力は封印しているけど」
****やはり、そうでしたか。まじないの言葉は違いましたが、力の現れようが常世神のものと同じでしたので。
光市は私の思念の影響を知らず知らずのうちに受けていたのやもしれません。白犬を遣わせたこと、目の前に力を持ったあなたが現れたこと、それらが合わさってこの度の祈祷のような行いとなったのでしょう****
「食べないの?」
振り向いてフライドチキンを祠の前で誘うように揺らした。
****あなたが食べた思いを共にしていただきます。ピザは、私はトマトがあまり好きではありません****
「うん、ピザはもう味付きのダンボールみたいになってるしね」
そう言いながら、ダンボールの一片を口に押し込んだ。
「でもさ、常世神って、全宇宙を統べるみたいなこと、言ってる割に、結構日本の狭い範囲でうろついてるんだね」
宇宙の広さを考えたら、この日本に何度も現れる確率はかなり低いはずだ。宇宙に生命のある星は少ないんだろうか。
****お聞きになってません? 常世神は五億年も前からずっと、ほとんど地球にいて、しかもこの地域にだけ住まわれているのですよ****
私は喉に詰まりかけたピザをコーラで流し込んで、ひとつしゃっくりをした。