(百)
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私はこうちゃんの膝枕で半分眠ってて、残りの半分でこうちゃんを感じていた。
こうちゃんが私の体をずっとなでている。
大きな手が私の心地よい部分を全部知っているように、ゆりかごみたいに私の心も体も揺らしてる。
なでながら、こうちゃんは空いた手で冷めたピザのひと欠けを摘み上げ、固くなったクラストを苦労しながら口の中に押し込んで、気の抜けたコーラで喉の奥に流し込んだ。
ごくりという喉を鳴らす音が体を伝って私の頭に響いてくる。
なにか気持ちのつっかえを押し流すみたいに飲み込んだピザで、こうちゃんはためらうようになでていた私のお腹で手のひらを止めた。
こうちゃんの手のひらが熱く汗ばんでいる。
「みずほ……、おまえは、本当にみずほなのか?」
こうちゃんの声が微かに震えていた。
そうか、こうちゃんは私を愛することを迷っていたんだ。私の肌に触れることに……。それで、ようやく心を決めたんだろう。
私は寝た振りをしながら、分かりやすく頷いた。
これから起こるよくないできごとを考えないように頭の中から追い出して、みずほが望むだろうこうちゃんの思いに身を委ねた。
こうちゃんの湿った手のひらが私のお腹をゆっくりと動き始めた。彼の指先が柔らかな部分をかすめて、内腿とお尻の間を往復する。
時々、行き交う指が私の隙間にためらいがちに触れて、私はその手の動きが見えていないことをこうちゃんに示すために、膝枕のうえで寝返りをして、彼のお腹の方に顔を向けた。
私の寝返りにいったん手を離したこうちゃんは、すぐに私に戻ってきた。
私の目の前には、あのトランクスの隙間があって、あんまりそれが近くにありすぎて、思わず笑いそうになって、キュッと目を閉じた。
そんな私の表情を見たのか、こうちゃんは安心したように、もう一度、私に手をあてて指を動かした。
私はみずほになっている。
あの小さな祠の前で命の灯火が尽きようとしていた煌めくように真っ白な山犬の心に。
ひょっとしたら、みずほはこれを望んでいたんだろうか。
みずほの姿のままではこのひとを愛せない。その苦しみ悲しさを、私という人間の体になることで克服しようとしたんだろうか。
雌性生物の肉体が欲しかった私と、人間の体を欲したみずほの思いが通じあったのか。
私にはみずほに代わってこうちゃんとそこまでやる義理があるのかどうだか分からなかった。いや、そんな義理はないって方に気持ち的には傾いていた。
それなのに、私のどこかにみずほが残っていて、クリスマスのパーティの間中、これは〝義理〟ではなく〝望み〟なのだと訴えていて、私の脳がそれに賛意を示し始めていた。
しかも、彼の指が積極的になればなるほど、その賛意は票を伸ばし、学級委員の選挙みたいに黒板に〝正〟の字を増やしていって、私の意見は少数派となってしまった。
それで、みずほの望みはいつしか私自身の望みに変わって、もはや責務となってしまった。
「こうちゃん……」
「みずほ……」
思わず名前を口にした私のつぶやきに、絞り出すように応えた彼の狂おしい呼び声は、けーくんが私を〝文香〟と呼ぶときの切ない響きに似ていた。
私にできるみずほへの恩返しは、みずほの望んだこうちゃんへの思いをここで果たすことに違いない。
この小屋でのこうちゃんとみずほの関係はいったいどんなものだったんだろう。
こうちゃんはみずほのこの最期の思いを受け入れてくれるんだろうか。
まだ半分以上残ったクリスマスケーキも食べかけのチキンやポテトも、栓を開けたコーラのペットボトルも、なにもかも片付けないままで、明日の朝、私たちはこの、床に広げたまんまの馬鹿げた風景、を一緒に笑うことができるだろうか。
私はどこにあるのかも分からない、みずほの亡霊に支配されてしまったことにして、こうちゃんの相手をする覚悟を決めた。
いいんだ、仕方ない。どうせそうならなきゃ収まりが付かないんだから。
ワンピースの裾が捲れてるのも気にせずに、犬のようにお腹を見せてだらしなく脚を開くお行儀の悪い子。
そんな私をこうちゃんは、ほんのわずかな時間で、けーくんが一時間かけてもたどり着けないような高みへ、何度も何度も連れて行ってくれていた。
今夜は聖夜なんだ。このまま天国にさえ昇ってしまってもいい夜だ。みずほのために、こんな夜があってもいいんだ。
私はまぶたを開いて、大きく深呼吸して、胸の奥で熱くした吐息を目の前のトランクスの隙間から覗く彼に吹き掛けた。
それで、手を伸ばして口付けをした。
こうちゃんは私に添える指先にぎゅっと力を込めて、身体を震わせた。
口元にあるこうちゃんは、幼い子どもの玩具のように暖かでくにゃりと柔らかく不思議な感触だった。
こうちゃんは戸惑う私の頭を優しくなでた。
「みずほが嫌だとか、そういうのじゃないよ。僕は、妻以外ではダメなんだよ」
こうちゃんはそういうとふっと寂しそうに笑った。
私の意識をみずほの哀しみの感情が一気に覆った。
私は雄とのそういう経験がないし、人間の雄のことはなおさらよく分からない。
「こうちゃん、こうちゃん」
心配になって、私は急いで起き上がって彼の耳の後ろの匂いを嗅いだ。こうちゃんは疲れるとここの匂いが酸っぱくなる。
こうちゃんはくすぐったそうに、私の頭をポンポンと叩いた。
「心配してくれてありがとう。でも、疲れたからじゃないんだ。妻があの日長い眠りに就いてから五十年間ずっとこんな……、このままなんだよ」
こうちゃんは私を抱きしめて口付けをしてくれた。
歯磨きを忘れた私の口の中をすっかり綺麗にしてしまうぐらい情熱的な口付けに、歯科検診のときみたいにあごが外れそうなほど頑張って口を開いていた。
そうしないと、こうちゃんに顔の半分を食べられちゃいそうな勢いだったからだ。
こうちゃんは口を離すと、近くにあった残り物のフライドチキンを摘み上げて一口かじると、私に口移しで舌で押し出すようにそれを流し込んだ。
こうちゃんが噛んだ肉は柔らかく、離乳食のように私の喉を通った。
こうちゃんはもう一口、私に熱いチキンを振舞ってくれた。
甘い肉汁に私が次をねだるとこうちゃんは、すっかり冷めてチーズも伸びなくなったマルゲリータを、体温まで温めて私に与えてくれた。
こうちゃんの口の中で蕩けるようになったクラストとチーズはトマトの酸味と熱く香り立つバジルが調和して、私の体を情熱の国イタリアに誘ってくれる。
その間も、こうちゃんのもう片方の手と指は私の情熱の国にあって、天地創造の悦びを与え続けてくれている。
チキンもピザもポテトもケーキに乗ったイチゴまで、こうちゃんは私に全てを与えてくれる、本当に〝主〟だった。
こうちゃんが温めたコーラを私に注いで、口の中をもう一度洗ってくれた。
私はこうちゃんのおかげで、ヴァチカンの礼拝堂の天井まで、天使の掛けた梯子を三度も昇ってその貴重な体験に夢見心地になっていた。
「眠いのかな?」
こうちゃんの息が顔にかかっても、私はぼんやりとしてて、言葉を上手く理解できないでいた。
こうちゃんは私の様子を確かめるように、体をゆらゆらと揺らした。
揺れるとさらに頭の芯の方から眠くなってくる。
なにか言おうとしたけど、口元が緩んだだけだった。
こうちゃんは私をラグの上に寝かせると、立ち上がってベッドに向かった。
もう、寝るのかな。
私は消え入りそうな意識の中でぼんやりとその状況を眺めていた。
こうちゃんは……、布団を直してる……。あれ、ベッドから布団を下ろした……。なにをしてるんだろう……。
それにしても、眠い……。
……そうだ……、これはお薬だ。
こうちゃん、私みたいな子供にこんな大人の用量は多すぎるよ。
私は急いでお薬を分解しようとして、まったく〝力〟が溜まっていないことに、いまさら気が付いた。
さっきから散々ミケランジェロの天井壁画鑑賞を繰り返して心も体も打ち震える思いを感じているのに、その興奮の余韻も冷めやらぬうちに、底が抜けたように〝力〟がなくなっている。
まるであみこのときと同じだ。
この体がまだ馴染んでいないのだろうか。それともこの体を与えてくれたみずほがなにがしかの干渉をしているんだろうか。
まあ、弥生ママのお薬漬けのおかけで〝力〟がなくてもこの程度のお薬はあんまり効かなくなってるからなんとか意識を保っていられるけど肉体はまったく言うことを聞かない。
さっきの私とこうちゃんとのぬるぬると湿った関係なら、そんなお薬に頼らなくてもなんとでもなるだろうに。
どちらかと言うと、なんともならなかったのはこうちゃんの方なんだから。
こうちゃんがゆっくりとこっちに戻ってきた。
「ん、起きてるのかい?」
私の目玉がこうちゃんの動きを追っていることに、びっくりしたようすだった。
でも、ぴくりとも体は動かず、頷くこともできない。
こうちゃんは私が動けないことに満足したみたいで、優しく微笑んで頭をなでた。
体を起こされ、くにゃりとしたままワンピースをするりと取られて、抱き上げられた。
私はこうちゃんの表情に目をやった。なぜか、それでも〝いいひとだけが取り柄〟の顔だった。
「みずほを探して祠の前できみを見つけたとき、本当に驚いたよ」
こうちゃんが優しく話しかけてくる。
私はそれをじっと聞いているしかできない。
「僕は、きみがみずほだとすぐに分かったよ、透き通るような肌と真っ白な服、それに、そのみずほが着けていた首輪でね」
首輪!?
「……でもそんな鶴女房のような話がすぐには信じられなかった……。すまなかったね」
そうだ、みずほは白い革の首輪をしていた。
あの子の体に入ったとき、首輪をそのまま受け継いでいたんだ。私の首のサイズにぴったり合っていたことと、私がパンツですら身に付けていることを感じない裸族体質なことが首輪の存在を気付かせずにいたんだ。
いなくなった飼い犬の首輪をした女の子が目の前に現れたら誰だって訝しく思うだろう。
まるで鶴女房、か……。私にできることは機織りではなく、もっと即物的で生々しいそういうことだったんだ。
ひょっとしたら、この首輪にみずほの思念が残っているのかもしれない。
「ほら、見てご覧、見えるかな?」
こうちゃんはベッドの脇に立ってるようだ。私を抱いた腕を少し傾けて、ベッドの中が見えるように顔を向けさせた。
なんだ!?
ベットの中に……、さっきこうちゃんが布団を取って底板を外したんだろう、その巨大な箱となったベッドの中に、煌めくように真っ白な女の人が眠っていた。




