(百二)
(百二)
ピシッ……。
嫌な音にハッとした。
ギシッ、ミシッ、ミシッ……。
こうちゃんの動きにベッドが揺れている。
古いベッドが壊れてしまいそうだ。
こうちゃんの動きが速く激しくなってきている。
リズムがアップして、こうちゃんの身体が熱い。
いよいよ、終わるのかな?
それにしても、さっきのビジョン。あれはきっと瑞穂さんの記憶だ。
昼間にうたた寝したとき見たのはこのベッドの中に瑞穂さんが隠されていたからなんだろう。
あの意味はなんだ。誰かに追われて、逃げて。
私に何かを伝えたかったのだろうか。
ギギギ、ギギッ……。
「瑞穂ぉっ!」
――――こうちゃん…………。
こうちゃんの叫びに応えた微かな声はまさか瑞穂さん?
いや、感じが違う。私の下にいる瑞穂さんからの声じゃない。
――――こうちゃん…………。
でも、こうちゃんの呼びかけに応えるこの声は間違いなくあのビジョンの中の瑞穂さんの声だ。
――――こうちゃん…………。
……確かに、この声は私の頭の中からだ!
どうして瑞穂さんが私の中にいるんだ。
………………んっ!
もう何度目の〝ドーパミンの爆発〟だろう。
瑞穂さんに呼び掛けるこうちゃんに、私の中で瑞穂さんが応えている。
そして、その声がだんだんと強くなってきている。
本当に瑞穂さんが復活するのかもしれない。
いまは私の心の中での瑞穂さんの意識の声なので、まだこうちゃんには届いていないに違いない。
「こうちゃん」
えっ、私、声が出た。お薬の効き目がなくなってきたんだ。
こうちゃんが〝おや?〟って顔で私に顔を向けた。
「瑞穂さんが、呼んでる」
こうちゃんがにっこりと満足気に頷いた。
「そうか、もう少しだ」
私の頭をご褒美のようになでて、久しぶりにキスをしてくれた。
優しく甘く触れられて、私はその喜びでまたこうちゃんに〝力〟を捧げてしまった。
私の敏感な反応にこうちゃんは私の頬をなで、首筋をなで、そして肩から胸に手を滑らせた。
こうちゃんは私の胸を大切な宝物のように手のひらで包んで……。
えっ、私の胸!?
まったくの平板で、背中か胸かをトップの有無でしか判別できないような私の胸にこうちゃんを魅了するような乳房がぷるんと乗っている。
確かめようと左手を上げて息を飲んだ。
手が、これは私のものじゃない。
そうか、これは……、私の胸も手も、どれも瑞穂さんの胸と手だ。
脚は? 腰は? 変わらず私の体感なのに、私の下に誰かが寝ている感覚がまるでない。この寝台の中にいるのは私とこうちゃんしかいない!?
「気が付いたかな?」
こうちゃんが微笑む。
……んんっ!
ズズッ……。
こうちゃんの動きで〝力〟が湧き上がった瞬間、私の体がほんの少しだけど沈む感覚が分かった。
私は無理やり起き上がろうとした。けど、こうちゃんの体に阻まれて背中をベットの底板に押さえつけられたままだった。
私の背中は間違いなくベッドの底板に接していて、確かに下には誰もいない。
「そうだよ、きみが満たされる度に少しずつ瑞穂と融け合ってるんだよ。あと少し、もう首から上だけだ」
ぜんぜん気が付かなかった。
お薬で体が動かなかったことと、長時間での疲れ、それに沸き立つ〝幸福〟に対する期待と楽しみが、瑞穂さんの存在を忘れさせていた。
このまま、頭が融合したらどうなるんだ。
私は完全に瑞穂さんの体になっちゃうのか。
瑞穂さんの体の方がきらりの貧弱な小学生女児の体型よりもずっと魅力的なボディだと思うけど、そのままおじいちゃんのお嫁さんになるのは勘弁して欲しい。
私にはまだまだやらなきゃならないことがある。
「瑞穂、さあ、もう五時間が過ぎたよ。もうすぐ願いが叶う」
あ、あと、四分と少しだ。
どうなるんだ、私は。このままこうちゃ……ん、んっ……んんーっ!
****すまないね。白い乙女よ。
確かにその体は、五十年前に死んだ光市の妻瑞穂だが、光市があの寝床の中に納めてずっと傍に置いていたのか……****
『だれ?』
****私は『天地』。おまえたちが『十二様』と呼んでいる『山の精』だ****
『あめっち……』
可愛い名前だ。
****……あめ……、まあいい。
若いおまえは知らぬことだろうが、いまから五十年ほど前のことだ。
この国では理想に燃える多くの若者が、自由を勝ち取ろうと社会と闘っていた、そんな時代があったのだ。
光市と瑞穂もそんな革命を目指して理想を追う学生だった。
しかし、当時この辺りの山岳地帯で起きた仲間割れによる凄惨な事件や山小屋での立てこもり事件を経て、人々の心は革命を追う若者たちから離れてしまった。
理想に燃えていた彼ら若者もまた、成すべき目標を失って空虚な生活を送るようになった。
そんななかで、光市と瑞穂は革命を棄てて地に足を着けた生活を送ろうとこの山の小屋で新しい暮らしを始めたのだ。
やがて、瑞穂が子を宿し、革命のこともすっかり忘れていたある日、瑞穂が学生時代の知人を通じて平和的革命を目指すという団体からの誘いを受けたのだ。
この山の奥にあった山小屋で、未来の子供たちが希望を持って生きられる社会を作るという団体〝子供の家〟が勉強会を開いていて、彼女はその誘いに新しい希望を見出したのだった。
だが、その団体は名ばかりのもので、実態は革命とは程遠い保守的な学生のふざけた集まりで、〝赤狩り〟と称しては元の革命グループから溢れて新しい目標を探している真面目な若い女を会合に誘っては集団で辱めるという卑劣な集団だった。
辱めを受けた女が被害を訴えることなど考えられない古い時代だ。ヤツらは好き放題だった。
山の中で騒ぎ、酒色に溺れ、花火を上げ、タバコの吸殻を森に捨ててボヤになることも度々だった。
私は森を荒らすヤツらが疎ましかった。けれど、私にはその頃、直接手を下す力を持っていなかった。
そんなある寒い日のことだ。その山小屋で瑞穂がヤツらに辱めを受けた。必死に逃げ惑う瑞穂をヤツらは兎狩りでもするみたいに追い回し、そしてあの私の祠の前で再び乱暴を働いたのだ。
それで、瑞穂は真冬の山に放置されて、亡くなったのだ。
明け方になって既に冷たくなった瑞穂を発見した光市は、全く迷わなかった。すぐさま山に入り〝子供の家〟に残った六人を葬って山の風穴に落として棄てた。風穴の縦穴は深く、二度と陽の光に当たることはない。
光市はその他でも山で狼藉を働く腐った連中をことごとく駆除した。瑞穂の復讐と煌理と名付けるつもりだった腹の子への弔いだったんだろう。
私の山は平穏になり、私は光市に報いるように、光市が瑞穂の亡骸をきちんと弔うまでの当面の間、その姿が衰えぬようにわずかだが力を植え付けた。私が常世の神であった時代なら、瑞穂を生き返らせることも容易いことだったろうが、ただの山の精ではどうしようもない。
光市はそれからも山で不穏なものがいると、排除してくれていた。あの祠を守っていたのも光市だった。
あの祠は私にとっては、この世との接点、顔であり口であり乙女でもあった。
そこを甲斐甲斐しく慈しんで世話をしてくれる光市に、いつしか、私は親しみ以上の感情を抱くようになった。けれども、私には光市のそばに行くための体がないし、私の思念は山から離れられない。
それで、白犬を遣わしたのだ。
白犬は光市のためによく尽くしてくれた。あの子も光市に愛されたかったのだ。
しかし、光市はあの白犬が私の遣いだと感じ取っていたのだろうな****
『どうして、いまこんなときにそんなことを私に教えてくれるの?』
あと、もう残された時間はわずかしかない。
こうちゃんの動きがどんどん速まって、私の奥が熱を持って蕩けて沸き立ってきているのを感じる。
いよいよその時が来るのだ。
****人が私と交歓できるのは、巫のような特別な力を持った者か、あるいはいまのおまえのように兆し昂っているときだけだからだ。
伝えねばならない、おまえはまもなく消える****
『消える!?』
いなくなるのか? 死ぬのか? 意識は? 体は?
****光市はまもなく果てる。
光市がおまえに気を送り続けているからそれが分かるだろう。
光市とおまえが同時に常世国へ達したとき、光市がおまえの中に持てる全ての〝情念〟を撃ち込む。
人間の男子が生涯に生み出す精の数は一兆匹だそうだ。
光市はおまえと五時間あまり交わり続けて、おまえから受け取った〝情念〟で、この五十年間、一万八千二百六十三日分の瑞穂に注ぐはずだった精の数、およそ一兆匹をその身に蓄えた。その〝情念〟の爆発で瑞穂は完全な姿で甦る。
おまえが白犬の体を使ったように、今度は光市がおまえを瑞穂に与える魂として利用しようとしているのだ。
まもなくだ。
おまえも最後の頂点に達する。
光市の〝情念〟におまえも滾っているはずだ。その流れに逆らうことはできないだろう。
瑞穂が甦れば、もうおまえも白犬もいなくなる。そうなればもう私にはどうすることもできない。
白犬を遣わせた私の、人間の男に情を兆した私の誤ちだった。
すまない、白い乙女よ****
私は……、消えるのか。