第2話 鏡の向こう
「ただいまー。」
遠くから聞こえたのは母の声だ。深く沈んだ意識を重々しくも持ち上げる。黒い陰から、部屋の白へと景色が見える。私は大きく息を吸い、
「おかえりー!」
と、母に十分聞こえる声量で返事をしたのだ。さもないと母の機嫌を損ねさせてしまうように感じる。制服から解放された無防備な肌を見る。下着だけの姿で私は眠ってしまっていた。カーペットをはい、身体を捻り、脱ぎ散らかした服をもう一度手に取ってはき直した。裸に近い姿は誰にも見られたくなんてないからな。服を軽く着た私は一階にある風呂場へと向かったのだ。
シャワーを頭から浴び、髪を伝って連続に滴るお湯を眺めた。またいつもの景色だ。しかし、いくら眺めても飽きることはなかった。全身は温かさに呑まれ、湯気に囲まれながら、今日はいつもと違う風変わりなことをしてみよう。と考えてみた。
私はぎこちなく腰を下ろし、異様な背中の感触に少し怯えながらも、ゆっくりと床に寝そべってみた。シャワーの粒は徐々に細かく広がり、身体を柔らかく打ち続けた。真っ裸な姿に気恥ずかしくなりつつ、目を細く開いてみせた。そこにはね。一つ一つの水滴が、宝石のようにきらきらと丸く光を放っていたんだ。
ああ。羨ましい。
呆けた気持ちのまま、私は生きる宝石を眺め続けた。何が羨ましいのだろうな。よく分からないが、ただ羨ましい。そう感じたのだ。
カマキリが土の上で死んでいた。当たり前のように。眠るように。誰かに踏まれた後だろうか。胴体が潰れていた。
カマキリはそのまま土に還るのだろうか。
ああ。羨ましい。
私も眠りたい。
恨めしく光の粒を眺めながら、帰路の途中に見つけたカマキリの遺骸を思い出していた。
「ねえ。だれか。私をさらってしまってよ。」
手を上へと当てもなく伸ばしてみる。どこか遠くへ連れ去ってほしい。早く私をさらいに来て。ここにいるからさ、早く…私を…。
なんてね。
そんなものはないもんね。
目を重く伏せ、起き上がる。生きてるって本当に辛い。
曇った鏡を擦り、自分の顔を見た。
そこには神代優が映っていた。いつまでも覇気のない瞳。
両手をつき、鏡の向こうにいる私と額を合わせた。
大丈夫。私はここにいる、と慰めるように。